第十二話(三)
「俺はお化けじゃないですよ」
「……急になんなの?」
詩織はこのとき、平静を装っていたのではなく、驚きすぎて、ほとんど金縛りにあっていた。
「それ、大鷄島文学賞に出す作品?」
「そうだけど……」
「読ませてもらってもいい?」
「あ、ちょっと!」
「ちょいと失礼」
文雄は詩織の手元から原稿を攫っていった。
一方的に絶縁宣言をした身からすると、こうして席をともにしていること自体気まずいというのに、原稿まで勝手に読み始めて……。
彼が原稿を読んでいる間、詩織はずっと唇を触っていた。
(奪い返そうと思えば、奪い返せるのに)
文雄が読み終わるのを大人しく待っている自分は本当に勝手だ。
やがて原稿を読み終えた文雄は、顔を上げるなり、「すっげーいいじゃん」と言った。
「いままでで一番いいんじゃない? 冒頭に未来の話を持ってきたり、二人称も面白いし、過去の自分に語りかけている感じとかさ。あれだ。柳間がずっと前に書いた作文に似てるかも。十年後の自分からいまの自分にメッセージを送るってやつ」
「そんなのもあったね。それは無意識だったかも」
「台詞も滑らかだし、構成がいいよ。カッチリしていて、こういう緊張感好きだわ。柳間がこれまで取り組んできたことが全部活かされてるんじゃないかな。いい作品だと思う」
「まだまだだよ」と謙遜しながらも、詩織は文雄の称賛に自尊心がくすぐられてしょうがなかった。
「最後の着地をミスらなければ、結構いい線いくんじゃない?」
「一席ある?」
「そこまでいくかは分かんないけど、ラストの着地をしくじらなければ、チャンスはあるかもよ」
「そっか。チャンス、ありか」
「完成はいつ?」
「一応明日。それからは応募の締め切りまでずっと推敲」
文雄と話しているうちに、気持ちがだんだん楽になってきていた。
「ほっとした?」
「うん。君のお墨つきなら間違いないだろうしね」
詩織は珍しく悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「またプレッシャーかけてくるんだから。結果出なくても恨まないでよ? ……まぁ、結果が出る頃には、俺この町にいないけど」
「その話、妃から聞いたよ」
「別に隠してたわけじゃないよ。クラスの連中なんかは普通に知ってるし」
「分かってる。私が一方的に文雄のこと避けてただけだから。……あのときはなにもかも一方的だったよね」
ごめんなさい、と詩織は謝った。
文雄は少しの間、嬉しそうな、悲しそうな、なんとも言えない表情で詩織のことを見つめていた。
それから「いいさ」と彼は小さく首を振った。
「一人で歩いて行きたいって思うのは、小説を書く人間なら当然のことだしね。……俺も最近思った。書いている間はずっと孤独だけど、その孤独もまた小説を書くことなんだって」
「いま、原稿書いてるの?」
何気なく訊いたら、文雄もこのときばかりは「あのね」と心外そうに眉を顰めた。
「俺だって年中スチャラカホイホイってわけじゃないんだよ。柳間が大鷄島文学賞に向けて頑張ってるように、俺も次の新人賞に向けて準備し始めてるんだから」
「そう、だったの……?」
「ひっでーな。受験中だからってなにも書いてないように思われてたの? これまでずっと?」
「あー、うん」
「おいおいおい、さすがにそれは俺でも傷つくわ」
「ご、ごめん」
「たしかに柳間と俺じゃ小説に対するスタンスが違うよ? でも、俺だって遊びでやってんじゃないんだよ? 楽しく楽しくって適当とかいい加減とかそういうもんじゃないから。俺は俺なりに精いっぱいやってるつもりだよ」
(私、どれだけ思い上がってたの……)
考えかたが違うからって相手を見下して、勝ち誇った気でいて。
そもそも中学生活だけで新人賞に七作も応募している時点で、彼が適当な気持ちで小説を書いているわけがないと分かるはずなのに、あのときの自分は、本当になにも見えていなかったのだろう。
ひどい勘違いをしていたことの恥ずかしさと詫びる気持ちがごちゃごちゃになって、言葉が上手く出てこない。
