第38話 ブレブレの写真

「あ、れ?」


 床に水滴が落ちて、そこではじめて先輩が気付く。頬に痕を作った涙を手ですくい、小さく声をこぼした。


「燈代ちゃんの演奏、すっごく上手だった。上手だったんだけど、なんでだろう。あれ?」


 震えた声で、先輩が無理に笑顔を作る。


「なんか、泣いちゃったね。私」


 決壊したように涙はどんどん溢れだす。嗚咽のようなものが混じると、先輩は両手で目の下を擦った。


「なんでだろ・・・・・・」


 先輩にもわからない涙の意味は、どうしてかわたしにはわかってしまった。


 全然意味のわからない涙が時々目の下を覆う。前に先輩の家に泊まった時、わたしが流した涙もこれだった。


 痛くもない、悲しくもないのに、熱いものが止まらない。


 優しくされたり、胸がいっぱいになったり、幸せを感じると、一人じゃ到底受けきれない量の雨が降る。


 どれだけ拭っても許容量を超えた水滴は指の間をすり抜けて地面に落ちてしまう。傘をさせばいいのだろうけど、あいにく雨が降るだなんて天気予報でもやっていなかったので持ち合わせはないのだった。


「あはは、私、泣いちゃった。泣かないって言ったのに」

「先輩・・・・・・」

「最後までカッコいい先輩でいたかったのにな」


 自嘲する先輩なんて、はじめて見た。それが卒業という枷の外れた姿なのだとしたら、これが本来の先輩なのかもしれない。


 先輩も傘は持ってきていないようで、どんどん足元が濡れていく。顎の先には我先にと水が溜まり重力を待っていた。


 わたしはそんな先輩に手を差し伸べる。


「わたし、先輩のことはすごく尊敬しています。いつだってカッコよくて、キレイで、大人っぽくて。ずっとずっと、先輩に憧れていました」


 先輩の頬を拭うと、宝石のような瞳がわたしを縋るように見つめる。


「でも、先輩の弱いところもわたしは知りたいです。苦手なこと、嫌いなこと、弱音や、悩みも全部聞きたいです。わたしが先輩に支えられたように、わたしも、先輩を支えたい」


 張り付いた髪をどけてあげると、額が露わになる。少し幼い印象を覚える先輩の顔は、涙と共に溶けていくようだった。


 背中に手を回す。


 すっぽり。


 入った。


 手を伸ばせば、こんなにも届く。


 小さなわたしの腕でも、先輩の体を包んであげられる。


「先輩が、教えてくれたことです」

「・・・・・・うん」


 先輩の手が、わたしの背中に回る。いつもと立場は逆だけど、抱くものは同じだった。


「な、なんて・・・・・・ちょっとカッコつけちゃいました」


 そのまま突き進むには勢いが足りなった。深夜にお酒でも飲んでどひゃあと騒げばもっと行けたのかもしれないけど、わたしにはまだ早い。それにリビングで顔を真っ赤にして寝転んでるお父さんの姿を思い出すと、微妙な気持ちにもなる。


 だからこれでいいんだと思う。


「自分でもなんて言えばいいかよくわからないんですけど。でも、そういう、先輩への、えっと、なんでしょう・・・・・・! これまでのあれやこれやみたいな・・・・・・!」

「うん」


 先輩が、わたしの胸の中で小さく頷く。


「大丈夫。全部届いてるよ」


 くぐもった声がお腹に当たってくすぐったい。


 でも、届いてたのなら、よかった。


 家で練習してきた甲斐があったかも。


 難しいところは全然上手くいかなくて途中で投げ出したくもなったけど。


 諦めないことは、金賞を取るよりも難しいことなんだって先輩が言ってくれたから。


 ――本当だ。


 言葉って、後になって効いてくる。


 自分が惨めになって、弱気になって、目の前が真っ暗になったとき。いつかもらった誰かからの言葉がトンネルの向こうの光みたいに私を照らして、そこを目的地にするみたいに、また歩き出せる。


