第32話 足跡はすぐそこに
ホームルームが終わりバイトへ向かう彩葉ちゃんを見送ってからわたしも旧校舎にある音楽室を目指した。
来るときよりも重くなったカバンを両手で持って、階段を登る。どれだけ経っても、重いものは重い。ひぃ、と息を切らして赤くなった指を見る。手汗が滲んで、運動でもしてみようかなと逡巡するも、過去のあれやこれやを思い出して首を横に振った。
重い荷物は重いままだけど、足取りは経過と共に軽やかになっていく。それはきっと押してくれるものと、向かう先が増えたおかげなのかもしれない。
運動しなくたって、この足は前に進んでくれる。
とはいえ多少のジョギング程度は始めたほうがいいのかもしれない。部活で週一回は必ずやるランニングトレーニングではわたしだけがいつも周回遅れなのだ。わたしに気を利かせて並走してくれる先輩ももういないわけだし。
「よし!」
ポジティブポジティブと彩葉ちゃんの言葉を思い出す。
一段飛ばしで階段を駆けあがる。カバンを引きずらないように、頭上で持つ。高く持ちすぎたかもしれない。二の腕がぷるぷるして震え出した。
「あ、
「と、トレーニングです」
ぜぇぜぇと息混じりの声に視界が歪む。止まると胸がドキドキした。このドキドキは、あんまり好きじゃなかった。
ばったり出くわした顧問の先生は訝しげに首を傾げた。
「そう? 元気なのはいいことだけど無理しないように。と、そうだった。先生これから会議なの。終わったらすぐ向かうけどそれまで自主練でお願いってみんなに伝えておいてくれる?」
「は、はい! わかりました!」
「よろしくね」
先生は両脇にバインダーや資料を抱えたまま階段を降りていく。急いでるようだったけど、佇まいは落ち着いている。大人だなぁとわたしも前のめりになる胸を押さえる。
音楽室に着くとすでに二年生の先輩たちが椅子を並べて準備をしていた。今日はパートごとに練習してそのあと合同練習という形らしい。
伝言するまでもなかったのかな。
そうは言っても一応言われたことはきちんと伝えようと部長を見つけて駆け寄った。
「あ、あの。部長」
「お、白玉ちゃん。どした?」
前の部長から直接任命されただけあって、すごく人望の厚い笑顔をしていた。怖くもないけど、お茶らけているわけでもない。黒縁の眼鏡が照明を反射して奥の藍色の瞳がわたしを覗く。
「先生から伝言があって、今日は会議で遅れるから終わるまで自主練で、っていう話なんですけど・・・・・・もうしてますよね」
「そそ、なんか今日はそんなにおいがしたからさー」
「におい?」
部長は鼻の先をくんくんと動かした。き、器用だ。
「しない? たとえば雨が降る前とか」
「あ、それはします」
「でしょ? あとはほら、これから怒られるんだろうなってにおいとか。あるあるだよねー」
「そ、それはわかんないです・・・・・・」
「ん? 花粉症か?」
ずび、と鼻水を吸う。たしかに昨日から鼻水が時々垂れてくる。
「まぁいいや。伝言あんがとね」
「い、いえ。すみません、もう自主練の準備してたのに、わ、分かりきったこと言っちゃって」
「んなことないって、白玉さん絶対そういうの忘れないし、部長としてすっごく助かってるよ」
「た、助かって」
「そらそうよ。白玉さんいっつも率先して片付けや準備手伝ってくれるでしょ? 演奏してはい終わり~って子が多いからさ~。その点白玉さんはしっかりしてるよほんと。秋のコンクールのときも一番楽器運んでたじゃん」
「それくらいしかできないので・・・・・・」
「いやいやすごいことだよ。いい音を奏でるには片付け掃除まできちんとしなきゃね。他の子にも教えてあげてよ」
わはは、と部長が快活に笑う。
掃除や片付けについては、わたしも意識してやっていた。というのも、先輩が楽器を丁寧に磨く人だったから、それを見ていたわたしも覚えてしまったのだ。
先輩に教えてもらったことで、誰かが喜んでくれる。それってなんだか、わたしも嬉しいし、ちょっとだけ誇らしい。
先輩の教えてくれたことが役に立つのと同時に、やっぱり先輩はすごい人だったんだなって改めて思える。
わたしは部長に頭を下げ、カバンを持って音楽室内をうろうろする。
すでに別の空き教室に移動しているパートも多かった。探すように彷徨っていると、
「白玉さんこっちこっち」
窓際で机をバリケードみたいに並べて、その中から上田さんが顔を出す。
わたしもいそいそと走ってカバンを中に置かせてもらった。
「きょ、今日もすごいね」
「
椅子に座っている河原さんが指でVの字を作る。よくこうして机のバリケードを作る河原さんだけど、わたしはまだ彼女のことがよくわかっていなかった。
「わかろうとしなくていいよ」
隣の上田さんが河原さんの頭をチョップして、困ったように笑う。わたしも一応、頷いておく。ごめん河原さん・・・・・・!
