第28話 精一杯の勇気
ファスナーが下がりきって前が開く。入ってくる生暖かい空気に体がビクンと震えた。
足元に当たるストーブの熱気がふくらはぎを通して喉の奥までせり上がってくるようだった。
先輩と目が合う。今日何度目だろう。いつもより目が合う回数が多い。それはきっとわたしが先輩ばかりを見て、先輩もわたしを見てくれているからだ。
だってこの部屋には、わたしと先輩しかいない。学校の放課後や休日のデートとは違う。完全に二人になるのは、もしかしてこれがはじめてなんじゃないだろうか。
夜なのに、わたしは先輩と一緒にいて、まだ胸をドキドキさせている。体内時計が狂ってしまいそうなほどに、体が火照っている。
上着を逃がされると、一気に腕が心細くなる。切なさにも似た寒気が通り過ぎ、シャツがお腹に張り付くと口から空気が漏れていく。肌と衣服が擦れる感触に、指先が痺れていくのを感じる。
誰かを好きになる恋愛という物語を、わたしは今まで俯瞰して見ていただけだった。
好きな人同士が付き合って、幸せな時間を送る。たまにはぎゅって抱き合ったり、キスなんかもしちゃう。そういう甘酸っぱい妄想ばかりしてきたわたしだけど、それってたぶん、何も分かっていなかったんだと思う。
恋人って、具体的になにをするんだろう。質問されても、わたしは曖昧模糊な返事しかできない。
楽しいとか幸せとか、そういうのは何か感情が揺さぶられるような行為があるからこそ生まれるもなんだ。
先輩の顔が近くなる。
部屋の真ん中で、重心が後ろに向く。
はじまる。それを予知して、体がギュッと縮こまる。
わからない。まずどこから、なにをするんだろう。
わからない。
知らない。
けど、しなくちゃいけない。
だってわたしは恋人だから。
もう恋を夢見る子供じゃないから。
二人でこれから一緒にいる以上、避けては通れないもの。
先輩が微笑んで、両手をわたしの頬に添える。
わたしは覚悟を決めて、両目をギュッと瞑った。
「大丈夫だよ」
その両手が、頬からわたしの頭へと移る。
雨粒が傘を伝うように、頭を撫でた。
「燈代ちゃんの準備がまだだったら、私はなにもしないよ」
おそるおそる顔をあげる。
そこにはいつも通りの優しい先輩がいた。
「焦ってないから。来年、再来年。もっともっと先でも、私は待てるから」
前のめりになった背中が丸くなる。開けていた口は言葉を作れず、代わりに清涼なものを呑み込んでいく。
わたしのこと、すごく大事にしてくれている。わたしのこと、すごく考えてくれている。
ぼーっと、先輩を眺める。なんだか遠くの景色を眺めるように、ぼやけて見える。熱に浮かされたみたいにおでこが熱くなって、やっぱりぼーっとする。
自分のまぶたが自然と下がっていくのがわかった。ああ、わたし今どんな顔をしてるんだろう。
きっと、先輩のことが大好きだっていう顔をしてる。
「ごめんね、急にお泊りなんて言ったから、不安にさせちゃったよね」
まだ喉が動いてくれない。代わりにわたしは懸命に首を横に振った。
「いつも学校から帰るときとか、デートでお別れするとき。バイバイって言うでしょ? あれがね、苦手なんだ。一人の帰り道がすごく寂しいから」
先輩に抱きしめられる。すっぽり、また入ってしまう。
「でも、今日はバイバイって、言わなくてもいいから。こうして一緒にいられるだけで、私はすごく幸せだよ。燈代ちゃん」
手を、必死に伸ばす。
すっぽりもいいけど、やっぱり、この隙間を埋めたい。わたしが前に進めば、もっともっと近づける。
先輩の背中に、手が届く。
先輩の温もり、感触。そして想い。なにもかもが全身を通して伝わってくる。
もっと強く抱きしめる。先輩の体に顔がの下が埋もれていく。どうせ息はしていないので、気にはならなかった。
「あっち向いてるから、着替えたら教えて?」
先輩はわたしから離れ、背を向けた。
わたしはシャツを握りしめて、熱い呼吸を整えようとする。息を吸うたびに、肺に粘ついたものが流れ込んできて、吐く息が震える。
シャツを脱ぐ動きもぎこちない。まるで夢の中にいるみたいに力が入らなかった。
ズボンを落として、下着姿になる。
体自体は温かいのに、解放的になった素肌が空気と羞恥によって寒気を催す。
ベッドに置かれていた水色のワンピースを手に持って眺める。沖を見渡すように郷愁に駆られ、振り返るものがある。
ずっとずっと、前の記憶。
美容室で先輩を見た時の凛とした顔。学校で再開した時の友好的な顔。フルートを教えてくれる時の優しい顔。廊下を歩いている時の綺麗な横顔。キリンのことについて語る時の笑顔。
打ち上げのあとわたしを引き留めてくれた時の切迫した顔。好きって言ってくれた時の緊張した顔。想いが通じ合った時の泣き出しそうな顔。デートの待ち合わせ場所で会った時の嬉しそうな顔。あわあわとぎこちなく動くわたしを眺めている時の慈しむような顔。彩葉ちゃんの相談に乗ってくれた時の真剣な顔。
憧れて、好きになって、それから恋人になって。いろんな顔が見られた。
遠くから眺めているだけじゃ決して見ることのできない景色も見ることができた。
何度も何度も家に帰ってそれを思い返し幸せに悶えた。まさか来ると思っていなかった未来が今になったことを何度も確認して、ベッドの上で足をバタつかせた。
先輩のいろんな顔を見ることができて、わたしはすごく幸せだった。
「もう、大丈夫です。先輩」
言うと、先輩が振り返る。
「着替えるの早いね燈代ちゃ――」
先輩の視線が、わたしのお腹に注がれて、それから胸に行きおへそまで下がり、その下にあるものに移る。大きく開かれた瞳に、白い下着が映っていた。
左手で胸を隠す。右手でショーツを隠す。恥ずかしさに勝るものなど、無謀にも似た勇気しかなかった。
全身が熱い。先輩の視線が突き刺さる。
わたし、先輩の部屋でなにやってるんだろう。
部屋の端に置かれた鏡を見れば、下着姿で縮こまっている自分が見られるんだろうけど、絶対見ないようにした。
自信があるわけでもなかったし、お正月でついたお肉を削ぎ落すのもまだ間に合っていない。
けど。
恋人同士の特権って、ただ仲良くできるだけじゃない。ぎゅってできて、キスができる。だけじゃない。
いろんな顔を知れる。
今まで見ることのできなかった、自分の大好きな人の表情が見られる。
だから、わたしも。
見せなきゃいけないのかもしれない。
恥ずかしさでどうにかなりそうなわたしに感化されたのか、先輩も呆気にとられ言葉を発することができないようだった。
ストーブの稼働音と全身を流れる血液の音が混ざって分からなくなる。
分からないことばかりだ。
わたし一人じゃ知り得ないことが多すぎて、だからこうして助けを求める。誰かに助けを求めるのには相応のエネルギーが必要で、それが一番重いのが大好きな人だ。いいのかな、悪いのかなって考えすぎなくらいに考えて、だけどそれは消費じゃないから。失うだけじゃなくって、頑張ったその瞬間は幸せなものに変わって変換されるから、こうやって前を向ける。
両腕から力を抜く。
隠していたものが露わになる。
床に落ちたさっきまで着ていた服を見ながら、蕭々と降る粉雪のように小さな声で先輩を呼んだ。
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