第30話 誰よりも大きな声で!
「あ、ほら。目を擦ったら赤くなっちゃうよ?」
「は、はい」
泣いた時間はほんの僅かだった。溢れるというのはきっと長い時間継続するものではないのだろう。そのかわり抑えることができない。一長一短だ。
ひりひりとするまぶたを最後に指で弾き、息を整える。深い、深い息だった。先輩はずっとわたしの手を握ってくれていた。夜泣きする子供を寝かしつけるかのような慈愛を含んだ優しい顔付きに、やはり縋ってしまう。
恋人って実はすごく微妙な立ち位置を行き来するものなのかもしれない。親子や、姉妹、ときに友達のように遊んで、けれどある時スイッチが入ったように触れたくなる。
そのスイッチがどこにあるのか分からないけれど、涙で湿り気を増した唇が疼くと繋がってはじめて通電するものなのかもしれないと思った。
「うん。やっぱり似合ってるよそのワンピース。もう少し暖かくなったらそれを着てる燈代ちゃんが見たいな」
「し、仕上げておきます!」
「ふふっ、うん。仕上げておこうね」
髪を撫でられる。ワンピースが揺れる。ひとつの生き物であるように連結し、それがわたしの心に届くといっそう揺れを増す。
木々が寒色を捨て去った時季、太陽の下で先輩を待ち合わせをしたときのことを想像し、頬の力が抜けていく。
自分のことをかわいいなんて思ったことはないし、誰かに見せられる魅力的な体格でもない。だけど先輩になら、見せたいなって思った。先輩が喜んでくれるということもあるし、水面のように揺れるスカートがくれる清涼な風はわたしの背中を押すのに充分な強さがあったのだ。
その水色のワンピースを含め、もらった服を紙袋に入れてもらう。鼓膜をくすぐるような髪の音が心地よかった。
「カバンの近くに置いておくね」
ありがとうございます、と頭を下げて再び視界を開けると先輩がわたしの前にいた。
「もうこんな時間だね」
「12時・・・・・・ほんとですね。あっという間です」
それだけ服を着るのが楽しかったということだろうか。
たぶん、違うんだろうな。
時間がなんとか論とかなんとかの法則を置き去りにして過ぎ去っていく現象は今まで何度も体験した。
この素敵な現象はきっと、どんな天才発明家や科学者。名だたる偉人でも解明できないんだろう。
そんな力強いものが今もこの部屋に溢れている。
無限にも近い分子同士がぶつかりあって超常現象を起こすように、何千億分の一の確率で出会い、好きになり好きになった、そんなわたしと先輩が手を繋げば小さな街灯ですら太陽のように思える。太陽多すぎない? 溶けちゃいそうだった。
「燈代ちゃんはいつもは寝てる時間だよね」
「はい。11時には寝るようにしているので」
正直眠気というものはあった。
頭に牡丹餅がくっついたような感覚に立っている体の重心がおぼつかない。浮き上がったような思考は、言葉を整理するという能力を失いつつあるようにも思えた。
「じゃあそろそろお布団入る?」
そんな問いにも満足な声は張れず。
もやもやとした疲労にも似た霧が口から静かに漏れ出す。
「一緒のお布団ですか?」
「え?」
想像していなかった質問だったらしく、先輩は珍しく驚いたような表情をした。そのあと「うん」と頷いたのを見て、わたしは上着のファスナーを上まで締めた。
「じゃあ、寝たいです」
ぼけっとそんなことを言う。それがどういうことなのか考えて、ああ先輩と一緒の布団で寝れるのかちょっと心配だったのかなと露出した自分の心理を撫で上げる。先輩にもそれは伝わったらしく、めくられた布団をぎこちなく指でつまんでいた。
先輩が先に潜り込み、わたしも続く。足を布団の中に入れようとすると、横になった先輩がわたしを見上げる。そのまま足を入れ、頭を枕に収めると先輩と目が合う。
リモコンで、部屋の電気を消した。豆電球がポツンと、影をつくる。
布団の中でもぞもそ動くものがあった。それはやがてわたしの手に到達し、絡み合う。
視覚では確認できないけれど、指先に伝わる熱が確かに先輩の手だと教えてくれた。貝殻のように重なったそれはわたしと先輩の胸の前に置かれる。軽い羽毛布団がやけに温かく感じた。
「ねえ、燈代ちゃん」
先輩の声が低く掠れる。その声を聞いているだけで、枕に触れる頬が鳥肌にも近い寒さを覚える。それを誤魔化すように、頬を枕に押し当てる。
相槌を打つわたしの声もころころと転がるようなものとなる。喉だけの発声は楽で、落ち着く。先輩の声を聞くだけでも幸せなのに、自分の声ですら甘いものを胸に宿す。
「通話しながら寝るのもいいけど、やっぱりこっちのほうがいいね」
繋いだ手に力がこもる。
身じろぎをすると布団が擦れる。先輩の方から聞こえると、近寄ってくれたのかと期待する。頭の位置を変えただけだった。
勝手に期待して勝手に裏切られる。喜び消沈する意識の境目を反復するだけで、わたしは幸せだった。
変、かな。
変じゃないよね。
「再来週いよいよセンター模試だよ。もう今から緊張しちゃうなぁ」
「けど、A判定なんですよね?」
「そうなんだけど、だからって確実に合格するわけじゃないからやっぱり心配」
先輩がS大を受けるという話は去年にすでに聞かされていた。まだ高校一年生のわたしには大学や受験のことがあまり分からずピンとはこなかったけど、先輩が頑張ってるのなら応援したいなって思っていた。
