第22話 名前を呼んで

「燈代ちゃん、こっちこっち」


 音楽室付近の廊下を歩いていると、先輩を見つける。わたしがトタトタと駆けていくと、先輩は目を細める。


 こっそり扉を開けて中に入ると六限目の授業で使ったのか、机の位置がいつもより窓際に置いてあった。


 奥の防音室は一層埃臭く、丁寧に磨かれたトロンボーンに屈折したわたしたちが映る。びにょーんと顎が伸びていた。


 カーテンを閉めると、部屋が一気に暗くなる。床を掃いたあと、先輩が座りわたしも後に続く。


「もうすぐで冬休みだねー。燈代ちゃんはなにか予定はあるの?」

「えっと、年明けはおばあちゃんちに行く予定です。それ以外は、あの、先輩とイルミネーションを見に行く予定だけです」

「私もそうだよ。同じだね」

「お、同じです」


 当たり前のことだけれど、その当たり前を確認しあう作業が心地よい。ふっと肩の力が抜けて、午後の授業で感じた眠気とはまた違った微睡の境目を見る。


 自分の声が喉だけから出ているのに気付くと、リラックスした猫が喉を鳴らす様子を思い浮べる。先輩の隣にいると、どうしてか声の出し方が変わってしまうのだ。


 重い振動が喉から舌に伝わる感触に酔い、話すたびに頭がふわふわして、砂糖菓子のように溶け落ちてしまいそうになる。


「お友達の件、解決してよかったね」

「はい。なんだか、もっと仲良くなれた気がします」

「燈代ちゃん、どうすればいいかってずっと考えてたもん。頑張ったね」


 先輩に肯定されると背筋が伸びる。もっとその言葉が欲しくなって、つい先輩を見つめてしまう。視線に気付くと先輩は必ず笑い返してくれる。別の意味でだめだめになってしまいそうだった。


「でも、彩葉ちゃんもすごいんです。とっても悲しいはずなのに、わたしのこと応援してくれるって言ってました。わたしはただそばにいただけで、彩葉ちゃんは自分で気持ちの整理をつけちゃったんです。・・・・・・なんだか尊敬しちゃいます」


 ホームルームが終わると彩葉ちゃんは教室を飛び出していった。なんでも喫茶店でアルバイトを始めたらしい。行動力っていうのはきっと、気持ちの強さに比例してるんだろうなって思った。


「聞いてるだけで、すごく明るい子なんだなって伝わってくるよ。素敵な友達だね。大事にしないとダメだよ?」

「うん」


 完全に力の抜けきったわたしは、慌てて口元を押さえた。


「燈代ちゃん。今のため口?」

「あ、あ、いやっ、違うんです違くはないですけど。ごめんなさい・・・・・・間違えました」


 うっかりして敬語を崩しちゃうなんて。先輩に褒められたからって調子乗りすぎちゃったかも。


「ううん、むしろすっごくかわいかった。燈代ちゃんのそういう言葉遣い、新鮮でいいね。ね、ちょっとため口で話してみない? 友達感覚でいいから」

「え、ええ?」


 先輩と、友達?


 わたしが昼休み、先輩のクラスで一緒に食事を摂っている姿を想像する。周りはうふふと優雅に紅茶を啜って、先輩の周りに集まっている。その横でわたしはごはんにふりかけをかけて食べて・・・・・・うわあ全然似合わないよ!


 たらればらばらばとあることないこと妄想して、お邪魔してすみません! と退散する脳内のわたし。


 わあきゃあと頭を振っていると、先輩が体育座りした体を傾けて、わたしに寄りかかってくる。


「燈代」


 耳元で囁かれたいつもより低い声に肩がきゅっと縮こまる。


 背中がエビみたいに仰け反って「はひ」変な声が出た。


「なに? その声、へんなのー」 


 先輩がくすくすと笑う。


「ね、ね。燈代は昨日テレビ見てた? 八時の歌番組すっごく豪華だったんだよー」

「へ、ふへぇ、そうだったんですかね」


 日本語を忘れたわけじゃなくて、舌の使い方を忘れてしまっただけ。だけっていうのもおかしな話なんだけど、先輩の前でルーズに振舞おうとすると言葉が出てこないのだった。


麗花れいかって呼んで」


 また、耳元で囁かれる。距離が近いからしょうがないんだけど、耳たぶに当たる先輩の温かい息がわたしの体温をあげていく。


 見上げると、友好的な表情をした先輩と目が合う。佇まいが砕けた先輩は、いつもわたしが遠くから見た先輩の姿だった。


 自分の思い出に、自分が乱入するような感覚に陥る。


 先輩と友達、先輩と友達・・・・・・!