なにかを言いかけては口を閉ざす、詩織がそんなことを繰り返していたら、「もういいさ」と文雄のほうから言った。
「軽い気持ちじゃないって分かってもらえたら充分だよ。それに、柳間は柳間で、あのときの言葉を貫き続けてきたわけだし、たった一人でどれだけ頑張ってきたのか、この原稿がなによりの証明だよ」
文雄の温かい笑顔が胸にじんと染みてきて、目の奥が少しだけゴロゴロと鳴った。
「これからはお互い残り少ない時間を有意義に使っていこうよ」
「ありがとう、文雄」
詩織は軽く鼻を押さえながら言った。
「……で、肝心なことだけど、さっきまで原稿を書き直そうかどうか悩んでたんでしょ?」
「え?」
「書き直し、本当はしたいんじゃない?」
「どうして?」詩織は目を見張った。「なんで分かるの?」
「分かるっていうか、この作品ちょっとだけ足りないなって思ったんだよ。たとえば学校パートとか」
「……君はエスパーかなにか?」
「眉間に皺寄せて悩んでるみたいだったからさ、なにか引っかかってたんだろうなって。俺がもしこの原稿を直すなら家の外の問題を加えるかなって……、その顔ドンピシャのようだね」
「ドンピシャだよ」と詩織は素直に認めた。「なら、その上で私がなにに悩んでいるか想像つく?」
「時間かな」
「正解。……これがどうしてもね」
ここ数ヶ月まともに仕事をしていない右手を見て言った。
文雄は手書き原稿と清書原稿を見比べながら、「こりゃ大変だわ」と言った。
「手書きしてから清書って人はプロでも割といるみたいだけど、このやりかただと作業量も単純に二倍ってことだもんな」
「いつかは補助輪なしでも自転車を漕げるようになりたいけど、いまは手書き原稿なしじゃちょっと厳しいかも」
手書き原稿はくしゃくしゃに丸めてゴミ箱に捨てない限り書いたものを残せるが、パソコンで書く原稿は操作を誤ると一気に消えてしまう。いまは特に文章をじっくり練ってから、それが逃げないうちに書くというやりかたを取っているので、下書きなし――はじめからワード入力――を試して、データの保存をミスしたときには心が折れかけた。
「三時間分の作業をクリックミスでゼロにしたことがあるから……はは……」
「聞けば聞くほどきついな……。全面改稿に一からまた下書き、片手でのポチポチ入力。そりゃどう考えても無理だわ。推敲どころか三月末の締め切りだって危ないもん」
そのことに薄々勘づいていたから、彼は原稿を読み終えたとき、学校パートのことを言い出さなかったのだろう。
「だから迷ってるの。上手くカバーできるルートが他にあるかもしれないし、下手に加筆して全体のバランスが崩れる可能性だってある。
……だけど、応募できなかったらゼロ。これだけははっきりしてる。もし締め切りに間に合わなかったら、私の中学生活は結局最後までなにも掴めなかったって、一生後悔する」
「書き手としては後悔しない?」
文雄は痛いところを突いてきた。「後悔すると思う」
「これから先、どんなにいい作品が書けたとしても。あのときの作品だけは頑張り切れなかったって」
「そこまで分かってるなら、たった一言でいいから言ってくれよ。柳間の口から言ってくれないと、俺は絶対に動かないよ。ふざけてるとかじゃなくて」
「分かってる」
「柳間風に言うなら、小説を書くってそういうことなんだろ?」
(小説は一人で書き続けるもの)
その信念のもとで彼を傷つけ、遠ざけ、一人で書く道を選んだ。強い覚悟があったからこそ今日まで書き続けてこられた。骨折にも受験にもインフルエンザにも負けず。負けても負けても勝ち続けながら、明日死んでもいいと思える作品を追い求めてきた。
きっとこれが最後だ。柳間詩織が中学生活の最後に乗り越えるべき壁は。
ときに自分の美学を汚してでも書くことを選べるか。
小説のために、自分をも捧げられるか。
「どうか清書を手伝ってください。お願いします!」
「喜んで!」
文雄が笑顔で差し出してきた手を、詩織もまた笑顔で握り返した。
「ありがとう、文雄」
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