第16話 欠け落ちたイロ
人気のない廊下で聞くスマホのバイブレーションはトンネル内を伝うタイヤの音くらい響いていた。それが実際問題、気のせいであることはわたしのからくり人形のような足取りが証明しているのだけど、自覚があっても自分を客観的に見ることができなくなっているくらいには一つのことに夢中になっているのだった。
小さい頃はあやとりと、それから小学一年生の時誕生日に買ってもらったキックボードに、おばあちゃんから教えてもらった押し花。夢中になったものはいろいろあったけど、誰かに夢中になるのはこれがはじめてだった。
好きになって、付き合ってから、夢中になる。きっと昔の自分に教えてもそんな順序はおかしいと反発されるに違いない。
けれどわたしは今、スマホに映し出された先輩からのメッセージに視線を奪われている。一喜一嬉。そんな言葉があるのかは分からないけど、無機質とは到底思えない電子の文字に心躍らせることができるのはやっぱり、誰かを好きになって、そんな自分を許すことができたからかもしれない。
世界があの日から一新したわけではないのだけど、このコロコロと転がる目が活気を取り戻してからは彩度が濃く見える。
「えっと、待ち合わせは12時で」
わたしの都合に合わせてくれるとのことなので、遅刻しなさそうな、かつ、精一杯準備できるような時間をカレンダーに入力する。
前にダウンロードしたこのアプリの使い方もだんだんと覚えてきて、わたしと先輩だけのカレンダーも賑やかになってきた。
用事以外にも『燈代ちゃんが美術室であくびをしてた』なんてことが知らないうちにカレンダーに追加されてる日もある。直接言われたのとは違い、そこはかとない恥ずかしさがある。
わたしの話をしているところをうっかり盗み聞きしてしまったような感慨に似ていて・・・・・・いやそんな経験ないんだけど。
先輩は普段、わたしの話とかするんだろうか。
していて欲しいとも思うし、しないで欲しいとも思う。悶々と頭に巡るリズムに合わせて、階段を登る。
英語準備室の扉をノックすると、お茶の葉のいい香りがした。先生にプリントを渡して、大きな窓から見える夕陽に背を向ける。用事を済ませたあとの廊下は、さっきよりも広く感じた。
窓側を歩き、中庭を眺める。小さな猫が茂みを歩いているのが見えた。死角に入ると、わたしの背丈では窓の真下を覗き込むことがない。こういうときだけ、自分の背の低さを不便に思う。
けど、この高さの世界だからこそ先輩を見上げることができて、キスをするとき、自然と背中を掴むことができる。
「キ」
想像すると顔が熱くなる。でも頭を駆け巡る願望と過去の映像を合成して最高の先輩を創り出す作業がやめられない。なんだかいけないことをしている気分にもなるけど、その最高を実際の先輩は幾度となく超えてくる。今週の土曜日だって、会えばきっと、想像の何倍も素敵で優しい先輩に魅了されて、また悶々と頭の中で生まれる映像の解像度が増していくんだろう。
猫の見えなくなった中庭から目を離し、前を向く。
「あれ?」
向かいの校舎に、藤田先生と岡村先生がいるのが見えた。なにやら二人、真剣な表情で話をしているようだった。
藤田先生はまだ正式には教員ではなく、この教習期間を終えたらまた別の場所へ行って、勉強して、それからようやく教員として働ける、らしい。前に藤田先生がそう教えてくれたのだ。
藤田先生はわたしにも気さくに話しかけてくれる優しい人だ。きっといい先生になるんだろうなと謎の達観した目線で向かいの校舎を眺めた。
やがて二人は話を終えたらしく緊張の溶けた表情に変わる。それから手を繋ぎ、抱き合ってキスをした。
「え!?」
わたしは慌てて口を押さえる。周りには誰もいない。
確認してから、わたしは再び視線を戻す。
藤田先生と岡村先生って・・・・・・付き合ってるの・・・・・・?
