第9話 忘れものをとりにきて

 スーパーの駐車場で屋台を見つけ、大判焼きを二人で並んで食べる。わたしがカスタードで、先輩はこしあん。口を開けると湯気があがり、小さな雲のようになった。


「ね、今週の土曜日デート行こうよ」

「デッ」


 再びわたしの口元に雲ができる。はふ、と熱気を外に逃がしてからデッの続きを言う。


「で、デートですか? 先輩と、わたしが」

「そうだよ。私と燈代ちゃん。付き合ってるんだもの、デートって言い方でも間違いじゃないでしょ?」

「そ、それもそう、なんでしょうか」


 なるほど! などと言えるほどまだこの状況に適応できてはいなかった。ずっと好きだった先輩と恋人同士になれたのに、なんて贅沢なんだろう・・・・・・贅沢なお肉が付かないように、今日からダイエットしようと思った。口元のカスタードをぺろりと舐める。あれ?


 大判焼きをもそもそと食べていると、先輩がスマホを持って距離を縮めてくる。栗色の髪が目の前で舞って、横から見た先輩の鼻の高さにドキッとする。


 後にも先にも、きっとこの鼓動の高鳴りは飽きを知らないのだろう。


「でねでね? ここに行きたいんだけど、どうかな」

「動物園、ですか。いいですね。わたし最後に行ったの幼稚園の時です」

「へー、燈代ちゃん幼稚園だったんだ。なんか想像すると・・・・・・ふふっ」

「な、なんですか?」

「ううん。一生懸命走り回ってたんだろうなって思って」


 先輩があんまりにも優しく笑うから、わたしはつい大判焼きに顔を埋めてしまう。鼻先にカスタードが付いて熱い。


「でも、そしたら私と一緒だね。私も小学校の時に遠足で行って以来だから、二回目」

「そうなんですね。勝手にもっと行ってるイメージを持っちゃってました」

「私の周り水族館派が多いの。私もお魚さんは好きだけどね、でもやっぱり、これが見たいじゃない?」


 そう言って先輩が首を伸ばす。ちょっと張り切っているような眉毛が面白い。


「すごいよねキリンって。高いとこの葉っぱが食べたいからってどんどん首を伸ばして、本当に届いちゃうんだもん。絶対、他の動物だったら、あれ無理だなーって諦めちゃうよ。なんだか、カッコいいよね。あんなに可愛い顔してるのに」


 キリンの顔を思い出そうとしても、脳裏に浮かんだのがはたしてキリンなのかヤギなのか分からなくなった。


「ずっとこうやって手を伸ばしていれば、あの雲にも届くのかもね」


 空に手の平を向ける先輩の姿は、背後を彩る紅葉のせいもあってとても神聖なものに見えた。先輩の独り言のようなそれに返事をすることができず、一緒に空の向こうを眺める。


「でも、あれだね。遠ければいいってものでもないか」

「え?」

「近くにあるものが、私は一番好き」


 先輩がわたしの顔を覗き込んでくる。ま、またこれ・・・・・・!


 俯いても先輩が追いかけてきて、わたしから視線を外してくれない。追っ手はわたしが形ある返事をするまで逃がしてはくれない、ちょっとイジワルな人なのだ。


「わたしは、遠いほうが・・・・・・嬉しいです。すっごく、遠いって思ってたから」

「そっか。ありがと、燈代ちゃん」


 先輩がわたしに寄りかかってきて、丸めた肩に先輩の顔が乗るのがわかる。カーディガンからはみ出た指を握られて、ひんやりとした感触に小さく声を漏らす。


 そよ風のような、吐息だった。


 それからずっと、そうしていた。無言の時間をこれほど幸せと感じたことはなかった。外が寒くて体が冷えても、我慢してここにいたいって思った。


 じゃあそろそろ帰ろっかと言われるのが不安で、先輩がみじろぎをするたびに落ち込んだ。その後、まだいていいんだって思うと嬉しくなった。本当に凹凸の少ない喜怒哀楽の渦に身を委ねる。海に浮き輪を広げて浮いているかのようだった。


 時折先輩がわたしの指を掴んで、お人形遊びみたいにして動かしていた。わたしの人差し指と自分の中指を対決させはじめて、最後のほうはわちゃわちゃと絡みあっていた。それが終わると、指を絡めあったまま、スーパーを出入りする人の波を観察した。


「一緒にいられるだけで、幸せになっちゃうね」


 隣で、先輩がわたしを見ているのが分かった。心の中でも覗かれたような気分で、ともすれば別に、見せてもいいと思った。


「このあとどうしよっか。燈代ちゃんどこか行きたい場所ある?」

「えっと、うーんと」


 必死に行きたい場所を探す。が、中々見つからない。普段一人で帰る時は寄り道なんてしないし、休日もこの辺りにはこないし、家で先輩のこと考えてるだけだし・・・・・・あれ、そう思うとわたしって、なんてつまらない人間なんだろう。


「で、デパートとか。あの、シャーペンの、芯がなくて」


 しどろもどろになるわたし。先輩みたいにサラッと誘ってみることはできなかった。


 そもそもシャーペンの芯なんて1人で勝手に買ってろって話だよね。デパートここからだとちょっと遠いし。


「うん。いいよ」


 先に先輩が動き出して、こちらに差し伸べられた手を握る。


 わたしは、先輩の「うん」が好きだった。


 他の人の相槌のようなものとは違う、地を踏むようなその声を聞くとどこか安心してしまう自分がいて、それに甘えたくなってしまう。


 先輩がそうやって頷いて笑ってくれると、わたしの中に眠る後ろ向きな感情が消えていく。付き合う前は不安ばっかりだったけど、今はどちらかというと嬉しいことばかりで、こういう心の中の変化が、楽しかった。


