第35話 最初の一歩を踏み出して

 卒業式の朝、わたしが鏡の前で髪を整えているとお兄ちゃんが声をかけてきた。


「送ってくから乗れよ」


 お兄ちゃんの車に乗ったのは納車記念の日だけだった。光沢がみなぎるように輝いた黒艶の車を、お兄ちゃんは楽しそうに運転していた。助手席にお母さんを乗せて、わたしは後ろからお兄ちゃんのハンドルさばきを見守っていた。


 速度を守って、だけど速く。道の先には楽しいことが待っていると信じて、お兄ちゃんはきっとなにかを待ち望んでいた。それは幸せな日々とか、新しい友達だとか。これから始まる生活に胸を躍らせて今はもう見ることのできなくなった笑顔を浮かべていたのだ。


「いいの?」

「近くに用事があるから、ついでだ」

「じゃあ、お願いしようかな」


 寝ぐせもなく、服装もきちんと整ったお兄ちゃんはわたしが起きた時にはもう部屋にいなかった。その用事のために早起きしたのかもしれない。


 狭い駐車場に無理矢理入れられた車は出すのに一苦労で、お兄ちゃんも久しぶりの運転だからか手こずっているようだった。


 結局お父さんに代わってもらって事なきを得る。ほこりっぽい車内はあまりいい空気とは言えなかった。窓を開けて換気をすることにする。清涼な風を吸い込んで、わたしはまた後部座席でお兄ちゃんのハンドルさばきを眺める。


「お前の大好きな先輩の卒業式なんだろ、今日」

「し、知ってたの? 先輩のこと」

「よく電話してるだろ。こそこそ喋ってるようだけど普通に漏れてっから」

「そ、そっか」


 さすがに同じ部屋じゃそうなっちゃうよね。


「忠告しとくけどな、母さんには言わないほうがいいぞ」

「え、なんで?」

「反対されるからに決まってんだろ。もしかしたらもっと悪い方向に行くかもしんねえし」


 お兄ちゃんはわたしのことを心配してくれてるようだったけど、その要因がどこにあるのか分かりかねた。


「話す機会があればお母さんには言うよ? 今はちょっと恥ずかしいから、もうちょっと余裕ができてからだけど」

「いいのかよ」

「だって好きなのは本当だもん」

「ふぅん」


 曲がり角をギリギリの左折で潜り抜けていく。お兄ちゃんは法定速度を守りながらゆるやかに運転していく。


「即答できるのが羨ましいよ」


 赤信号で止まると、お兄ちゃんが振り返る。か細くなった瞳は曇っていて、今日の晴天とは真逆の色をしている。


「お兄ちゃんはどこに行くの? 大学?」

「いや・・・・・・前の彼女のとこ」

「ど、どうしたの? 仲直りした?」

「してねえよ。してねえけど、まあ、なんだ。別れ際結構ひどいこと言ったからさ、謝るだけ謝っておこうって思っただけだ」

「そうなんだ」

「ああ。引っぱたかれるかもしれねえ」


 それでもお兄ちゃんの顔色は憂鬱に染まっているわけではなかった。めんどくさがりながらも、ハンドルを握る手はしっかり離さない。後ろ向きな感情と、前を向く姿勢が混合しているようなそれは、わたしもよく知っていた。


「お兄ちゃんは偉いと思う。もしかしたらほんとに仲直りできるかもしれないよ?」

「漫画じゃあるまいし、そんな都合のいい話あるわけないだろ」

「そうかな」


 車が進む。街道を抜けて田路に出ると遮るものがなにもない。水の張った田んぼで、まだ体の小さい鷺がクチバシを伸ばしていた。


「意外とわたしたちの周りって都合のいいことで溢れてるのかもしれないよ」


 漫画みたいな、ドラマみたいな。フィクションに夢見てわたしたちは今日を妥協して生きている。現実と区別がついていると言えば聞こえはいいし、わたしもそうだった。


 そもそも高望みするだけ自分が傷つくのが分かっているのだし、自制を効かせるのが当然だ。


 でもちょっとだけ頑張ってみようっていう意思はすごく大事なことで、理想とか憧れとかそういったものを色濃く反映するのはなかなか難しいことだけど、それよりももっと素敵なことが待っている場合だってある。


 漫画やドラマじゃ味わえない。触れる温かさと、向けられる想い。


「この世界をもうちょっとだけ信じてあげてもいいんじゃない?」

「・・・・・・どうだかな」


 お兄ちゃんの表情はここからじゃよく見えないけど、少しずつ速度をあげていく車は、あの日のまだ希望を信じていたお兄ちゃんの運転の仕方だった。


 わたしの高校が見えてくると、お兄ちゃんは少し遠くで車を停めた。ここからは歩けということらしい。


「ほら、ハンカチ」

「え、どうしたの?」

「どうせぴぃぴぃ泣くんだから持っとけよ」


 泣かないもん、とは言えなかった。紺色のハンカチを受け取ると、柔軟剤のにおいが鼻をくすぐる。


「それじゃあ、送ってくれてありがと。お兄ちゃん」


 扉を開けて外に出ると温かい空気が直接体に入り込んでくる。コンクリートの地面がいつもより硬く感じた。


 行ってくるね、とお兄ちゃんに目配せをすると、すれ違う間際お兄ちゃんが言った。


「俺たちの部屋さ、そろそろ別にするよう母さんに言っとくわ」


 部屋が空いてないから、わたしとお兄ちゃんは小さい頃からずっと一緒の部屋だった。荷物も多いし今さら大移動するのは大変だし、と先送りにしたまま長い月日が経ってしまった。


 お兄ちゃんはハンドルを握ったまま、前を向いて言う。


「お前も、もう子供じゃないんだし」

「うん。そうしてもらお」


 どうせならお正月の大掃除のときにやってもらえばよかったけど、きっときっかけや、心構えが足りなかったから、今でいいのかもしれない。


 頷くと、お兄ちゃんも納得したように小さく返事をした。


「部屋変えるまでにお前の買った漫画全部読んどくか。勿体ないし」

「あ、うん。わたしいなくても勝手に読んじゃっていいよ」

「なら遠慮なく読ませてもらうわ」


 エンジン音が踊るように鳴る。


「こっ恥ずかしいくらいの、都合のいい話をさ」


 車の動き出す速度は、わたしの歩く速度とそれほど変わらなかった。

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