第二話(三)

「……あの、凄く面白かったです」

 舞台後のアンケートを手渡したとき、詩織は勇気を振り絞って感想を直接口にした。

「まぁ、ありがとう」

 受付けのふっくら顔のおばさんは顔を綻ばせ、それから用紙の裏までびっしり書いてある感想に「まぁまぁ!」と声をあげた。

「こんなにいっぱい書いてくれて嬉しいわ。……もしかして妃ちゃんのお友達?」

「えっと……」

 違います、と咄嗟に嘘をつけなかった詩織は、そんなわけないのに「はぁ」とつい曖昧に頷いてしまった。

 すると、おばさんは「まぁまぁまぁ!」と、さらに「まぁ」を重ねて、詩織の手を取った。

「お友達が来るなんて初めてじゃないかしら?」

 ――へー、お妃の友達か。

 ――あいつ、友達いたんだな。

 ――君、演劇興味あるの?

 他のスタッフまでわらわら集まってきたものだから、「あの、その……」と詩織はすっかり固まってしまった。

「ちょっと待っててね。妃ちゃん呼んでくるから」

「あ、待ってくだ――」

 呼び止める間もなくおばさんは行ってしまった。

(まいったな)

 ――うちは年中メンバー募集してるから……あ、君も受験生か。

 ――観に来てくれてありがとう。早乙女さん、今日が南国演人での最後の舞台だったんだよね。

 ――南さん、そういうのやめて。俺、泣いちゃうから。

 愛されているんだな、と自分の居場所を持っている妃が、少し羨ましくなった。

 待つこと数分、おばさんは妃を連れて戻ってきた。

「詩織、来てくれたんだ!」

 舞台を降りたあとでも妃の演技は見事なもので、

「やぁ」と応えながら、詩織は笑ってしまいそうになった。さすが主演女優だ。


★★★★★★


「……で、なにしに来たの?」

 公民館を出てすぐのベンチに腰を落ち着けるなり、妃はぶっきら棒に訊いてきた。

(やっぱり前のこと怒ってる……)

 舞台を観る前は(少しでも話せる時間があればな)と思っていたが、いざ向き合うと緊張で上手く言葉が出てこなかった。演技に圧倒されたのもある。

「どういう風の吹き回し?」

「勉強……勉強しに来たの」

「勉強? なんの?」

 すぱっと訊き返され、詩織は一層萎縮した。「……小説の」

「小説?」

「ちょっと前から書き始めて、それで……」

 ごにょごにょと、いまにも俯いてしまいそうだった。

 詩織はこのとき、

 ――へー、根暗な柳間さんらしいね。

 嫌味の一つや二つ言われるだろうと思っていたので、

「小説! いいじゃん!」

 妃が好意的な反応を示してきたことに驚いた。

「二階堂に誘われたんでしょ?」

 文雄の名前まで出てきて、詩織はさらに驚いた。

「あいつ、作文読んだとか言わなかった?」

(どうして知ってるの?)

 顔に思い切り出てしまい、妃にくくっと笑われた。

「あの小説馬鹿、結構有名よ?」

「馬鹿? ……有名なの?」

「一年のとき、クラスメイトの読書感想文を読もうとして職員室に忍び込んだでしょ――朝の読書時間で皆がなんの本を読んでるのか全員分把握してたでしょ――あとはそうね、国語で小説の授業になるとやたらうるさい。……二年間ずーっとこんな感じ。どう? 伝わった?」

