幕間 青い檻が破れてから
『青い檻が破れてから』
(一)
早くこの家を捨てたい。
泣きながら強く願った日から三年の月日が流れ、あなたの願いは明日ようやく叶う。
高校卒業後、あなたはこの家を出て、遠くの街で生きてゆく。誰もあなたのことを知らない街。寂しさに負けそうになっても、「助けて」と叫んでも、その叫びが雑踏に呑まれてしまう街で、あなたは一人で生きてゆく。この窒息の檻に未練はない。
それでも今夜ぐらいは感傷的な気持ちになるかと思っていたが、和室で「腹痛ぇ」と呻いている弟の和也を見ていたら、そんな気もなくなってしまった。
「お水いる?」母の鈴江が訊くと、
「いらない。マーライオンになる」息も絶え絶えに和也は首を振った。相変わらず馬鹿。
「マーライオン?」
頬を触りながら小首を傾げる鈴江に、「戻すってことだよ」と、あなたは教えてあげた。
「そういうことね」母はリビングのあなたに微笑み返す。「食べすぎに効く薬ってあったかしら?」
「そんな都合のいい薬ないよ」
「そうよね」
些細なことでもおろおろして、自分にすぐ頼ろうとする母を疎ましく思うようになったのはいつからだろう。母は明日から誰を頼りにこの家で暮らしてゆくのだろう。
あなたはふと顔を上げる。
「俺、いっつも姉ちゃんの分、食わされるんだから」
「人のせいにすんな」
「声、腹に響くって」
「バーカ」
「あんまり意地悪しないで」
「はいはい」
「母ちゃん、やっぱ水頂戴」
中学二年生にしては大きい百七十五センチ。ただ、身体ばかり大きくなっても、まだまだ子どもだ。
――じゃあ、九時半までゲームしてていいよね。
声変わりしたってこいつは、頬を思いきり引っ叩いたあの夜からなにも変わっていない。そのことには安心している。野球選手になりたい、といまでも小学生みたいな夢を口にしているが、捨てられた空き缶があてもなく海を漂うような、死んだ目でダラダラと生きるよりかはよっぽどいい。野球のことはよく分からないが、夢を口にするだけの実力があるのならば、どこぞの強豪校にでも入って野球を続ければいい。願わくは、県外の高校であってほしい。こんな家さっさと出なよ。
キッチンに寄りかかりながら「お父さんは?」と訊ねたら、母はびくりと肩を震わせ、「書斎かしら?」と目を泳がせた。「呼んでこようか?」
立ちかけた鈴江に、「いいよ」とあなたは言った。
「お母さんは和也のこと見てて」
「悪いわね」
口ではそう言いながらも、あきらかにほっとしていた。なにも言わずに、あなたはリビングをあとにする。
三度ノックしても返事がなかったから、
「入るよ」と一言断りを入れて、書斎のドアを細く開けた。
つん、と鼻を刺激するアルコールの臭い。鼻を押さえ、思わず顔を顰める。
背を丸めながらちびちびお酒を舐める宗一郎が顔を上げるまでに、あなたはやはり三度は呼ばないといけなかった。
「佳穂か」
濁った目を向け、張りのない声で父は娘の名を呼ぶ。顔が普段よりもむくんでいる。色も日に日に黄色くなってきている。だらしなく弛んでいる口許。
「今夜も飲んでるんだね」
宗一郎にではなく、すっかり読まれなくなった文豪の全集に向けて言った。昔は怪獣のように大きくて立派だった本棚も、あちこち埃を被っている。本棚だけじゃない、アルコールの臭いが部屋中に染みついている。この家で一番大きな部屋が、いまでは一番小さな部屋に思える。座敷牢みたいだ、と。
娘が明日家を出るというのに、部屋の主は、アルコールと暗い人生観で完結しているこの部屋で、今宵もこそこそとお酒を飲んでいる。本人は否定するが、立派なアル中だ。
――書斎から持っていった本は、ちゃんと元の位置に戻せ。そんな簡単なことができないなら、書斎に二度と入るな。分かったか。
グラスを持つ手が痙攣している。
「飲みすぎは身体によくないよ」
「大事な娘が、家を出るんだ。飲まずに、いられないよ」
声が震えているのは、言葉通りに別れを惜しんでいるからか、それとも単純にアルコールのせいか。あなたにはどちらでもよかった。
気味の悪いカカシが風に揺られるように、宗一郎は片時もじっとしていられない。前後にゆらゆら、左右にゆらゆら。
彼にはもう、娘のストーカーになる元気も、娘を床に引き倒す腕力もない。あとは蝋燭の火が消えるのを待つ日々。たとえ自分で残りの火を吹き消したとしても、あなたは驚かない。
「いままでありがとう」
思っていたほど込み上げてくるものはなかった。
あなたがスニーカーを履いていると、
「こんな時間にどこに行くの?」
鈴江が慌てて玄関までやって来た。
密かに溜め息をつきながら、靴紐を結ぶ手を止める。
「この街の見納めに、近所を少しうろついてくるだけだよ」
これでも愛想よく答えたつもりだったが、鈴江はあなたの言葉を理解するまで口を半開きにしたまま、そして泣きそうな顔になった。
あなたは履きかけのスニーカーを脱いだ。「ちょ、なんで泣きそうなの?」
「だって、もう帰ってこないみたいな言いかたするから」
