第8話 世界で一番お幸せ
放課後のホームルーム。先に終わった他のクラスの男の子が足元の小窓から顔を出して友達にちょっかいをかけていた。床にお腹がついちゃってて、埃まみれになっている。
落ち着かない様子でスマホを弄っている人もいる中、岡村先生の話はまだ終わらない。彩葉ちゃんが藤田先生に「話ながくねー?」と言うと、藤田先生は真剣な顔で「ちゃんと聞く」と彩葉ちゃんの肩を掴んで前を向かせた。
廊下からはざわざわと喧噪が聞こえ、わたしたちのクラスが最後だということに気付く。わたしは机に置いたカバンに顎を乗せて、のべーっと伸びていた。
待ち焦がれた放課後が来たというよりは、来ちゃった。みたいな感じで、そわそわと焦る心を落ち着かせるにはこんにゃくみたいになるのが一番だった。
そんなこんなでわたしがにゃくにゃくしている間にも岡村先生の話は続く。寄り道するなー家帰っても勉強しろー、と岡村先生もまだ若いのにまるで年配の先生みたいなことを言ってくる。ともすればそれはわたしたちを心配してくれてのことなので、悪く言うこともできず、終わるのを待つしかなかった。
ふと扉の向こうを見る。窓ガラス越しに、人の波が見えた。時々誰かが覗いていって、廊下の向こうから「まだ終わんねー」と声がする。
「あ」
その時、窓ガラスの向こうに二人組が現れた。先輩と、隣にいるのは、誰だろう? 青いリボンだから三年生だろうか。すごくキレイな人だった。
目が合うと、その人は先輩に目くばせをして、再びわたしを見る。まるで観察するかのような視線に、背筋が伸びる。
やがてその人は先輩に手を振って去っていく。背中に長いものを背負っていたから、剣道部か弓道部なのかもしれない。
残った先輩が窓ガラス越しにわたしを見ると、小さく手を振ってくれた。
わたしは辺りをキョロキョロして、何度も頭を下げた。赤べこみたいだった。
ようやく岡村先生の話が終わると、人の波が動き始める。オープンセールのデパートみたいに人が入り込んできて、一気に空気が変わる。
彩葉ちゃんは藤田先生に生徒指導室まで連れていかれたようだった。明日には黒髪の彩葉ちゃんが見られるのだろうか。
「
喧噪の中から声を拾い上げるのは簡単だった。先輩の声はわたしの耳にすんなりと入ってくる。蝉の合唱の中で風鈴の微かな旋律を聞き分けるようだ。
「せ、先輩。すみません時間かかちゃって。あの、迎えに来てくれたんですか?」
「うん。最初は玄関で待ってたんだけど、待ちきれなくって。あれ、カバンぱんぱんだね。なにが詰まってるの?」
「あ、と。生物のテストの点数があんまりよくなくって、家で勉強しなくちゃなんです」
「じゃあ全部教科書? すごいね、燈代ちゃん」
両手で大事そうに持つ先輩のカバンは、わたしとは違いスラッとしていて、しわがない。チャックについたキリンのキーホルダーだけが無造作に揺れていた。
背負おうとしたカバンを下ろし、わたしも先輩みたいに優雅にカバンを持つ。重い。手首がパキパキ鳴った。
クラスの子たちが先輩を見つめながら、教室を去っていく。めっちゃキレイ、美人。かわいい、スタイルよすぎ、髪サラサラ。あのキーホルダーなんだ? そんな声が耳に入る。
やっぱり先輩は他の人から見てもすごい人なんだ。
「行こ、燈代ちゃん」
「は、はいっ」
そんな人が、わたしを見てくれる。他の人じゃなく、わたしに手を差し伸べてくれる。
その手を掴んで、教室を出る。
う、うわ~~~!
なにこれなにこれ、めちゃくちゃ嬉しい! 嬉しいんだけど、ちょっと恥ずかしくて、周りの目も気になるけど、でもそんなことよりも胸がぽかぽかして、幸せだ~~~!
