第29話 本当に必要なものは
もしかしたらずっと目を瞑ったままかもしれない。怖くて震えるかもしれない。枕に顔を埋めたまま出てこないかもしれない。わたしがどんな顔をするのかなんて想像もつかない。
整然としない道を手探りで歩くような感覚で、けれど落ち着いてゆっくりなんてできやしない。
「似合って、ますか」
平坦な体を覆う布生地に熱がこもる。わたしと先輩の、いろいろなものを常時受け取っているからだろう。
溶けるほどに熱い視線と、速い鼓動。一瞬頭がふらっとして、意識を手放しそうになる。
しっかり立たなきゃ、と床を踏む。素足は摩擦を残し不自然な音を立てた。その甲高い音は、どうやったら鳴るんだろう。もしかしたら誰かの手によってはじめて鳴るようなものなのかもしれない。
「うん」
先輩の短い返事を聞くとひどく安堵する。そこに、ちゃんと先輩がいる。恥ずかしいけれど、同時に嬉しくもあった。
この二律背反を歓びのようなものに変えられたら、わたしはもっと柔軟に動けるのだろうか。
「燈代ちゃん、ちょっと座ろっか」
先輩がベッドを指差す。ドキ、としてそのまま腰を下ろした。ベッドが軋む。慌てて手を離すが、中断はできない。
シーツの乾いた感触が太ももの裏を駆け抜けていきおへその下まで響いた。
次いで先輩がわたしの隣に座る。先輩は変わらず部屋着のままだ。この部屋で異質なのは、わたしだけなのだった。
「かわいい下着だね。それも・・・・・・お母さんが買ってきてくれたの?」
「は、はい・・・・・・」
「そっか。燈代ちゃんに似合うのがどういうものなのか、分かってるんだね。きっと」
「あ、あの、先輩!」
先輩がいつものように会話をはじめるので、わたしは慌ててそれを遮った。
「できるのでっ、わたし、もう、家で、練習もしてきたしっ、だ、大丈夫なのでっ!」
半分睨むように先輩を見てしまった。こちらを見下ろす瞳は、照明を斜面に反射させて宇宙のように煌めいている。
「ありがとう燈代ちゃん」
頭を撫でられる。
「そうじゃ、ないんです。そうじゃ・・・・・・なくて・・・・・・」
伝わっていないのかな。
考えて不安になる。
先輩は途切れ途切れの言葉を一つ一つ拾い上げ、ツギハギに繋ぎとめてくれる。
やっぱり優しい表情をした先輩が、わたしを覗き込む。
「私とエッチしてくれるってことだよね」
単語が正面から飛んできて、肩が跳ねてしまう。驚いたわたしは小さく頷くことしかできなかった。
「燈代ちゃんがこうして私の気持ちに応えようとしてくれたこと嬉しいよ。すごく勇気を出してくれたんだよね」
先輩の手は温かい。触れられた箇所からゆっくり体の中に入ってくるようだった。
「私も燈代ちゃんの勇気には応えたい。私も、燈代ちゃんとそういうことしたいもん。燈代ちゃんと、エッチしたいよ」
「じゃ、じゃあ・・・・・・!」
「でも、そういう行為に必要なのって、きっと勇気じゃないよ」
先輩の、真剣な顔がわたしを正面からしっかりと見据える。水面のようだった瞳は凍り付いたように動かない。触れれば怪我してしまいそうな鋭さをもったそれに、わたしは身動きができない。
それは、先輩の想いの重さのせいでもあった。
先輩のいいところ、わたしはたくさん知ってる。
だめなところは、難しいけれど、ちょっとなら知ってる。
好きって気持が、強い。
独占欲とか、嫉妬とか、そんなような負の感情は持ち合わせていない。ただただ、その質量が重いのだ。
先輩のことが大好きなわたしですら、こうして動けなくなる。先輩がわたしを想うその強さに、気圧されてしまう。
先輩のだめなところを、わたしは知っている。
「私と燈代ちゃんの初めては、いいものにしたい。痛かったり、苦しかったり、そういうのって後になればいくらでも思い出せちゃうものだと思うの。だから簡単に考えたくないし、焦りたくもない」
わたしのほうが絶対好きだって思っても、気付けば先輩の背中を追いかけている。
先輩はスマホのロックを外し、あのアプリを開いた。
「見て燈代ちゃん。これが私と燈代ちゃんがこれまで過ごしてきた時間だよ。すごいよね、こんなにもいろんなことをしてきたんだよ」
カレンダーにはその日したことが記念日として記されている。そのどれもが。
「楽しい思い出ばっかりだね」
わたしは静かに頷く。
「私、燈代ちゃんと初めてキスした時のこと今でも覚えてるよ。すごく幸せだった。愛しいって思った。燈代ちゃんを離したくないって思った。すごく、温かい時間だった。こんな風に思い返せるのって、本当に素敵なことじゃない? 心の中にいつも自分の大好きな人がいてくれるって、とても心強い」
先輩は。
この人は。
雨下麗花という女性は。
どれだけわたしのことが好きなんだろう。
寄せられる想いをどう受け取ればいいか分からず、代わりに溢れていくものがあった。
「燈代ちゃん、これ着て。あと、ハンカチも使っていいよ」
羽織った上着はストーブの熱気を吸ったのか温かい。肌ざわりのいいハンカチが、わたしの頬を撫でていく。
「ね、燈代ちゃん。私に勇気はいらないよ。エッチしないと恋人ってわけでもないんだから」
「・・・・・・はい」
「また私のことで、悩ませちゃったね」
「・・・・・・はい」
「けど、私はそんな燈代ちゃんが好きだよ。いっつも私のこと考えてくれて、一生懸命で頑張り屋な燈代ちゃんが好き。可愛い、抱きしめたい。燈代ちゃんの奥まで知りたい。燈代ちゃんの裸が見たいし、おっぱいにも触りたい。へんたいみたいだね、私」
先輩が恥ずかしそうに笑う。
「でも、全部本音だよ」
どうして先輩はこんなにもいい人なんだろう。
こんな素敵な人、わたしには勿体ないんじゃないかって思えてくる。けど、独り占めしてもいいんだ。ワガママを言う権利がわたしにはあって、先輩に甘えても、必ず抱き返してくれる手のひらがある。
「うぅ・・・・・・ぐすっ・・・・・・」
大粒の涙が無数に零れ落ちる。
「ご、ごめんね燈代ちゃん・・・・・・! そんなに泣いちゃうって思わなくて、わ、本当にごめんね・・・・・・!」
慌てる先輩、かわいいな。
泣きじゃくりながら、霞む視界で先輩を見る。
わたしももっと、強くなりたいな。
こうして先輩を心配させちゃわないように。
暗闇に突っ込むがむしゃらな強さじゃなくて。
転ばないように、誰かの手を掴める強さを。
涙の理由はわたしでもよく分からない。ただ感情が処理できなくなって、ポンコツなわたしの体がエラーを起こしただけなのかもしれないけれど。
悲しいとか辛いっていう気持は、少しもない。
前のめりになると自分の無理に気付かない。突き出した腕は求めたものに届くのだろうけど、きっと傷だらけになってしまう。
羽織った上着と先輩が、わたしを抱きしめてくれる。
支えられて初めて、わたしは自分の手が震えていたことに気付いたのだった。
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