いろいろ考えてみたけど、それ以外の答えは出てこなかった。
「あれ、ぴよじゃん。こんなとこでなにしてんの?」
その時、隣で彩葉ちゃんの髪が舞った。くすぐるような毛先の動きに、揺れる肩。後ろにまとめた髪が柳のように下を向いて、深色の瞳と目が合う。
「って、んー? あれ、あそこにいんのふじちゃんセンせーと岡村センセーじゃん」
そう言って彩葉ちゃんが視線を向かいの校舎に移す。
「あ、い、彩葉ちゃん。見ちゃだめ!」
わたしは慌てて彩葉ちゃんの腕を引っ張った。だいぶ強く引っ張ったから痛いはずなのに、彩葉ちゃんはそこを動かずただ一点を見つめた。
口が小さく開き、息が漏れる。
腕がすっぽ抜けて、わたしは床に尻もちをつく。見上げると、ひどく辛そうに唇を噛む彩葉ちゃんの横顔があった。
「あ、あー」
声を発することに失敗したかのような掠れた息だった。
彩葉ちゃんは笑っていた。
バツの悪そうに頬をかきながら、困ったように笑っていた。
「な、なーんだ。そういうことか。あの二人付き合ってたんねー。まあ先生同士そういうのもあるんかな」
わたしはお尻についた汚れをとって立ち上がる。より近くで見た彩葉ちゃんの表情は、割れたガラスを集めてテープで止めたかのような歪さと、危うさがあった。きっと触れたら簡単に音を立てて崩れてしまう。
張り付けられた笑顔はところどころ光の屈折で曲がっている。わたしは伸ばしかけた手を引っ込めて、彩葉ちゃんの震えた膝を見た。
「てか、えー? 学校でそういうのはね、もっと控えろー! って、カンジだよね。ふじちゃんセンセー、うちに散々怒ってきたくせに」
「彩葉ちゃん・・・・・・」
「いっつもうちのことばっか怒ってたじゃん? もう目つけられてんのかなってくらい。でもあれ見たら、おいおいーって言いたくなっちゃわね? しかもよりにもよって岡村センセーって、次どういう顔で会えばいいかわかんねー、あはは。でも冷静に考えればそっか、センセーと生徒よりセンセー同士のほうが自然だもんね」
いつもの快活とした笑顔はそこにはなかった。白い歯は何度も見え隠れし、眉は方向感覚を失ったかのように彷徨い続ける。
「いやー、まじで」
それは時間の問題だった。やがてすべてが無に還り、表情が消える。言葉が潰え、視線の行方が消える。
「あ」
目からこぼれる涙に気付いた、小さな声。彩葉ちゃんは頬を伝うそれに触れると、もう一度、寂しげに笑う。
「・・・・・・・・・・・・ッ!」
彩葉ちゃんはわたしの横を通り過ぎ、走り去ってしまった。宙に浮いた残滓は、霧散して消えていく。
「彩葉、ちゃん・・・・・・」
夕暮れの廊下。
わたしは一人立ち尽くした。
彩葉ちゃんがどれだけ藤田先生のことを想っているかは、黒ずんだ床を見れば確かめるまでもない。きっと、だけど、と。人の心を覗くのは想像妄想憶測その他諸々の域を出ない。
出ないけれど、さっきの彩葉ちゃんの表情には、ひどく見覚えがあったのだ。
わたしは、あの表情を知っている。
鬱屈で、卑屈で、後ろ向きで、ネガティブな感情ばかりが渦巻いて。好きだからこそ、相手のせいにもしたくなくって、結局矛先は自分に向く。
諦める気持ちと、追いすがる気持ちがぶつかって、そんな自分が嫌で。結局、立ち向かうことを恐れて逃げる。
鏡の向こうで何度も見た。
彩葉ちゃんは、あの時のわたしと同じだった。
「い、彩葉ちゃん・・・・・・!」
わたしにできることってなんだろうと考える。
足は自然と、前を向いていた。
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