先輩は獣医学部のある大学にいきたいらしく、獣医学部があるのは県内にS大しかないためそこを落ちてしまうと県外に行かなければならないのだ。
先輩の成績ならたとえ県外の大学だろうと合格できるのだろうけど。
「でも、燈代ちゃんと離れたくないから、絶対受かるよ」
そう言ってくれる先輩の顔をオレンジ色の豆電球の下で見る。
「それで、動物たちの命を少しでも多く、助けられるようになりたいな」
夢を語る先輩の影に、わたしは隠れる。
わたしにはやりたいことも、できることもない。
けど、先輩と一緒にいれば、いつかそんな素敵な未来も鮮明に見えてくる気がした。自分を卑下する暇もないくらいに、先輩はいろんなものをわたしにくれる。
「お腹だけ壊さないように気を付けなきゃ」
「お腹ですか?」
「うん。ここだけの話ね? 私お腹がすっごい弱いの。特に緊張したりすると。高校受験のときなんてなかなか家から出られなくてひどかったんだよ?」
「い、意外です。先輩にそんな弱点があったなんて」
「弱点っていうか。燈代ちゃん、もしかして悪用しようとしてない?」
「し、してないですよ?」
そもそも悪用の仕方が見当たらなかった。
でも、そっか。先輩にも弱いところあるんだ。
また一つ、先輩に近づけた気がした。
お泊りって、なんだかすごいパワーがある。
話しづらいことも、普段なら恥ずかしいと思えるようなことを言えて、互いの距離が一気に縮まったように思う。
「あ、あの」
「うん? なあに燈代ちゃん」
先輩の甘い相槌。枕と布団で顔を挟んで、僅かな隙間から先輩の顔を覗いた。
「わたし、負担になってないでしょうか」
「なってないよ」
続けようとした言葉を遮るような即答に、つま先が伸びる。
「なってないよ、燈代ちゃん。むしろエネルギーになってるよ。毎晩毎晩勉強しなきゃいけないのってすごく大変。でも、燈代ちゃんのことを思うとどれだけ疲れてても頑張れるんだよ」
「わたしが、先輩の・・・・・・?」
「そうだよ、燈代ちゃん。それが、恋人パワーってやつなんだよ」
先輩が横になったままムキムキと腕を曲げる。シュールなのに先輩がやるとかわいいのがズルい。
「だから、ありがとうね燈代ちゃん。私の恋人になってくれて」
布の擦れる音がする。
あっ、って思った時にはすっぽり。
もっともっと近づけたらいいなって思う。
先輩と重なっちゃうくらいに近づいて、先輩の全部を知って、先輩に全部を知られて、ありのままのわたしをもっと好きになってもらいたい。
抱き着きたい、抱きしめてほしいって思うと、先輩がいる。きちんとわたしの目の前にいる。夢じゃない。
通話じゃ味わえない。憧れるだけじゃ味わえない。
これはあの日、すこしの勇気を出したわたしへのご褒美なのかもしれない。
ならもっと、勇気を出す日があっていいのかも。
そうすれば、こんなふうに幸せに思える時間がたくさんやってくるだろうから。
センター模試の当日、わたしは自転車を必死に漕いでいた。
まだ雪の残光が迸る地面を駆け抜け、冷たい風を額に受ける。
巻いてきたマフラーは途中で邪魔になったので籠に乗せた。時々落ちそうになるのを腕で抑える。なんて縁起の悪い。絶対落とさないぞと前を向く。
道中では制服を着た人たちが真剣な眼差しで単語帳を見ていたりした。転ばないかなって心配しながら横を通り過ぎる。
バスが遠くからやってくる。バス停には何人かが待っているが、その中に先輩の姿はなかった。
メッセージも未読状態だったのでわたしも焦る。
すると後ろから細切れになった息が聞こえ、振り向くと白い息を吐いた先輩がいた。
「あ、あれ!? 燈代ちゃん! どうしたの!?」
「え、えっと、見送りです」
「え!? 学校は!?」
「さ、サボりです!」
「不良だね!」
互いに足踏みしながら話す。
サボリというか、なんというか。学校を抜け出す口実が思い浮ばなかったので、その辺は彩葉ちゃんに全部お願いしてきた。
先輩を見送ったらすぐに帰るつもりだけど、先生になんて言われるかは彩葉ちゃん次第。白い歯を見せて「任せな!」って言ってくれので、わたしはわたしの親友を信じるしかない。
「あ、バス着ちゃってる! えっと、燈代ちゃん!」
先輩は珍しく慌てている。お腹を押さえるような仕草が見えたので、それで家を出るのが遅れたのかもしれない。
「お、お腹は大丈夫ですか?」
「うん! 一応薬も飲んだから!」
ホッと息を撫でおろす。
「じゃあ燈代ちゃん、私行くね! 見送りありがとう!」
そう言って先輩はわたしの横を過ぎていく。いつもの凛とした表情はなく、その横顔は不安で溢れていた。
「せ、せんぱーい!」
先輩がバスに乗り込む間際、わたし最大の大きな声をあげる。自転車のブレーキを精一杯握りしめて、地面に片足を付きながら、叫ぶ。
「が、がんばれー!」
冬の太陽が差し込む。雲の隙間から覗く光が、冬の忘れ物を溶かしていく。
「先輩なら、大丈夫だから!」
応援と、それから、ちょっとの勇気。
わたしになにができるかなんて分からないけれど。
これは先輩を元気付けられる、わたしだけの武器だった。
わたしにしかできない、恋人にしかできないこと。
周りの視線と冷たい風を受けた頬が熱を持つのがわかる。
先輩はバスに乗り込む瞬間こちらを見て。
春の到来を予期させるような、柔らかい笑みを浮かべた。
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