「燈代ちゃん、そんなに強く握ってきてどうしたの? 大丈夫だよ、はぐれないから」
「あ、えっと、はい・・・・・・!」
違うんだけど、そうやって甘やかされると俯いて返事をするしかなくなってしまう。先輩にはやっぱり不思議な魅力がある。この不思議という部分を、フィルターを通してろ過すると、きっと好きっていう透明なものが、ぽたぽたと落ちてくるのかもしれない。
先輩とこうやって帰るのは今日が初めてじゃないはずなのに、すごく新鮮で、はじめて先輩を見たときのドキドキがまた蘇ったかのようだった。
下駄箱で別れて、靴を履く。ちょっと先輩がいなくなっただけで、心細い。わたしは急いでかかとを床に叩きつけた。半分スリッパみたいになりながら玄関に飛び出すと、同じタイミングで先輩と鉢合わせた。
「あ、あれ。先輩、靴が」
「あ、見たな?」
先輩が肩をすくめて笑う。
「早く燈代ちゃんに会いたくって、ちょっと急いじゃった」
「わ、わたしも・・・・・・わたしも、です。ほら」
踵の潰れた靴を見せびらかすと、バランスを崩して先輩にもたれかかる。ブレザーに顔を埋めて、隙間から見えるキャラメル色のカーディガンが鼻先をくすぐった。
先輩のにおいがして、なかなか離れられない。すんすんと鼻を鳴らすと先輩が頭を撫でてくれる。
「ってごめんなさい・・・・・・っ! わたし、うあうあわたしなんて、なんにゃ」
「え? にゃ? ふふっ、なに?」
「あ、だ、なん」
「うん。にゃー、だね」
「あう」
ぷす、と空気の抜けた風船のようにい萎んでいくわたし。先輩は、時々こうやってからかってくることがあるけど、今はそれがとても嬉しく感じる。からかわれて嬉しいなんて、わたし・・・・・・ヘンかな。
染まり始めた紅葉は、妙に親近感がわく。じきに黄色くなって、茶色くなって、地面に落ちるのだろうけど、わたしは、どうなんだろう。
「あ、あの・・・・・・先輩」
「うん? なに?」
先輩の顔を見ることができなくて、繋がれた手の先を見る。
「わ、わたし・・・・・・たちっ、って。付き合ってるんでしょうか」
なにをバカげたことを、と上から大きなタライが落ちてきて、首が曲がる。それくらいに、自分の発言に茶々を入れたくなった。
もし、これが全部わたしの勘違いで、本当に。あの日の出来事が全部夢なんだとしたら、あんまりにも滑稽すぎる。
「えー? 燈代ちゃん急にどうしたの?」
「だ、だって、なんだか、実感がなくて。わたし、なんかが、先輩と」
「ぎゅー」
「ほへっ!?」
先輩の腕が首に巻かれて、わたしの手と指が直角に曲がったまま動かない。
「付き合ってるよー、だって私燈代ちゃんのこと大好きだもん。燈代ちゃんは違う?」
「お、おおおえ、わたしもすっ、すす、すすき」
「あー、そうだねー。すすきも咲く時期だねー」
「は、はい」
「ふふっ」
優しく抱きしめられると、開けた口からほわほわと空気が逃げていってしまう。きっとわたし、今すごい顔してる。せめて誰も通らないでと心の中で叫ぶ。
「いいよ、すすきでも。でも、次は一個、減らして欲しいな」
「が、がんばりましゅ」
「うん。がんばろうね」
耳元で囁かれる先輩の声が、耳を撫でていく。体のもじもじが抑えられなくって、先輩の腕の中で暴れるわたし。
傍から見たら、飼い主に抱かれる大型犬のように見えるかもしれない。
「好きだよ、燈代ちゃん」
くへぇ、と疲れた渡り鳥のような声が漏れる。
あの、神様。
わたし、こんな幸せでいいんでしょうか。
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