 わたしでも変われるんだ、ってそう思えるから。ちょっとだけ自信も付く。


 なんて言っている間にわたしは素っ転びそうになるけれど、先輩が抱きとめてくれる。いつもわたしの躓いた先には先輩がいて、きっとわたしもそこを目指した。庭に積もった雪を見て飛び込んでいく犬のように。


 デパートでシャーペンの芯を買って、それから和菓子屋さんと服屋さんに寄った。わたしとしては、シャーペンの芯なんて本当はどうでもよくって、先輩と一緒にいられる時間が増えるならそれでよかった。


 色々見たあと、歩道橋を渡り駅を目指す。夕焼けの茜色が、今は懐かしい。前までは音楽室で見ていたものがこうして外で降りかかるのは新鮮だった。


「燈代ちゃんってB使うんだねー。HBのイメージだった」

「前はHBを使ってたんですけど、わたし筆圧が弱いみたいで。彩葉ちゃんに抜け毛みたいな字だねって言われちゃったんです。だからそれ以来はずっとBで」

「そうなんだ。彩葉ちゃんっていうのはお友達?」

「あ、は、はいっ。クラスの友達です。皆川彩葉ちゃんっていいます」


 手で彩葉ちゃんの輪郭を空に描く。こんな感じの子です、って言うけれど、伝わるわけもない。それでも先輩は一生懸命わたしの手を追ってふむふむと頷く。


「なんか、いいな。こうして燈代ちゃんのことたくさん知れるから」


 先輩の足取りが、ややスキップ混じりになる。つま先を立てて地面を踏むそれは、舞踏会で踊るお姫様みたい。


 逆光が冴えて、先輩の体をなぞるように影の凹凸ができあがる。差し込む茜色は形を持ち、温かい匂いのようなものを運んでくる。不思議な感覚だった。


「こうして燈代ちゃんの新しいこと知っていけるなんて、楽しみ。やっぱり、恋人っていいね」

「は、はひ」


 変な返事に、先輩は満足気に笑う。


 甘く、切なさすら覚える時間。自分の口から漏れ出す息が心の奥の幸福感から来ているのだと気付くと、一層口元に意識がいく。改札口の奥からインターホンにも似た電子音が聞こえてくるまで、わたしは先輩と二人きりの花園でも歩いている気になっていた。


 駅中はやはり人が多く、多数の声と動きにより先輩との時間が風化していく。錆びついたものを取り払うように先輩の手を両手で握った。


 すると先輩は手元をみやったあとわたしの顔を覗き込む。わたしはしまったと思い手を引っ込める。


 もっと先輩と一緒にいたいな。


 そんなわがままを口にしなかっただけでも、自制できたほうなんだと思う。


「それじゃあ、また明日ね。燈代ちゃん」

「はい」


 先輩が目の前で手を振る。わたしと先輩の間を、知らない人が通過していく。声をかけても掻き消されるようで、悲しくなった。


 でも、これが最後じゃないから。


「また明日です、先輩」


 そうやってお別れを言える。


 人の波に消えていく先輩の背中を見送って、付き合ってから初めての二人の時間を終える。


 今日はキス、しなかったな・・・・・・。


 期待していた、わけ、なのだけど、なのですが。と言い訳をするように焦り汗が滲む。手のひらが熱い。


 待ち焦がれるというよりは待ち望む、そんなような粘っこい期待に、ばかばかと自分の頭を叩く。


 先輩と大判焼きを食べてシャーペンの芯を買っている間も、ずっとキスのことが頭にあった。もし急に先輩が顔を近づけてきたらどうしようって、緊張しながらも、唇を乾かさないようにしていた。


 それくらい、あの日の口づけはわたしにとって衝撃的で、尾を引くほどに魅力的だったのだ。


 もしかしたらキスって行為は、毎日するようなものじゃないのかもしれない。ともすればわたしからしようなんて考えたこともないし、恐れ多いし、烏滸がましいし、やり方分からないし・・・・・・!


 枕にでも練習してみようかなとも思ったけど、お兄ちゃんに見られたら絶対バカにされる。結局わたしには、待つという選択肢しかないのだった。


「ごめんごめん、忘れ物しちゃった」


 と、どこからともなく先輩の声がする。


 どこだろうって辺りを見渡すと、肩に手を置かれて振り返る。


 目の前に先輩の首筋が映り、額に微かな温もりを感じた。


 声を出すことも忘れて呆然としていると、先輩が一歩引いてわたしの前髪を指で流していく。


「人がいっぱいだから、ね」


 そう言って笑う先輩の表情も、どこか赤みを帯びていた。


「夜、電話してもいい?」

「え、あ、はいっ。どうも!」

「ふふっ、うん。どうも」


 言葉をなぞられるのがひどく心地よく、改札口を通る先輩の背中を、とろみを含んだ視線で追う。


 電車が発車して、人通りが落ち着いてからもわたしは自分のおでこに手を当てたまま固まっていた。


 お、おでこにキスされちゃった・・・・・・。


 その場にへたり込んで、膝を抱えたまま頭をぐわんぐわんさせる。


 うわ。


 うわー。


 うわー!

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