第37話 ヘタクソな音色に想いを乗せて
わたしは一度自分の教室に戻り、立てかけてあった管楽器用のハードケースを持って下の階まで降りた。
三年生の教室がある廊下はシンとしていた。一階にある教務室の前を通ってもコーヒー豆のにおいが香るだけで先生たちは席を空けている。
玄関に向かうと写真撮影をする卒業生や話し合う保護者の人たちがたくさんいて、遠くの木下では先生が何人かに囲まれて笑っていた。
花束を持って走り回る人や、芝生に腰を下ろして校舎を見上げている人。それぞれが感慨を消化して悔いのないよう最後の時間を過ごしていた。
校舎の周りを走って先輩を探す。体育祭で大いに盛り上がったグラウンドを駆け抜け、剣道場を抜けテニスコートを通り過ぎ、もう使われていない苔だらけのプールを迂回して茂みに埋もれた野球部の更衣室の奥にある、体育館の裏口へ繋がる長い階段を登る。
それぞれの場所にそれぞれの思い出がある。噛みしめるように一時を過ごす人たちの視線を受けながら、わたしは息を切らしながら走った。
三十分ほど経っても、先輩を見つけることはできなかった。
先輩、どこにいるんだろう・・・・・・。
焦りのようなものを覚え、スマホを取り出す。連絡はない。電話をかけてみるが繋がらず、メッセージだけ残してみるが当然既読は付かなかった。
すでに卒業生たちは帰路に就きはじめ、校内から華やかな空気がだんだんと無くなり
かけていた。
静まり返った校舎。いつものように鳴るチャイム。教務室で仕事を再開する先生たち。
「先輩、もしかして」
わたしは靴箱にスニーカーを入れて、反対側の旧校舎を目指した。
一段飛ばしで階段を駆けあがる。手に持ったものを落とさないよう、なるべくしっかり。かといって頭上まで上げすぎないように、走る。
その勢いのまま廊下を駆け抜けると木製の壁がカーボンに変わる。長年太陽の光を浴びたせいかやや色褪せている音楽室の扉に手をかける。
開いた。
等間隔で置かれた机の間を通り抜けて、その奥にある小さな部屋のドアノブに触れる。
音のなくなった校舎の中で、ギィと軋む音が大きく響いた。
暗い部屋の中、先輩はいた。
壁にもたれかかって、フルートを丁寧に磨いている。
わたしが部屋に入って扉を閉めると、先輩は視線をフルートに落としたまま口を開いた。
「やっぱりもう一回、しっかり磨いておきたくて」
優しい目だった。
微かに口元を柔らかくして、顔をあげた先輩と目が合う。
「よくここがわかったね」
「先輩なら、ここにいるかなって思って」
思い出の場所がここだといいなって、思ったから。
「一応、何度かスマホに連絡はしたんですけど」
「本当? ごめんね、気付かなかった」
「いえ、わたしこそ邪魔しちゃってごめんなさい」
この小さな部屋で一人フルートを磨く先輩の姿はとても神聖なものに見えて、侵してはいけないと思った。
「そんなことないよ。燈代ちゃん来てくれたらいいなって思ってた。片付けはもう終わった?」
「えっと・・・・・・友達に任せてきちゃいました」
「彩葉ちゃん?」
「あ、はい」
「いいお友達だね」
「はい」
「ズルいね」
その言葉の意図が分からず、わたしは立ったまま辺りを見渡した。仕舞われた、楽器しかないけれど。
「留年しちゃおっかな」
「え!? それはダメですよ! せっかく大学に入れるのに。獣医さんになるのが先輩の夢なんですよね。ようやく夢に向かって走り出せたのに、そんなの――」
「燈代ちゃん」
塞き止められて、ハッとする。
「冗談だよ」
「で、ですよね」
「いい彼女だなぁ」
「へ」
「そういうときは『はい』でしょ?」
「ひゃ、ひゃい」
口の中で舌が転がる。アスパラベーコンみたいになってるかもしれない。・・・・・・なってないか。
そんなわたしを見て微笑む先輩の隣に、腰を下ろす。
「先輩、卒業おめでとうございます」
「うん。ありがとう燈代ちゃん」
「すごくカッコよかったです!」
「そう? 私カッコよかった?」
「はい! それに、キレイです。先輩」
「あれ、私口説かれちゃった?」
「あ、いえ、ちがくて! その髪も、気合い入ってるというか、その口紅の色もすごく似合ってて、大人っぽくて、す」
「す?」
「す、好きです」
「やっぱり口説いてない?」
地面にセリフが書いてあるわけでもないんだけど、わたしは木目をなぞるように視線を下げていた。頭上で柔らかい息遣いが聞こえる。
「ねえ燈代ちゃん。持ってるそれ、もしかしてフルート?」
先輩の視線がわたしの手元に移る。
「あ、はい。そうなんです。修理してもらってたのがちょうどこの前返ってきて、先生に言って借りさせてもらったんです」
「どうしたの? おうちで練習してた?」
「そんな、ところです」
ケースを開けてフルートを取り出す。
スムーズに組み立てて、音を確かめた。
「ちょっと先輩に聴いてもらおうと思って」
「え、私に?」
「はい。先輩とこうして音楽室で会えるのはもしかしたら今日が最後かもしれないので。わたしの音を、聞いてもらいたいんです」
顔をあげる。
