第17話 差し伸べた刃
転がるように階段を降りる。脱げそうになる靴の紐を結びなおして廊下を走った。無情な足音がわたしを追うようについてくる。
すぐに息切れが始まって、自分の体力の無さを恨めしく思う。
彩葉ちゃんの姿はすでに見えない。スマホで電話をかけながら、玄関に走る。彩葉ちゃんのスニーカーはまだ靴箱に入っていた。
ちょっと派手だけど、思い切って買っちゃった。そう言って藤田先生に見せびらかすと、藤田先生はかわいい靴だね、と返す。そうすると彩葉ちゃんは嬉しそうにはにかんで、でしょー? と言う。
いつか見た光景を思い出すと、胸がきゅっと締め付けられた。
まだ校舎の中にいる。
階段を登るたびに足が震えて、手をつきながら走る。一度休憩しようと手すりによりかかるけど、すぐに首を振って足を動かす。
息が肺から直接抽出されるように粘ついたものになり、息にまじった自分の声が情けなく聞こえる。うなじの辺りが蒸れてくると、ヘアゴムで髪を結んで再び走った。
脇腹に刺すような痛みが走って顔を歪めた。
痛いのは、どっちだろう。
わたしは走るのをやめて少し待てば痛みはなくなる。けど、彩葉ちゃんは、そうじゃないかもしれない。
わたしたちの教室の前を過ぎたあたりで、ハッとして足を止める。
扉を開けると、自分の席に座った彩葉ちゃんがいた。
わたしの息を整える音を聞いても、彩葉ちゃんはただ教壇のあたりをぼーっと見ているだけだった。
いったい彩葉ちゃんはその教壇に、何を見ているんだろう。
わたしは彩葉ちゃんの席の隣に座った。その拍子に、肋骨付近がズキ、と鳴った。ま、まだ痛い・・・・・・。
そうして自分のお腹をさすっていると、彩葉ちゃんが前を向いたまま口を開いた。
「体力なさすぎでしょ。だからいっつもマラソンびりけつなんだよ」
「そ、そういう彩葉ちゃんはすごいよね。いつもダントツだもん」
「日頃の運動が大事ってコト」
頬杖をついて、彩葉ちゃんは言う。
「けど、息。なんかしづらいわ。階段登っただけなのに」
「彩葉ちゃん・・・・・・」
「なんで来たの」
「え」
「なんでうちのこと、追っかけてきたの」
「それは・・・・・・」
考えて、捻り出す。喉から直接出るような軽率で身軽な声は持っていなかった。
「そばにいようって思ったから・・・・・・」
「うちは一人でいたいかもよ?」
「え! そ、そうなの!? ご、ごめんねわたし気付かなくて・・・・・・す、すぐ行くから」
立ち上がって、慌てて教室を出ようとする。そんなわたしを彩葉ちゃんは止めようとしなかった。
けど。
「なんでだろうね」
言葉を投げかけられた。
「ずっとここで、見ていたほうがよかったんかな」
それは、わたしが地に足を付けようとするのに充分な儚さを持っていた。
「彩葉ちゃん、やっぱり。藤田先生のことが好きだったんだよね」
彩葉ちゃんの息を飲む音が聞こえた。横からでは、表情は窺えない。
「辛い、よね・・・・・・」
「や、べつに」
視線を落としたまま言うと、彩葉ちゃんは不気味なほどに明るい声で言った。
「だって、言ってないし」
「え?」
「うち、言ってないし、伝えてないから。だからこれは、失恋でもなんでもないんだよ」
それは、そうなのかもしれない。
完全に塞ぎこんでしまえば、自分の中で完結する。でもそれはすごく、辛いことのはずだった。
「誰も傷ついてないし、嫌な思いもしてない。ね? なーんでぴよがそんな辛そうな顔してんの」
ばし、と肩を叩かれる。
「うちの片想いはこれで終わり。それでいいじゃん? だーれも損してない」
「彩葉ちゃんが、傷ついてるよ」
そこではじめて、彩葉ちゃんが教壇から目を離した。
その紅色に染まった毛先を指で回して、自嘲気味に笑う。深いため息は、どこかに吸われるように先細り消えていった。
「ふじちゃんセンセー、しっかり怒ってくれるんだよ。他のセンセーみたくめんどくさそうにしないでさ、ホントにこっちのことを想ってくれてるみたいな真剣な表情で。最初はそれが大袈裟だなーって思ってたんだけど、でも、この人はしっかりうちを見てくれてるんだなって気付いて、きちんと授業を受けると褒めてくれるし、ちょっと点数のよかった答案用紙を見せると自分のことみたいに喜んでくれるし。そんなふじちゃんセンセー見てたら、意識しちゃうに決まってんじゃん」
