第九話(一)
新年早々のひったくり事件は、ちょっとしたニュースとなった。
神聖な神社で中年婦人のバッグを盗み、女子中学生を突き飛ばし大怪我を負わせた無職の青年は間もなく逮捕されたが、「大鷄島も物騒になってきたなぁ」と新年早々、地元住民を不安な気持ちにさせる嫌なニュースだった。
「物騒だな」と他人事のようにニュースを観ていたクラスメイト達も大怪我を負った女子中学生が、まさか詩織のことだとは思いもしなかっただろう。
石段から転げ落ちたとき、頭を打ったり、顔に傷がつくことはなかったものの、詩織にとってこの階段落ちは決して軽い事故ではなかった。
全治まで数ヶ月単位の骨折。
(足や左腕ならまだしも……)
折れたのは、よりによって右腕だった。
――あんたって子は本当に!
祖父を亡くしたばかりで今度は娘が腕を折るほどの怪我を負った。詩織は「ごめんなさい」とひたすら謝るしかなく、母親の涙もまたひどく心に痛かった。
二月の上旬に受験を控えた身で利き腕を折ってしまう。受験生にとって最悪の事故だ。普段通りの力を発揮できれば余裕とまでは言わないにしても充分合格できるはずだったのに、この事故で受験戦線にアラームランプが点灯し始めた。
冬休みが明け、大層なギプス姿で登校してきた詩織に誰もが驚いた。それもひったくり事件に巻き込まれての怪我だ。勉強ばかりの単調な日々が続く中で、彼女の不幸はクラスメイトにとっては丁度いい刺激となった。
(見世物じゃないっての!)
とはいえ、表向きには「大丈夫?」「大変だったね」「なにかあったらいつでも頼ってね」と心配してくれているので、
「心配してくれてありがとう」と、こちらも愛想よく振る舞わざるを得なかった。
「まともな文字が書けないだけじゃなくて、食事も入浴も生活のすべてが不便」
腕を折ってはや十日、妃にだけは胸中を打ち明けていた。
「なんでもできることがいかにありがたいか、毎日のように痛感してるよ。事あるごとに『まいったな』って呟いてるし」
「その割にはあんまりまいっているようには見えないけど」
「落ち込んでる暇ないからね」
強がりではなく開き直りだ。
「そうだ。このノート見てくれない?」
詩織は国語のノートを妃に見せた。
「うわ、読める字になってる!」
左手で書いたノートに、妃はへーと感心していた。
「特訓の賜物。なかなか上手く書けてるでしょ?」
「折ったの年明けでしょ? 十日そこそこでこんなに書けるようになるんだ……」
「曲線とか丸っこい文字はまだふにゃふにゃだけど、カクカクした文字は結構書けるようになってきたよ。上達が早いもんだから、腱鞘炎には気をつけるようにって、医者に昨日釘を刺されたぐらい」
「そっか。左まで使えなくなったら終わりだもんね」
「うん。いまはそれが一番怖い。左まで使えなくなったら、口にくわえて書くしかないし」
「大変ね」詩織の返答に妃はあきらかに引いていた。
「去年までの私なら荒れていたと思うけど、人間どうしようもないと開き直るしかないね。悲劇のヒロインを演じたところでどうにもならないし」
詩織は左肩だけ竦めた。こういうところでも不便を感じる。
「タフなのはいいけど、あんまり強がらないでね。困ったことがあったらいつでも言ってくれていいから」
「友情に涙が出そう」
茶化すと、(あのね)と妃の表情が険しくなった。
「ごめん。なにかあったらそのときは頼るかも」
詩織は慌てて謝った。
「次は移動教室だけど、教科書をお持ちしましょうか?」
「いや、いいよ」
「あっそ」
妃はプイと顔を背けて行ってしまった。
(調子に乗りすぎたな)
そろそろ昼休みが終わるので、詩織は移動教室の準備をすることにした。
「よっと」左の脇に教科書を挟み込むのも慣れてきた。
(理科ならまぁいいか)
国語、英語、社会、数学、筆記が多い科目は慣れない左手をそれだけ消耗する。先ほどは冗談で済ませたが、残った左手が使えなくなるのは本当に怖い。慣れないほうの手はどうしても余計な力が入ってしまうので、気をつけないと簡単に故障してしまうだろう。
本音を言うと、無駄な消耗を抑えるためにも、妃にノートのコピーを取らせてもらいたいし、授業の板書ももう少しゆっくりとしてほしかった。
――ノートのコピーいる?
――柳間、板書もう少しゆっくりしたほうがいいか?
どちらも断ったのは、不慮の事故だったとはいえ、この件はすべて自己責任だからだ。喪中にも関わらず初詣に行った。自らの軽率な行動が招いたことで周りに迷惑をかけられるものか。
理科室に向かっている、いまこのときも左肩がぴりぴりと痺れていた。それでも、他人に甘えたくない。一度甘えることを覚えてしまったら心が弱くなってしまう。苦境に立たされたときこそ成長のチャンスだと考えるなら、今日こそ言うべきだろう。
二階堂文雄に、「私のことはもうほっといて」と。
★★★★★★
「あの子、私達にずっと謝り続けていたのよ」と母親から聞かされたとき、頬がビキッと引き攣ったのを覚えている。
――詩織さんに大怪我させてしまって本当にすみません。
病院の待合室で土下座をしそうになったのを、両親は慌てて止めたのだそうだ。
ひったくり犯が悪いのであって、彼はなに一つ悪くないのに、あのとき掴めなかった手をいまでも悔やみ続けている。
「おっす。今日は用事とかある?」
しかし、放課後毎日迎えに来てくれる文雄のことを、詩織は初日から重いと思っていた。
「特にないよ」
「んじゃ帰ろっか」
文雄はひょいと詩織の鞄を持った。洗練されたエスコートは、いつものように(お嬢さん、鞄をお持ちいたします)から始まる。
「ありがとう」
にこやかに感謝を口にするのは、あくまで皆の前だからだ。皆の前で「私に構わないで」と突っぱねたら文雄に恥を掻かせてしまうことになるので、「またマネージャー来てる……」と陰でコソコソ言われていても、(なにも聞いていませんよ)と無視し続けなければならなかった。
教室を出るときに振り返ったら、彼女達はさっと目を逸らした。
「どうしたの?」
「なんでもない」
それでもニヤニヤしている男子がいたので、そいつを思い切り睨みつけてやった。
(おっかねえな)と言わんばかりに、彼は首を竦めた。
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