 今日交わした言葉の中に、そんな風に輝けるものが一つでもあればいいな。



 しばらくして落ち着いた先輩は、わたしからなかなか離れてはくれなかった。


「燈代ちゃんからぎゅってされるの、すごくドキドキしちゃった」

「わ、わたしもドキドキしました。死ぬかと思いました」

「ええ? ダメだよ、ずっとここにいてね」

「は、はい」


 わたしの目の前に、先輩の頭がある。どういう顔をしているんだろう。気になって見ていると、顔を上げた先輩と目が合った。


「今までで一番素敵な卒業式だった。ありがとね、燈代ちゃん」

「い、いえ。それならよかったです」

「燈代ちゃんといると、どんどん一番が更新されていっちゃうね」


 むずかゆい感想だった。ふふんと返事をできればよかったんだけど、わたしの口元はふにゃふにゃになって空気の抜けた音しか出せない。


「燈代ちゃん」

「はい」

「フルート、続けてくれてありがとね。部活見学にきてた燈代ちゃんを結構強引に誘っちゃったでしょ? もしかして無理してたのかなって思ってたんだ」


 先輩は心のどこかでひっかかりを覚えていたのかもしれない。ほんの少し遠慮がちに小さくなった声から、そんなことを思った。


「そんなことないです先輩。わたし、フルート好きです。音色もキレイだし、吹いてて楽しいから」

「それは燈代ちゃんを見てれば伝わってくるよ。だから、嬉しいの」

「嬉しい、ですか?」

「うん。好きな人が自分の好きなものを好きでいてくれるって、すごく素敵なことだって思う」


 手元のフルートを見る。


 そっか。これは先輩の、わたしの好きな人が好きな楽器なのか。


 はじめは先輩に近づくために同じ楽器を選んで、全然楽しくなくても先輩といられるのならってそんな不純な想いで息を吹き込んでいた。


 けど、いつのまにかきちんと演奏できるようになりたいって思うようになった。先輩に教えてもらったことを復習して、この楽器と真っ直ぐ向き合うことができるようになると、より一層鳥のさえずりのようなこの音を奏でられることに誇りを持てた。


 わたしは、この楽器が好きだった。


「先輩はどうしてフルートを選んだんですか?」

「私? うーんとね、一目惚れかな」


 一目惚れ。その言葉にちょっとヤキモチを妬く。先輩はわたしに一目惚れなんてしないだろうけどって考えると、うぐぐと手元の楽器を睨む。


「燈代ちゃん、そのフルート。ちょっと壁に立てかけてみてくれる?」

「わ、わかりました」


 言われた通りにすると、先輩も磨き終わった自分のフルートを一緒に立てかけた。


 なんだろう。先輩の隣で、立てかけられたフルートを眺める。


「こうして立てるとフルートって」

「フルートって・・・・・・?」


 どんなヒミツが飛び出すんだろうって、身構える。


「キリンみたいじゃない!?」

「え?」


 先輩は目をキラキラと輝かせ、勢いよく振り返った。

 

「ほら、ここの部分とかキリンの耳にそっくりでしょ?」

「えーっと。あれ? だから先輩はフルートを選んだんですか?」

「え? うん、そうだよ?」

「キリンに似てるってだけで」

「うん」

「ええ?」

「んん?」


 先輩が不思議そうに首を傾げる。


 わたしはもう一度、目を凝らしてみる。うーん?


「たしかに、似てますね」

「でしょ!?」


 言うと、先輩がはしゃぐようにあれ見てこれ見てとわたしの肩を揺らす。


 先輩、かわいいな。


 まるで慈しむようにそんな先輩を見つめてしまう。


「そうだ燈代ちゃん。そろそろあのアプリのテーマアイコンを変えようと思うんだけど。このフルートにしない?」

「あ、そうですね。今のはブレブレのキリンですし、いいと思います」


 あれも味があってよかったのだけど、そろそろ変えてもいい頃合いかもしれない。


 わたしたちのこれからの予定、それからこれまでの思い出が、いろんな記念日になってカレンダーに残っている。最近はアップデートで画像も追加できるようになった。その成果もあってか、先輩の写真を撮る腕前もあがっているように感じた。


 壁に交差するよう立てかけられている二つのフルート。先輩曰くキリンでもあるようなので、いいかもしれない。


「でも、どうせならツーショットも欲しかったり、なんて」


 わたしと先輩が一緒に映ってたらもっと素敵だなって思った。


「大丈夫だよ燈代ちゃん。よく見てみて?」  


 先輩がわたしの肩にそっと触れる。なんだろうって、先輩の視線の先を追うと、そこには金色に輝くフルートがあった。


「あ」

「ね?」

「はい。これなら」


 素敵だ。


「これまできちんと磨いたおかげだね」

「先輩の言う通り、怠らないでよかったです」


 磨けば磨くほど輝きは増し、わたしの照れたような顔を映すほどに、光を放つ。


「この辺だね。よし、じゃあ私が撮るから、じっとしててね?」


 先輩がスマホを構えて一番いい構図を探す。


 フルートにわたしたちの笑った顔が反射すると、先輩がわたしを抱き寄せる。


「いくよー?」


 先輩のかけ声。


「はい、チーズ」


 わたしは、これから自分がしようとしていることに対していやに冷静でいられた。


 先輩、いったいどんな顔するんだろう。


 目をまん丸にして、びっくりするかな。


 考えると、それだけで楽しくなってしまう。


 どちらにしても、きっと忘れられない思い出の一枚になることは間違いなかった。 


 過去のことすら不明瞭なのに、未来のことなんてわかるわけもない。


 でも、だからこそ。そんな想像もつかないような未来がこれから先、わたしを待ち受けているのかもしれない。


 昔のわたしが、今のわたしを想像なんてできなかったように。


 そう思うと、まだまだ頑張ろうって前を向ける。諦めないで、もうちょっとだけ歩いてみようって足を踏み出せる。恥ずかしいけど、後悔しないようにって勇気を出せる。


 わたしは、すっかり油断している先輩の肩に手を置いた。


 先輩の驚くような顔が見える。


 うん、大成功。


 もう憧れるだけじゃない。


 こうして触れて、近づける。


 消えない温もりは枕を濡らしたあの日々と、前に進めなかったわたしがちょっとだけ頑張ったことへのご褒美ってことで。


 少し欲張っちゃっても、いいよね、


 そのまま体重を預けて、突き出すように顎をあげる。


 シャッターを押すその瞬間。


 わたしは、先輩の頬にキスをした。

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