第10話 都合のいい話

 んふんふ、と牧場にいる羊の息遣いのような声を漏らしながら帰宅する。洗面所に直行して手を洗う。水気を取ったあと、鏡に映った自分のおでこを触ると自然と笑みがこぼれた。


 キスされた箇所が赤くなっているようで、なっていないようで、いやなってる、と何度も同じ場所をさする。思い出すだけで足踏みが止まらなかった。一歩も動かないままマラソンを始めるわたしを、エプロンを巻いたお母さんは怪訝に見つめていた。


「部屋行ったらあのバカ呼んできて。ご飯だぞさっさと降りてこいって」

「わかったー」

「ったく、今日も大学休んで。あんたはあんな人間になるんじゃないよ」


 いつもの文句だった。


 カバンを持って階段を登り、自室の扉を開ける。


 勉強机にカバンを置いて振り向くと、お兄ちゃんがベッドに寝そべってスマホを弄っていた。寝ぐせがないあたり、ずっと家にいたわけではないらしい。


「ただいまお兄ちゃん。ご飯だぞさっさと降りろ」

「なんだその口調」

「ってお母さんが」

「ふーん」


 お兄ちゃんはこちらを見ないままスマホに夢中だった。


「あ、あのねお兄ちゃん。あの本なんだけど」

「あ? あー、届いてる。これだろ?」


 手に持った漫画をふらふらと揺らされると、わたしは餌に食いつく魚みたいに小走りで近づいた。


「ありがとう! わー、やっと読めるー!」

「いい加減ネットの使い方くらい覚えろよな」

「ね、ネットくらいできるよ! でも注文しようとすると住所を教えてくださいって言われて、危ない個人じょーほー? が漏れ出しちゃうかもしれないから」

「あっそ、なんでもいいけど。ああ、ポイントで買ったから金はいらねえわ」

「ほんと? ありがとうお兄ちゃん!」


 わたしは漫画を受け取って、はしごを使って二段ベッドの上まで登る。


 ページをめくると、紙の新鮮なにおいがする。新品のこの香りがわたしは好きだった。


「しかしまあ、高校生にもなってまだ少女漫画なんて読んでんのお前くらいだわ。なにが面白いんだ? それ」

「えー? うーん、面白いっていうか、キュンキュンするんだ」

「キュンキュンねぇ・・・・・・」


 それっきりお兄ちゃんは何も言わなくなったのでわたしも漫画に集中する。今日届いたこの漫画は今回で最終巻。ずっとすれ違ってた幼なじみの男の子とようやく結ばれ、途中波乱もあって別れちゃった元彼氏とも仲直りする、そんな終わり方で、誰もが幸せになるすごく素敵なお話だった。


 最後のページでみんなが桜の下でお花見をしている大団円は思わず涙が零れてしまう。


「うー、よかったー」


 本を閉じて、枕元に置く。体育座りのまま横に転がって、くるくる、仰向けになって手足は伸ばす。


 いいことばかりじゃなかったし、辛いこともたくさんあった。だけどやっぱり二人の思い合う気持ちは本物で、むしろこれまでの苦難があったからこそ好きっていう気持ちが強くなったんじゃないだろうか。


 なんとなくだけど、今のわたしになら分かる気がした。


 胸に手を当てたまましばらく目を瞑る。暗い視界の中で先輩の顔が何度も浮かぶ。


 わたしも先輩に、なにかしてあげたいな。好きって思うだけじゃなくて、好きって思われるように頑張りたい。


 ただ付き合うなら、きっと難しくはないんだろうけど、やっぱりわたしはこの漫画みたいに素敵な恋愛をしたい。わたしと先輩は運命の中にいるって、ちょっと大袈裟で恥ずかしいけどいつか口にしたい、そんなことを思う。


「お兄ちゃんは彼女さんとうまくいってる?」


 ふと気になったことをお兄ちゃんに聞いてみる。すると下のベッドから怠そうな声が聞こえてくる。


「別れた」

「え!? なんで!?」

「別に俺はそんな好きだったわけじゃねえし。なんかあっちの熱量だけがすごすぎて窮屈だったんだよな。温度差があるっていうか」

「そんなので、別れちゃったの?」

「いいだろ、そんなんで付き合ってても面白くねーし。どうせ彼女なんてすぐできるしな」

「それは、そうかもしれないけど・・・・・・」


 お兄ちゃんは昔から美形やらイケメンやら言われていてその外見には自信があるようだった。ずっと近くにいたわたしから見れば全然そんなことないんだけど、いろんな彼女さんと付き合っているところを見るにどうもそういうことらしい。