「……うん、引くほど伝わった」

「柳間さんの作文読んだとき、あたし思ったもん。『これは、二階堂が絶対目をつけるだろうな』って」

「え! 読んだの!?」

「そりゃ読むよ。あたしの華やかな記事の隣にあれだけペタペタ貼られてたら」

「ほんとに……?」

「あの根暗ちゃんがこんなにいっぱいなにを書いたんだろうって、なんとなく読み始めたら全部読んじゃった。文章上手いね」

「根暗ちゃん?」

 文章を褒められたことよりも、変な呼びかたのほうが引っかかった。

「おっと。いまのはなしなし。……でも意外だったな。まさか柳間さんが舞台を観に来るなんて」

「いけなかった?」

 詩織がムスッとした顔で訊き返すと、「違う違う」と妃は宥めた。

「嫌味で言ってるわけじゃないから。来てくれたのは嬉しいんだって。……ただ、柳間さんには嫌われてると思ってたからさ」

「……嫌われてる?」

 好きではないのはたしかだが、

「早乙女さんが、私をじゃなくて?」

 妃、自分、と指差しながら言った。

「私、この間、早乙女さんのこと引っ叩いたよ?」

「引っ叩いたねぇ。女優の命でもある顔を」

 妃はニヤつきながら、詩織が引っ叩いた箇所をぺちぺちと軽く鳴らした。

 罪悪感が喉まで迫り上がってきた。

「あの、いまここで引っ叩き返してもいいよ……」

 目には目を、ビンタにはビンタを。左頬を差し出したら、妃は一瞬ぽかんとした。

 そして、「あはは、なにそれ!」と声をあげて笑い出した。

「冗談だって。柳間さん、おもしろ!」

「私、今日は引っ叩かれても怒らないよ?」

 左頬を向けたまま詩織は言うと、妃はさらに笑った。

「面白くてお腹痛い! もう、それはいいって」

「はぁ」

 なにがそんなにウケているのか分からないが、相手がそう言うのなら、と詩織は顔を正面に戻した。

「あー、いまの写真撮っとけばよかった……」

 妃は目を拭ってから、「でも真面目な話、あたしのほうこそあのときはごめんね」と続けた。

「え?」急に謝られて、詩織はきょとんとした。

「もともと掃除サボろうとしたのがいけなかったのに、柳間さんだけ悪者にしちゃってさ……それも皆を焚きつけるようにさ」

 ああいうのはズルいよね、と妃は重ねて言った。

「あとで反省したんだ。やっぱ天狗になってたんだなって」

「天狗?」

「あの頃、劇団の人にも『調子に乗ってる』とか『最近礼儀がなってないよ』とかしょっちゅう言われてたの。本番前で気が張ってたから、はいはい聞き流してたけど、柳間さんに引っ叩かれてようやく分かったわ。あたし、すっごく嫌な奴になってたんだなって――だから、あのとき引っ叩いてくれてありがとね」

 まさか引っ叩いたことを感謝されるとは思わなかった。「どういたし、まして……?」と詩織が首を傾げるのも無理はなかった。

(でもだからか)と彼女は納得した。

「なにしに来たの?」とぶっきら棒な態度を取りながらも、追い返すようなことを妃が言わなかったのは。

「あの強烈なビンタで目が醒めたわけだし、中学最後の舞台が上手くいったの、もしかしたら柳間さんのおかげかもね」

「それはさすがに大袈裟じゃ……」

「いいの。そういうわけだから掃除サボり引っ叩き事件はこれでお終い。この件に関しては今後遺恨なしでよろしく!」

(舞台後でテンションがハイになってるのかな?)

 しかしこうして二人で話していると、早乙女妃は案外さっぱりとした、気持ちのいい人だった。見てくれがいいからってお高くとまっている嫌な女――そう思い込んでいただけに、なおさらそう思った。

「ねぇ、それで今日の舞台どうだった? インスピレーション湧いた?」

「うん、凄く刺激になった。二時間あっという間だったよ」 

「ずいぶん熱心に観てくれたんだね。褒めてつかわす」

「舞台観るのって初めてだったけど、凄くよかった……なんていうか圧倒されちゃった」

「初めてだったの?」

 そうだよ、と答える詩織は、この頃になると親しく接してくれる相手に対して、自分を下に置くような卑屈な態度はもう取らなくなっていた。

「それはちょっと嬉しいかも。若いご新規さんって珍しいし、中学生とか特にレアだもん」

「そうなの?」

「若者の舞台離れってやつ? 今日だって柳間さん以外だーれも来なかったでしょ?」

(やっぱり気づいてたんだ)

「別に気にしてないけどね」安い同情をされる前に、妃はなんてことないように言った。「いつものことだし」

「だけど……」

「中学生料金でも二千円近くするんだから、これが普通だよ。……それに、所詮素人の舞台だもん」

「だからって、観に行くとか応援してるとかベラベラ言っておきながら誰も来ないなんてふざけてない?」

 彼らの適当さだけでなく、平気な顔をしている妃にも、詩織はこのとき少し腹を立てていた。

「いい舞台だったのに……」

 悔しがる詩織を妃は不思議そうな顔で見ていたが、やがて「ありがとね」と口にした。そしてぽつりと、「中学最後の舞台に来てくれたのが柳間さんみたいな人でよかった」


★★★★★★


 妃が仲間のもとへ帰って行ったあとも、詩織はしばらくベンチに座っていた。暮れていく空を見つめながら、彼女は今日のこと、そしてこれからのことを考えていた。

 ――いい作品書けたら読ませてよ。

 小説を書いたことでなにかが始まったのはたしかだ。

 しかし、妃の舞台を観たからこそ思う。

(書いていることに、書いている自分に満足していちゃ駄目だ)

 小さな世界の一人遊びで満足していないで、書き上げた作品を誰かに読んでもらわないことにはなにも始まらない。

 書いたものを発表して、他人に評価されたい。創作者として自然な思いだ。

「書くしかない!」と声に出して、詩織は勢いよく立ち上がった。

(今夜はなにか美味しいものを食べて帰ろう)

 少女は下手な口笛を吹きながら、黄昏の中へと歩き出した。

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