閉め切った窓の隙間から、冬の始まりを告げる冷たい風が入り込む。
「うちのことをよく見ててくれるし、家に来てまで勉強見てくれようとしたこともあったんだ。さすがにそれは、うちがはずいし、部屋も片付けてなかったしで断ったけど、うちのことけっこー気にかけてくれてるのかな? って嬉しくなっちゃってさ」
彩葉ちゃんは思い出すかのように目尻を細め、そのあとため息をついた。
「でも、それも全部うちの勘違いだったわけだ。うちからすればふじちゃんセンセーは怒りっぽくて、細かくて、けど優しくて、かわいい人。すこく身近な存在だった。有り得るかも? って幻想を抱いちゃうような、そんな存在。でもふじちゃんセンセーから見たうちはさ、きっと」
彩葉ちゃんは自分の髪を指で持って、わたしに見せてきた。
「ただの問題児だったんだね」
歪んだ口元、堪えるような瞳。赤くなった鼻の先と、スカートを強く握る震えた手。
「そんな、そんな風に、自分を悪く言っちゃだめだよ」
「でも悪いのは、うちだから。ふじちゃんセンセーも、岡村センセーも、なんも悪くないんじゃん? じゃあ、うちしかいないじゃん。それでいいよ」
「けど・・・・・・」
「いいんだって。うちの片想いはこれで終わり。それで」
「終わり、じゃないよ・・・・・・」
食い下がるわたしに、彩葉ちゃんは驚いたようにこちらを見る。
「終わりなんて、言わないで。彩葉ちゃん」
そうやって自分の中で閉じてしまうのは簡単だ。誰も傷つかない、そもそも争いすら起きない。そんな平和を夢見て、逃げ出す。
それはたぶん、その時に限っては一番いい方法なのかもしれない。
けど、何カ月、何年と経てば、その痛みは後悔に変わる。一生消えない、深い傷に、なってしまう。
そんなわたしを救ってくれたのが先輩だ。
追いかけて、手を差し伸べてくれた。
じゃあ、彩葉ちゃんは?
彩葉ちゃんは、誰に縋ればいいの?
「彩葉ちゃんはすごく素敵な人だよ! 悩みとかいっつも聞いてくれるし、わたしが落ち込んでると声かけてくれるし、明るいし、優しいし。それに、わたしがたまごスープをかけちゃったときも、わたしのほうを心配してくれたもん! 彩葉ちゃんは、問題児なんかじゃないよ!」
懸命に言葉を紡ぐ。お腹の底と、思い出の奥から湧きあがる彩葉ちゃんの素敵なところ、すごいところ。
わたしが彩葉ちゃんの助けになってあげたい。だって、わたしたちは、友達なんだもん。
「だから、終わりなんて、言わないで。彩葉ちゃんは――」
「ぴよに、なにがわかんの?」
手で押さえつけられたかのように、身動きが取れない。そんなわたしを、彩葉ちゃんはたしかに睨んでいた。
「ぴよは好きな人とずっと一緒にいられるわけじゃん。もう、うちのことなんて放っておいて、結ばれた者同士楽しんでればいいじゃん」
「そ、そんなこと――」
細切れになった言葉に、力などもうなかった。わたしと彩葉ちゃんの間に、厚い大きな壁が見えた。それを突き抜けて届くような言葉は、わたしには。
「幸せもんにはわからないよッ!」
はじめて見た。
はじめて聞いた。
痛烈に満ちた表情、苦悶で溢れた声。
大粒の涙が目元の化粧を連れていく。その化粧が、いったいなんの、誰のために。そう思うと、喉の奥が詰まるようだった。
涙で溢れながらも力ある瞳に睨まれる。
噛みしめた唇は、色を失っていた。
「ごめん、言い過ぎた」
「え、えっと・・・・・・」
「帰るわ」
「い、彩葉ちゃん」
「あんま遅く帰ると、心配されるよ」
彩葉ちゃんはカバンを腕にぶらさげて、教室を出ていく。
「わたし・・・・・・」
自分の手のひらを見る。
なにも掴むことのできなかった、しわの少ない手。
開け放たれた扉の向こう側に、体を傾ける。
「しあ、わせ・・・・・・って」
動ない足に触れる。温度も、脈動もなにも感じない。
わたしは再び彩葉ちゃんの背中を追うことが、できなかった。
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