第十話(一)

 二月上旬、受験当日。大鷄島市に二十年ぶりの雪が降った。

 降ったといっても、それはパラパラと小雨に白色がついた程度のもので午前中には上がったが、生の雪を見たのは初めてだった。

「滑って転んだら洒落にならないわ」

 母親の運転する車で受験会場に向かいながら、

(受験は上手くいきそう)と詩織はこの特別な光景に吉兆を感じていた。

「頑張ってね」

 右腕を大層に吊っている詩織は、会場に着くと周りの注目を集めた。ぽかんとした彼、痛そうと顔を顰める彼女、ライバルが一人減ったことにほっとしている秀才くん……。

 大鷄島中学校の制服もちらほらと見かけた。同級生達は目が合っても詩織に声をかけることはなく、さっと目を逸らして受験生が密集している場所へと消えていった。

 詩織は息をつき、「そんなもの」と呟いた。この数ヶ月で変わったものもあれば、結局変わらなかったものもある。

「そんなもの」と呟く彼女にはかつての悲壮感はなく、表情は晴れ晴れとさえしていた。

《しっかりね》

 今朝、妃から届いたラインを最後にもう一度見てから、(やるか)と校舎へ向かった。

 受験はやはり午前中の文系科目に苦戦した。今年から問題製作者が変わったのか、国語、英語、社会と、どの科目も文章を書かせる問題が多く、解答用紙を見たとき、

(神様は最後まで試練を与えてくるみたい)と詩織は苦笑いした。ギプスをしているからといって問題が変わるわけでも、(うわぁ)と心配そうにこちらをチラチラ見てくる試験官だって特別扱いしてくれるわけではない。自己責任の四文字はどこまでもつきまとう。ここまできて泣きごとはなしだ。

 試験が始まる前からハンディを負っている中で、どう切り抜けて行くか。書くのはもちろんのこと、消しゴムを使うのさえひと仕事だ。

 解答をほとんど一発書きで切り抜けるしかなかった。

 たとえば、三十文字前後で解答しなければならない問題に遭遇したなら、頭の中で三十文字ぴったり文句なしの解答を構築するまではペンを持たなかった。箇条書きのメモを取ったり、冒頭を少し書いてから徐々に解答に近づけていくやりかたは矯正せざるを得なかった。いくら知識があったとしても、解答欄が白紙では落ちてしまう。

 年明けの骨折から今日に至るまでの約一ヶ月間、詩織は新しい戦いかたを身につけることにとにかく必死だった。

 自分の意思でたくさんのものを手放したのだから、絶対に勝たなければならない。

 午前の試験が終わったあと、一人で昼食を取りながらスマホを触っていたが、当然文雄からメッセージが届いているはずもなかった。密かに期待していたこと自体あまりにも身勝手だと、詩織は自分を軽蔑した。

 雪が止み、灰色の空からは光の筋が降り注いでいる。

(私はこれからどこへ向かっていくんだろう)

 詩織は漠然と思った。


 午後の理系科目は、午前の試験とは打って変わって選択肢問題が多く、さほど苦労することはなかった。

 詩織の受験はこうして危なげなく終わった。三年間勉強しかしてこなかったことにコンプレックスを抱いていた時期もあったが、やって損のない点取りゲームをやっていてよかったと、いまは心の底から思う。

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