「フルートまだ返ってこないね。白玉さん先生と会わなかった?」
「あ、さっき階段で会ったよ。でもなにも言ってなかった」
「それ忘れてるやつだ。どうしよう」
「腹筋でもしようぜい」
河原さんがシャドーボクシングをはじめる。色素の薄い髪が揺れて、同じく後ろでカーテンが靡く。上田さんはそんな河原さんを見て肩を竦めていた。
「考えて喋ってないんだよこいつ。ごめんね白玉さん」
「ちょっと上様ぁ、私をなんだと思ってるのさ」
「上様言うな」
ごちん、と再びチョップが唸る。
ここフルートのパートだけちょっと騒がしい。たまに視線を感じることもあるけれど、上田さんと河原さんが入ってくれなかったらこのパートはわたし一人だ。今ごろ教室の隅で寂しく練習していたかもしれない。そう思うと二人には感謝しかなかった。
でも、どうして二人は急にこっちに移ったんだろう。三年生が抜けて人数が足りなくなったからかな。
わたしは思い切って聞いてみることにした。
「上田さんと河原さんはどうしてフルートに入ったの?」
「なんか綺麗なお姉さんって感じだから!」
と上田さん。
「横向きだから寝ながら吹いたらリコーダーと同じ音になるのかと思って」
と河原さん。
河原さんのは相変わらずよくわからなかった。
「あとは、白玉さんが放っておけなかったから」
「え、わたし?」
「わたし」
上田さんがビシ、と指を指す。丸みを帯びた指のお腹をじっと見る。指紋がぐるぐる。ぐるぐる考える。
でも、そっか。それはわかるかもしれない。
わたしがいつも危なっかしくて、頼りなくて、だめだめだから、見ていて放っておけないのかもしれない。
「あー、白様が変なこと考えてるぞー」
「し、白様」
それってわたしのこと?
河原さんは不敵に笑っていた。
「白玉さん、なに考えてるかは知らないけど、あたしはそういうつもりで言ったんじゃないから。放っておけないって、悪いことじゃないよ」
「そ、そうなの?」
「そうだよ。白玉さんってさ、何事にも一生懸命じゃん。あわあわして大丈夫かなって思う時もあるけど、それでも頑張るじゃん。重い楽器だって一人で持とうとするし。そういう白玉さんを見てるとさ、なんだろう。元気が貰える。だから元気をもらったあたしも、助けてあげよう、応援してあげようって思うんだよ」
「同意ー」
河原さんが手をあげる。
「白玉さんには、誰かを惹きつける、そういう魅力があるよね」
「おー、上様が口説き始めた」
ぼがん。
河原さんの頭上で回る星。
そんなものがわたしにあるなんて、まったくさっぱり信じられない。
信じられないけど、わたしのしてきたことは、全部先輩に教えてもらったことだ。先輩がいたからこそ、頑張れた。
だからそれを否定するのは、先輩の背中を追いかけた日々を無碍にするようで、嫌だった。
後退る足を踵で止める。
机に腰かけた上田さんと、机に突っ伏した河原さんがわたしをじっと見ていた。
「え、えっと」
褒められて照れちゃうのは、もうしょうがない。
目尻が下がるのを自覚しながら、わたしは言った。
「ありがとう」
わたしが笑うと、二人も同じように笑ってくれた。
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