第九話(二)
「この河川敷にはときどき散歩で来るの」
鞄を持ってもらっておきながら寄り道に付き合わせてしまうのは気が引けるが、通学路だと学校の人間と会ってしまう。同級生でなかったとしても、一年生、二年生と、とにかく今日は学校の人間に会いたくない。これからする話は人目を気にしながらできる類のものではなく、雑談の途中でするにも思い詰めた内容だった。
「こりゃいい散歩コースだわ。でも、いまは夕日がキラキラ反射しすぎてちと眩しいや」
ガラスの破片をばら撒いたように川面がキラキラと眩しい。茜色に輝いている川はなかなか直視できない。けれど、目を細めながらでも、自然の飾らない美しさには心を奪われるものがあった。
「冬の、こうキリッとした感じもいいけど、春になったらまたいい感じなんだろうな。あの木にも桜が咲いてさ、絶好の花見スポット」
なに一つ悩みがなければ、彼とこうして河川敷のベンチに座りながらまったりと話すひとときは、とても素敵なものになっただろう。小説の話をしたり、受験早く終わらないかな、と普通の中学生らしい話をしたり……。
「文雄、今日は話したいことがある」
「ん、なんだい?」
言葉の調子は相変わらず軽いが、表情の明るさはずっとつくりものめいていた。ほとんど一人で喋っていたようでいて、彼は常に詩織を目の端に映していた。いつになく思い詰めた表情でいる彼女を。
「話ってなに? 焦らすなよ」
「そう、だね」
迷う時間が長引けば長引くほどお互いに辛い思いをするだけだ。詩織は「ん」と下唇を軽く噛んでから、最初の嘘を口にした。
「この間、クラスの女の子に『文雄と付き合ってるの?』って訊かれた」
「お、おう。それはまた、光栄な話だね」
普段の文雄なら「マジで?」と大袈裟に喜ぶフリをしていただろう。そんな彼に私は「迷惑な話だよ」とでも返す。――このようなやりとりが実はそこまで嫌いじゃなかった。
「文雄は周りに気配りができてとても優しいよ。だからこれを気に病むのも分かるし、私の自己責任だろうと……気にしないでって言っても」
詩織は右腕のギプスに視線を落とし、それからすぅと軽く息を吸った。
ゆっくりと吐き終えたあとに、彼女は言った。
「でも、そろそろ窮屈になってきた」
突き刺すつもりで言った言葉は、自分の胸にも深々と刺さった。
「一昨日うちに上がったよね」
「柳間の母さんが招いてくれたからな。断るのもよくないだろ?」
「そうだね」
娘が毎日世話になっているのだから、親としてちゃんと礼を言っておきたいと、「お茶でも飲んでいって」と声をかけるのはなにもおかしくない。
「だけど私、恥ずかしかった」
二つ目の嘘。詩織は話をいくらか盛った。
「母さんは君のこと『礼儀正しい男の子だ』って、ますます気に入ってたよ。……ただね、よくある話といえばよくある話なんだろうけど、父さんが急に不機嫌になって、それで『俺にも会わせろ』って――」
どれだけ大変なことになったか、修羅場のイメージをしっかりと植えつけられるように、詩織は精いっぱい苦笑いを演じた。
「変に受け止めてるのは私だと思う。文雄はなにも悪くない。悪くないけど……またああいうことになったら、正直面倒かな」
もちろん事実はそこまで荒っぽくない。娘のボーイフレンドに対する本心はともかく、「いつか俺からも礼を言わないとな」と、妻の話を穏やかに聞いていた。
「……そっか。嘘でもなんでもいいからやっぱり断っとくべきだったか」
話を盛っただけに、本当に申し訳なさそうに言われて心苦しかった。
「だから『これからはなに一つ彼には頼らない』ってはっきり言って、それでなんとか場を収めた」
ピシッ。文雄の顔に心の亀裂が浮かび上がった。
「文雄にだって受験があるでしょ?」これは本音だった。「鞄を持ってくれたり送り迎えをしてくれたり、それはいつも本当に助かってる。だけど――」
「いやいや、俺は余裕あるって。大鷄西ならともかく――」
「そういうことじゃないって!」
詩織は強く言った。
「私と文雄の繋がりは小説だけ。それ以上はなにもない」
言いかたを変えれば、小説以外の繋がりはいらない。
「忙しいときでも書いたものを読んでくれるし、アドバイスもしてくれる。いつも陰から見守ってくれて、私が気づいてないだけで、たぶん他にも色んなところで何度も何度も助けてもらってると思う……」
詩織はこれまで(どうしたら相手を傷つけずに済むだろう)と考え続けてきた。
その前提が間違っていたと気づいたとき、頭を抱え、他の方法がないかと必死に考えたが、どうしてもこの方法しか思いつかなかった。
「文雄は、私を小説の世界に誘ってくれた」
辿り着いた答えは、「中途半端は絶対によせ」だった。
鼻の奥がツンと熱くなっても、ここでやめるわけにはいかない。
「本当にありがとう」
中途半端な態度では、自分も未練が残り続ける。
「でもごめん。……長い間お世話になりました」
「あ、やっぱ冗談ではないと」
「これからは一人で行くから」
そのためには、優しい彼がもう邪魔なのだ。
「小説を書くってそういうことでしょ?」
「どうだろう。俺は楽しく書き続けられるのが一番だと思うけどな」
ほら、小説に対する考えかたもかけ離れてしまっている。
「そのことを否定はしないよ。ただ、君は君の、私は私の小説を書く。それを貫き続ける。そういうことだから」
二階堂文雄との別れも、きっと運命だったんだ。
「俺ら音楽性の違いで解散するバンドみたいだな」
「そうかもね」
冗談を口にしながらも、瞬きの数が嘘をつけずにいる。「そっか。残念だなぁ」
「さようなら」と彼に告げて、詩織は河川敷をあとにした。
★★★★★★
一月☓日
これでよかったんだ。
左手の特訓としてつけ始めた日記だけが、いまや詩織の声だった。
曲線や丸っこい文字はまだふにゃふにゃだが、この日の日記の、最後のピリオドは、気持ちを込めてしっかりと打った。
一月☓日
これでよかったんだ。
ちょっと辛いけど……文雄ごめんね。
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