恥ずかしくて目が合わせられない先輩の顔を、今なら真っ直ぐ見据えることができた。
なんでかは分からないけれど、わたしの中の決意のようなものが、後押ししてくれているのかもしれない。
「ま、間違ったり変な音が出ちゃっても笑わないでくださいね」
「笑わないよ。それに燈代ちゃんが一生懸命奏でた音色に、間違いなんて絶対ないと思う」
先輩がわたしから離れて、正面に正座する。
なんだかわたしと先輩だけの、ステージのようだった。
お辞儀をすると、先輩がパチパチと拍手をしてくれる。それだけで緊張する。
結局一年部活をしてわかったけど、わたしは楽器が上手じゃない。そもそも音楽の素質がない。リズム感もなければ、指先も器用には動かない。肺活量も少ないし、楽譜を追うのも一苦労だ。
才能という言葉で括ってしまえば、わたしにそんなものはないと断言できた。
けど、才能なんてなくても、誰かのために続けている人だっている。そんなひたむきな人を影ながら応援してる人だっている。全部友達から学んだことだった。
それに、ここはコンクールじゃない。
上手とか下手とか、きっとそういうんじゃない。
そういうんじゃなくてもいいんだから、多分。音楽って素晴らしいんだ。
唇を歌口に付ける。何度も調整して一番いい音が出る位置を先輩と探した。
息を吹く。空気を周りに逃がすように。部活内で何度も練習したにも関わらず上手く息を出せなかったわたしに、先輩はペットボトルの容器で練習するよう教えてくれた。
わたしはこの部屋で、いろんなことを知った。
先輩のキリン好きだってここで知ったし、先輩のお茶目なところや、すぐしりとりをしたがるところ。楽器の手入れの仕方も自然と目で追う内に覚えて、先輩の指の長さ、爪の色。スマホケースの柄や、ソックスの種類。
二人っきりの時の、キスの仕方と、抱きしめ方。甘い吐息と求める腕。
友達の相談にも乗ってもらって、小学校時代の先輩の話も聞いた。先輩にも後悔していることがあって、今度こそって勇気を出したことも知って、先輩の弱い部分を見ると、好きっていう一方的な気持が繋ぎとめるような形に変わっていった。
わたしのつい出ちゃったため口にも笑ってくれて、むしをそれを好きだと言ってくれた。距離感や、関係性。変わっていくものと前に進むもの。それぞれ違うということも教えてくれた。
それに応えるには、きっとたくさんの言葉が必要だ。
あれをありがとう、これは勉強になった。そういえばこれも。そんなことを言っていたら、きっと有限であるこの時間というものはわたしを許してくれない。
だからきっと、音楽というものがあるのだろう。
もう一つ、わたしは先輩から教わったことがある。
音色に想いは乗るということだ。
曲のはじめは、弱い。それはまだ第一歩を踏み出す怖さに怯えて、おっかなびっくり生きていたわたしの声。
それがだんだんと、力を帯びていく。
音を追うように。
あんな風になれたらって、憧れるように。
そうやってボリュームを上げ、やがて焦るようにテンポがあがっていく。
指が追いつかなくなって、ピ! と高い音が鳴る。
そうやって何度も躓いた。
それでも演奏はやめない。歩くのをやめなかった。
だってわたしの前には、先輩がいた。
先輩がいたからこそ頑張れて、その先輩が、わたしのことを好きでいてくれた。
そんな奇跡、この世のどこを探してもきっと、ここにしかない。
だからいいんだ。間違いなんてないって言ってくれたから。
ほら、やっぱり。先輩がいてくれる。先輩の言葉にいつも救われる。
卒業式で、先生も来賓の方も、みんな必要なことは言ってくれた。
お疲れ様。おめでとう。
わたしはその言葉をなんとなくでしか聞いていなかったけど、今なら分かる。
学校って、すごくいろんなことが起きる。
楽しいこともあれば、辛いこともある。勉強とか、進路とか、人間関係とか。自分の惨めさが嫌になって学校に来たくなくなる時だってあるかもしれない。
そんな経験、何度もあった。
たった一年しか通ってないわたしでもこんなたくさんの葛藤があったのに、それを三年も続けるのはすごく難しいはずだった。
それでも、先輩は学校に来た。嫌でも、苦しくても、親とか、先生とか、友達とか。いろんな人の支えを経て、自分も誰かの支えになって。
そうやって三年間を、生き延び、今日ここに卒業する。
だからこそ、お疲れ様。おめでとうなんだ。
全部、全部届けばいいな。
わたしの気持ち。
尊敬、憧れ。それから、大好きって気持ち。
このヘタクソな音色に、乗ればいいな。
きっとわたしにしか伝えられない、わたしだけの気持ち。
見送るんじゃなく、敬うんじゃなく、労うんでもない。
これまでの感謝を込めて。
先輩と過ごしたこの一年、本当に楽しかった。
ありがとうございました。先輩。
演奏を終えて、フルートから唇を離す。
小さな防音室。音は漏れない。
ただ、わたしの目の前にも、音はなかった。
わたしの演奏を聞き終えた先輩の瞳には。
静かに涙が伝っていた。
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