あなたはあくまで愛想よく「なんでそうなるかなぁ」と言った。「外国に行くわけじゃないし、飛行機で一時間ちょっとの場所じゃない」
「分かってるけど、佳穂の言いかたが」
「泣かないでよ。お盆には帰るって、お母さんが約束させたじゃないの」
子どもをあやすように背中を軽く叩くと、鈴江の嗚咽は一層激しくなった。
「でもね、寂しくなる」
あなたはそうでもない。
「それは私も同じだよ」
その証拠に、背中に手は回しても、どうしても抱き締める気にはなれないのだ。五十歳にもなって声をあげて泣く母を、哀れに思う。
「ごめんね。大学に行かせてあげられなくて」
鈴江の涙に狼狽しながらも、
「誤解しないで」
そのことに関してだけは、あなたは、冷静にきっぱりと否定した。
「大学に行かないって決めたのは私だよ。高校を出たら働くって決めたのも。ううん、気遣って言ってるわけじゃないよ。何度も、何度も、言ったじゃん」
あなたの言葉に偽りがないことを分かっていながら、鈴江はもっと泣くために「私とお父さんがもっとしっかりしていたら」と口にして、そしてますます泣いた。うんざりする。
和也がリビングからこっそりと顔を覗かせていた。〈なにやってんの?〉唇の動きに、〈引っ込んでなさい〉と、あなたはくいっと顎を上げて返す。足音を立てないように、弟は大人しく二階へ行った。お腹を押さえていたから、まだよくなったわけではなさそう。まぁ、母親がわんわん泣いていたら、ごろごろ寝てもいられないか。
「いまどき高卒なんて、きっと苦労するわよ」
「そんなことないよ」と努めて明るく返した。「自分で選んだ道だもん。自分の足でちゃんと歩いてみせるから」
「でもね」
「それにさ、高卒だからなにって話?」ダラダラ続きそうな話を遮った。
「大学で真面目に勉強する人なんかごく僅かだよ。私も都会の大学に行ったら、ちょっとは遊んじゃうかもしんないしね。
無駄な四年間を過ごすぐらいだったら、私は先に社会に揉まれて、四年分のリードをつくるよ。で、四年後、同い年だけど社会人一年生の彼らが入ってきたら、目いっぱいこき使ってやるんだ。『あなた達、いつまで夏休み気分でいるの?』って」
「佳穂は、怖いぐらいに強くなったわね」
鈴江の手が頬に触れる。ぞっとするほどかさついた手のひら。
「まぁね」
自分の手のひらを重ね合わせて、あなたは心の中で呟いた。私はたしかに強くなったよ。でも、それ以上にお母さん達が弱くなったんだって。
「私達があの頃しっかりしていたら、M高の特待生になれたかもしれないのにね。そしたら、あんただって周りの子達と同じような、楽しい人生を選べたのに」
「たらればを言ったって仕方ないよ」あなたは心の底から苦笑する。
涙で顔をぐしゃぐしゃにしている鈴江が「――」なにかを口にしようとしていたが、あなたは「そうでしょ?」と気づかないふり、肩を竦めてみせ、そして離れた。
スニーカーの紐を結び直したが、雑になった。結び直すのも億劫で、あなたはそのまま立ち上がり、トントンと爪先を整えた。
振り向きざまに「行ってきます」と言って、ドアは後ろ手で閉めた。縋りつく目を、虚ろな目を、見ないで済むように。
吐息は白くなかったが、長袖のシャツ一枚じゃ三月下旬の夜はまだ肌寒かった。せめてカーディガンでも、とドアノブを握ったところで、母の泣き顔が脳裏に浮かんだ。まだ玄関で泣いているかもしれないと思うと、カーディガンは諦めるしかなかった。唇をへの字にしながら、手を引っ込める。
それから、一歩、二歩、三歩と芝生を大股に歩いて、あなたは振り返った。
手のひらを擦り合わせながら見上げる二宮家は、一見、築十五年にしてはしっかりとして見えるが、壁のペンキなんかはよく見ると、ところどころ色褪せている。そろそろペンキの塗り替えでもしないとな、と言っていたのはいつだったか。あの頃、父はまだ元気だった。あなたが中学一年のとき? 中学二年のとき? どちらにせよ、もう百年前のことのようだから、どうでもよかった。
アル中の父と自分をなくした母(弟はあと何年この家で暮らす?)彼らの家は、いまや子どもがつくった砂の城のように頼りない。雨風に削られていくうちに、いつか跡形もなく消えてしまうんじゃないだろうか。あの頃の夢は、もうなにもかも失われたのだから。
手のひらを再び擦り合わせ、あなたは「はぁ」と温かい息を吹きかける。これから先、私の手を温めるのは私だけか。なんてね。
自転車に跨ってからどこへ行こうかと考え、あなたは「やっぱり金木犀公園しかないな」と、つかの間の夜の旅へと出かけた。
★★★★★★
(明日の執筆メモ:二話)
・二宮佳穂の紹介(ここから一人称)
└【後メモ】最終話で中学編→現在に戻る(二人称or成長した佳穂の大人びた一人称)
・高校のオープンキャンパスで男の子と仲良くなる
・父親がうつ病で入院することになったと母親から告げられる
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