「れ、麗花」

「なーに? 燈代」

「あ、えっと・・・・・・! 呼んだだけです、ごめんなさ・・・・・・ごめん」

「そうなの? 友達同士なんだから別にいいのに」


 肩を震わせて笑う先輩に合わせるよう、あははと笑うわたし。


 ふいに先輩がわたしを押し倒し、あはは、は・・・・・・と声が止まる。両腕を押さえられたまま馬乗りになられると身動きがとれなくなる。


 お腹の上の先輩が楽しそうに揺れる。  


 先輩って友達といるときこんな感じなんだ・・・・・・。


 見たことのない表情と、聞いたことのない声色に、少し寂しさを覚える。


 そのまま先輩が倒れ込んできて、わたしの胸に柔らかいものが当たって当たったあたたたってったってと足をバタつかせる。


 母音をどこかに置いてきたような舌っ足らずな悲鳴を自覚しながらも目と舌をぐるぐると回すのをやめられない。


 密着した体がどんどん隙間を埋めていく。楽器に囲まれた部屋でひぃひゃあぁと鳴る音は、きっと楽譜にしたらおたまじゃくしが池を泳ぐように騒がしくなるのだろう。


「もう燈代、友達同士なんだからそんな恥ずかしらなくてもいいのに」


 眼前で待ち構える先輩の顔。向かい合うのとは違う緊迫感が鼻の先を漂う。


 いつ落ちてくるかも分からないものに怯え、空に浮かぶ軌道の読めないボールをキャッチするかのように慌てふためく。


「ほら、呼んで。私の名前」

「え、れ、麗花」

「もう一回」


 先輩の肘が曲がる。ボールが落ちてくる。キャッチするにはどうすればいいんだっけ。


「麗花」


 グラブをパカパカと開く。使い慣れないそれは硬い。そのわりに、よく湿っていた。


「燈代は、私の友達だもんね」


 先輩と友達だったら、わたしはきっと似合わないけど、今と遜色ない楽しい日々をおくれたんだろう。


 わたしと、彩葉ちゃんと、先輩と。想像するだけで、日々が煌びやかに彩られるようだった。


「せ、先輩」


 けど。


「わたし、先輩とは友達になれそうにないです・・・・・・」


 友達同士じゃきっとできないようなことを、わたしは望んでいる。


 駆け回るために繋ぐ手よりも、離れないように繋ぐ手が欲しい。


 面白可笑しい話に笑う先輩よりも、幸せに耐えきれずついこぼれてしまうような優しい笑顔の先輩が見たい。


 これからも仲良くねじゃなくて、もっと仲良くなろうね、がいい。


「やっぱり、先輩とは恋人でいたいです」


 滲んだ視界に先輩を捉えると、頬にひんやりとしたものが触れる。


「燈代ちゃん。ごっこ遊びなんだからそんな真剣な顔しないでよ」

「あ、ご、ごめんなさい・・・・・・っ」

「ううん。そういうところも好きだから」


 先輩の手がわたしの頬を撫で、首筋を通り鎖骨を過ぎていく。乱れた制服を整えてくれるその優しい手つきは、友達同士ではきっと見られない。


 歯を噛みしめてしまうような、甘い時間。


「好きだから」


 唇が重なると、自然と目を瞑る。


 少しの間、先輩と会わなかっただけなのに。この感触がひどく懐かしいものに思えて、この温もりが大好きだったことを思い出す。


 ご褒美というわけではないんだろうけど、先輩とこうして大好きを分け合う時間のためならなんだって頑張れそうな気がした。


 こうやって今日寝るのも、明日起きるのも、楽しみになっていく。毎日が先輩のことばかりで、他のことを考える暇もないくらい、忙しい。


 校舎の明かりが消えていく。最終下校時間の19時を過ぎた合図だった。


 音楽室を出て校門を抜けると、冬の刺すような空気が足の間を抜けていく。寒気を感じるのは、きっと汗が冷えてしまったせいもあるかもしれない。


「でも、ため口は本当にかわいかったからまた聞かせてね」

「き、機会があれば」


 これからずっと一緒にいればそんな機会、いくらでもくるはずだった。


 ともすればわたしも、友達モードの先輩の気さくな振舞いを忘れられずにいた。


 明日も学校があるわけだけど、先輩はあんなふうに、クラスの友達と接しているのかな。


 こんなキレイな人があんな距離感で笑ってくれたら、すごく楽しいんだろうけど。同時に、別の感情も沸いたりしないのかな。 


 先輩のことを好きな人なんて、わたし以外にもごまんといるはずだった。先輩と同じクラスの人だって、きっと・・・・・・。


 嫉妬、なのかな。


 一緒に遊ぶはずだった土曜日。わたしは先輩に後押しされたこともあって彩葉ちゃんと会っていたけど、先輩はどうしてたんだろう。


 もし別の誰かと遊んでいたとして、わたしと遊ぶよりも楽しいなんて思っちゃってないかな。わたしじゃ上級生にはいろんな部分で勝てっこないのは分かってるけど、それでも・・・・・・。


「どうしたの?」

「い、いえ。なんでもないです」


 わたしはこんな風に一方的なものを抱いてしまう。 


 先輩は嫉妬とかするのかな。しないかな。


「燈代ちゃん、ぎゅってしてもいい?」

「え?」


 突然ではなかった。


 別れる道で、先にばいばいと言ってくれるのはいつも先輩なのでわたしはそれを待っていた。


 わたしが頷くと、先輩が優しく抱きしめてくれる。


 どうしたんだろうと思うけど、理由なんていらないなと先輩の腕に身を委ねる。


 わたしも抱きしめられたらいいんだけど、びっくりしちゃっていつも腕をしまってしまう。小さく握った手のひらが、わたしの胸のあたりで熱を帯びていた。


 でも、なんだろう。


 今日はいつもよりも、長い気がする。


 それに。


「先輩?」


 なんだかすごく。


 わたしを抱きしめる力が、強かった。 

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