「もしかしてさっきから連絡してるのは」

「ああ、新しい女」


 その棘のある言い方にむっとする。お兄ちゃんにはいいところもたくさんあるけど、こうして悪いところもたくさんあるのだった。


「お母さん怒ってたよ。大学は行かなきゃ」

「お前まで説教かよ。いいだろ俺だってやりたいことあんだから」

「やりたいこと?」

「れんあーい」


 小馬鹿にされたようだった。


「そういや今日彼女部屋に来たんだけど、いいよな?」

「別にいいけど」


 お兄ちゃんとわたしの部屋は一つの部屋を区切って使っている。使っていたんだけど、部屋の真ん中を仕切るカーテンが邪魔で随分前に取っ払ってしまった。なので今は共有の部屋となっている。


 だから友達を呼んだりするときは基本的にどちらかが鉢合わせになる。お兄ちゃんが連れてきた彼女さんと鉢合わせてしまうことは何度もあって、それだけが少し不便なところだった。


「上の布団も使ったわ。シーツ汚れてたら替えてくれ」

「使ったって、なにに? お昼寝?」

「そこでヤった」


 布団をめくって、シーツを確認する。別にそこまで汚れてはいない。


「やったー?」

「ああ、やったー」

「んー?」


 なんのことか分からなかった。お兄ちゃんは時々わたしの知らないことを言う。


「でも一応お母さんに言って洗ってもらおうかな。先週掃除出さなかったから」

「おー、そうしろそうしろ」

「そうするそうする」


 わたしはシーツを剥がしてはしごを伝って降りる。お兄ちゃんは仰向けにスマホを弄っていた。


「って、お、お兄ちゃんがやってよ!」

「あー? 漫画代だよ漫画代。手数料は取らなきゃな」

「もー」


 そう言われると頷くしかない。丁度今月のお小遣いはピンチだったのだ。


「おう、あとこれ」


 部屋を出て行こうとしたわたしの背中に声がかかる。


 振り返るとお兄ちゃんがベッドから顔を出して、手に持った本を見せびらかしていた。


「あ、あれ!? これ最近連載が始まったばっかのやつだ! お兄ちゃん、これどうしたの?」

「どうせ読んだあと他のも読みたいとか言い出しそうだったから、先読みして買っておいた。いらないならケツ拭くのに使うけど」

「い、いる!」


 変なことに使われる前に、その漫画本を受け取る。


「さ、三冊も! あ、ありがとうお兄ちゃん!」

「ん」


 お礼を言うと、お兄ちゃんは少し照れくさそうに目を逸らした。


「お兄ちゃんも一緒に読む?」

「いやいい。てかさっきちょっと読んだ」

「そ、そっか! どうだった? 面白かった?」

「ぜんぜん。むしろ体がかゆくなって途中で投げた。運命の人とか、王子様とか、永遠の愛とか、そんなんあるわけないだろ」

「そ、そんなのわかんないじゃん」

「分かる。俺がどんだけ女と付き合ってきたか、お前だって知ってるだろ」

「それは、そうかもしれないけど・・・・・・」


 お兄ちゃんの声はどうしてか、少し悲しそうだった。


「忠告しとくぞ。そんな漫画みたいな恋愛どこにもない。両方が同じくらい好きだなんてそんな都合のいいこと、絶対にないんだからな」


 その言葉に、ジク、と胸が痛んだ。


 それはわたしの自信のなさが原因なんだろうけど、かといって根拠のない更地から潤ったものを見つけるのは難しかった。


 わたしは先輩のことが大好きだ。ずっと前から先輩のことばっかり考えていて、休日も学校の授業の時間も、全部先輩のことで頭がいっぱいだった。


 だからそんな人と付き合うことができた今、好きっていう気持ちはどんどん大きくなっている。


 でも、先輩はどうなんだろう。


 よくよく考えてみれば、先輩がわたしを好きになる理由なんて、あるのだろうか。


 あの日、先輩はわたしの諦めないところが好きって言ってくれた。背中を追いかけてくれる、わたしを好きだと言ってくれた。


 けど、それだけだ。それはある意味、半年前わたしが抱いていた憧れに似ている。


 先ほど読んだ漫画本を再び開いてみる。


 好きを伝え合った二人。結ばれた二人。


 ページをめくると、ハッピーエンドで終わる。


 その先には、なにもない。


 背表紙に描かれたあらすじだけが、二人の幸せを願っていた。


「ちょっとあんたたち、ご飯できてんだけど」

「あ」


 忘れてた。


 大判焼き食べちゃったから、お腹いっぱいだ。

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