第五章

第31話 二度目の春

 季節の移ろいを目にしたことはあるけれど、月日の経過を直接見たことはない。朝起きていつものように学校へ来ると、黒板に書かれた今日の日直の名前の上にある日付が変わっているのを見てようやく気付く。


 いつだってそうだった。桜のツボミを見れば憂うことなんてないのに、カレンダーをめくる楽しみを噛み締められない。切れ端だけが無造作に残り、それを見て思うのだ。


 また明日。


 日々を彩るものに赤いペンで二重丸をつけ、あと何回って数える。


 通学路にあるトンネルの入口には氷柱ができていて、そこを抜けたところにある自動車学校の周りにはススキが生い茂る。田んぼの稲は成長するたび謙虚に頭を下げ、小学校の前を通ると玄関前に並べられたヒマワリがわたしを見送ってくれる。


 そうして再び、あの季節がやってくる。


 体育館の端に置かれたストーブはからっきし熱気をここまで届ける気がないようで、ときどき離接する先生のズボンが焼けるにおいがした。


 落ちそうになるブランケットを足で挟んで前を向く。


 今日は省略じゃないんだ、と隣からため息が聞こえた。周りの顔色もそれに呼応するように後ろ向きになり、わたしも例外ではなかった。


 眠気と、寒さと、それから、落ち着かない心。


 当の本人たちはいないのに、リハーサルは一時間を超えた。といっても動きがあるのは生徒委員会の人と、先生たち。わたしたちはどこか遠くの景色を眺めるようにじっとし、入場のときと退場のときだけ拍手を起こした。


 手を叩く音は乾いていて、広い体育館によく響く。


 入退場のときにかかる曲は中学の頃と変わらなかった。リハーサルではイントロ部分しかかからず、そのあとが聞けないのがもどかしい。そういった小さなことに気を配らせていないと、この時間には耐えられそうになかった。


 やがて先生の号令がかかるとわたしたちは椅子を持って教室に戻る。その椅子を持って行けることに、どこかホッとしているわたしがいた。


 階段の登る際、椅子の足同士が当たってガシャガシャ音がする。落とさないように、わたしはゆっくり歩いた。


「つっかれたー」


 とびきりガシャガシャが聞こえたあと、そのガシャガシャが後ろからきてわたしの隣で止まる。追いついて、わたしに合わせるようにスピードを落とした彩葉いろはちゃんは椅子を持ちながらも、頭の後ろで手を組んでいるんだろうなとイメージできるような声色で不満を漏らしていた。


「うち途中で寝てたんだけど」

「ええ? よく眠れるね。首痛くなっちゃわない?」

「すっげー痛い」


 彩葉ちゃんが首を回す。まぶたはまだ上がりきっていないようだった。


 彩葉ちゃんの髪が完全な黒に戻ったあたりで、わたしは先輩が大学に合格したという知らせを先輩自身から受けた。あのときはすごく嬉しくて、わたしも先輩と一緒に喜んだ。お祝いパーティを先輩の家でして、食べたケーキはすごく甘くておいしかった。あのとき初めて会った先輩のお母さんはびっくりするくらい美人で、間違えてお姉さんと呼んでしまったことはなかなか忘れられない思い出だ。


 あれから一カ月ほど経ち、先輩は入学に向けて準備を進めている。


 二階の踊り場で、水飲み場の向こうにある通路の突き当り。照明が届いていないためやや暗めな3年4組。わたしはこの場所を通るたびにあの教室を見た。先輩いるかなって、覗くように。それは憧れていた頃から、好きになって、付き合ってからも変わらない。


 けれど今は、ひどくがらんとしていた。


「卒業証書授与式ってさぁ、あれリハーサルいらなくね? 先生が生徒の名前呼ぶだけじゃん。家で練習すればいいのに」

「そんなこと言ったら先生がかわいそうだよ」

「相変わらずぴよは毒がないなぁ」

「ただ」

「ただ・・・・・・?」

「ちょっと疲れちゃった」


 自嘲気味に笑うと、彩葉ちゃんも「それ~」と笑い返してくれる。


雨下あまくだりパイセンがいないからってそんな寂しがんなってー、うちがいんじゃん」

「そうだね。ありがと、彩葉ちゃん」


 顔に出ていたのかもしれない。


 寂しいのは、勿論あった。


 学校で先輩とすれ違うチャンスもない日々は、いつもポケットに仕舞ったスマホの振動を待ち焦がれるだけのものになっていった。


 今日は朝に「これから大学行ってくるよー! 緊張する!」とメッセージが着て、それっきりだ。今頃先輩、なにしてるかな・・・・・・。


 新しい場所と、新しい生活。そんなものに目を輝かせているのかもしれない。


「ずっと会えないわけじゃないんだし」

「ううーん」

「はいそこ唸らない」

「ううーん!」


 でも、寂しいものは寂しい。


 わたしは椅子を自分の席に置いて、早速机に突っ伏した。


「けど忙しいってのはいいことなんじゃん? うちのバイト先のパイセンなんて大学落ちて、滑り止めも落ちたから今必死に就職先探してるよ。それでもなかなか合格もらえなくて第一志望とかもうそういう次元じゃないって。そりゃもう片っ端」


 彩葉ちゃんがボールを投げる仕草を見せて、ぱし、とキャッチする。ばし。ぱしは大変そうだなぁ。


「だからいいことなんだよ。この時期会えないってのは」

「そう言われたら、そうなのかも」

「でっしょー? ポジティブに考えなきゃ。ぴよがそんな顔してるの知ったら雨下パイセンのことだからゼッタイ気にして大学行くの辞める! とか言い始めるって」

「そ、そこまでしないんじゃないかな」

「わかんないよー?」


 彩葉ちゃんが冗談っぽく笑う。


 せっかく大学に合格したのに、わたしのせいでそれを辞めるなんて。冗談だとしても、目を剥かずにはいられなかった。


「あ、あー!」

「うわびっくりした」

「あぁ~」


 そうは言っても、会いたいなあ。


「メッセ送ってみたら?」

「うん」


 先輩とコミュニケーションがとりたい。


 今日のお昼はなに食べましたか?


 そんな些細なことをわざわざ聞いてしまう。


 スマホを眺める。


 既読はつかない。


 頭に手を置かれる。


「恋って残酷よな」

「彩葉ちゃんのそれ、どう反応していいかわからないよ・・・・・・」


 彩葉ちゃんの境遇を考えると、うまく言葉が出てこない。けど、その時点でわたしのほうが引きずっちゃってるのが明確で、逆にぎこちない雰囲気になってしまう。


 二人してスマホの画面と睨めっこしていると岡村おかむら先生が入ってくる。そういえば、藤田ふじた先生も今年の春でどこかの学校へ異動してしまうらしい。


 いろいろあったとはいっても、彩葉ちゃんは寂しくないのかな。


 寂しかったとして、どうするつもりなのかな。


 窓の外を見る。桜はまだ咲かない。


 青空を走り回るよう風に押される雲の流れを見て、昆布みたいに机に垂れる。


 鼻先につく木のにおいが、何かに触れたい衝動を加速させる。おでこに当たる冷たい感触。


 卒業式は、もうすぐそこまで迫ってきていた。

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