第12話 憧れを捨てて

 お昼に入園して五時間。全部を回ることはできなかったけどすごく幸せな時間を過ごした。滞在時間を短くした太陽がいそいそと落ちていくのを眺めながら、先輩の小鼻の横にできた影を見る。


「先輩、その、楽しかったですね」

「楽しかった」


 先輩は口をとがらせて、拗ねたような調子で言った。


「キリンをあんまり見れなかったのは、残念でしたけど」

「人気だもんね、そりゃ人もいっぱいいるよねー」

「は、はい」

「だよねー」


 まだ背後で動物たちの声が聞こえる。そういえばキリンって鳴くのかな。


 先輩のスマホには、ブレたキリンの顔が待ち受けにされていた。それを睨みつけて、先輩が唸る。


 むくれた先輩も、かわいいな・・・・・・。


 もっといろんな先輩の顔を見てみたい。笑った顔は大好きだけど、怒った顔も、真面目な顔も。泣いた顔は・・・・・・どうだろう、あんまり見たくないかもしれない。心が痛い。


「燈代ちゃん、そんなに見つめられると照れちゃうよ」

「あ、す、すみませんっ!」

「ううん、いいよ」


 そうやってはにかむ先輩。


 ああ、すごい。同じ笑顔のはずなのに、また新しい表情を見た気持ちになる。口角の上がり具合、目尻の融け具合。それから頬の染まり具合、口の開き方、首の角度、声の掠れ方。先輩の一つ一つがわたしの脳裏に焼きついて離れない。


 毎日アルバムの写真が更新されていくようで、容量はまだまだ空きだらけだ。


 ずっと先輩のために、空けてきた場所だから。いくらでも入ってしまう。


「キリンはまた今度だねー。って、勝手に今度の約束しちゃった」

「い、いえっ! また来ましょう! 何回だって来たいです!」

「そっか。燈代ちゃんも動物好きなんだね」

「あ、えっと・・・・・・そうじゃなくって、先輩と来れるなら、です。先輩とが、いいです」


 伝わった、だろうか。


 見上げると、先輩は前を向いたままだった。握った手の力だけが増していく。


 もっと、いろんな好きの伝え方を知りたい。わたしの気持ちを、先輩に届けたい。


 不思議だ。あの日好きと伝えて、付き合い始めた時点でわたしの恋はゴールを迎えたはずなのに、先輩に対する想いが溢れるばかりで止まらない。


「せ、先輩、あれ。川に紅葉がたくさん浮いています。すごくきれい・・・・・・」

「ほんとだ。絨毯みたいだね。寝転んだら気持ちよさそう」

「お、落ちちゃいますよ」

「そっか、じゃあやめておいたほうがいいね。私がホッキョクグマになるまでは」


 そう言って先輩は水をかくジェスチャーをする。


 紅葉は触れ合うと一つの形になって川を漂う。はぐれた一枚がくるくると回って陸との境目につっかかる。すると後から来た塊に連れていかれて仲間入りを果たす。その繰り返しを見ているだけで飽きなかった。


 昔の人がこういう自然を見て詩を詠む気持ちがちょっとだけ分かった気がした。


「燈代ちゃん。写真撮らない?」

「え!? いいんですか!?」

「ふふっ、その反応なに? いいに決まってるよ。っていうか私からお願いしてるんだから」

「そ、そうですよね」


 なんだか時々夢から覚めたみたいな感覚に陥る。


 まだ先輩と一緒にいられるっていう実感が沸かなくて、夢心地に温もりに触れていると突然先輩の方から近づいてくるから目覚ましにかけられたように背筋を伸ばしてしまうのだ。


「待ってね、スマホスマホ」


 先輩はカバンを開けてスマホを探す。


 すると後ろから来た人が先輩にぶつかってよろめく。カバンにぶらさがっていたリスのキーホルダーがちぎれて石段の上を転がり、紅葉の仲間入りを果たした。


 ぶつかった人は気付いていないようでそのまま去って行ってしまった。その背中を見て、すごく嫌な気持ちになった。


 誰かに尖った感情をぶつけたのは、これが初めてだった。


「先輩、大丈夫ですか?」

「う、うん。びっくりした。あの人怪我してないかな」

「気付いてもいなかったみたいですし、大丈夫だと思います」


 こんな時でも誰かを心配できる先輩は、やっぱり素敵な人だなって思った。それに比べてわたしは、少し幼稚だったのかもしれない。


「そっか、よかった。って、あれ? リスがいない」


 地面を探した後、先輩はわたしの視線を追う。そこには川を流れるリスの姿があった。水を吸ってしまっていて黒ずんでいる。


「あ、えっと・・・・・・その、キーホルダー、落ちちゃいましたね・・・・・・。あ、あの。わたしのことは気にしなくていので。あれそんなに高いものでもないですし」


 きっと負い目を感じている先輩をなんとかフォローしようと捲し立てる。けれど先輩はわたしのことなんか見ていなかった。


「え」


 先輩は靴も脱がないまま、その川に足を踏み入れた。


「せ、先輩!?」


 濡れたスカートが傘のように広がって、薄汚れた紅葉が張り付く。


 先輩は服が濡れることも気にしていないようで、水底に手をつきもう片方の手を流れていくキーホルダーに向けて伸ばした。


 しっかり握って、手繰り寄せる。


 まるで形を確認するように小さなそれを抱きしめた。


 わたしは、呆気に取られていた。


 わたしの知っている先輩は優雅で、いつでも落ち着いていて、周りから尊敬の眼差しを向けられるような人だ。


 いつだって淀みのない、綺麗なままの先輩。


 どうして先輩がこんなことをしたのか、わたしには分からなかった。


 川からあがった先輩の服はびしょ濡れで、スカートを雑巾みたいに絞ると地面が濡れる。髪から滴る雫が先輩の表情を隠す。


「せ、先輩。こっちっ」


 その場から動かない先輩を連れ出す。人のいない林道まで来て、ようやく止まった。


 わたしを握った手と、キーホルダーを握った手。寒さからか小刻みに震えていた。


「あ、あの。これ着てください」


 わたしの上着を先輩に羽織る。


 先輩の肩を抱くようにしていると、前髪で隠れていた先輩の顔がこちらに向いた。


 今にも泣き出しそうな、顔をしていた。それを見てわたしは、言葉を失ってしまった。


「燈代ちゃん、引いたよね」

「え」

「いきなりあんなことして、引いたよね」

「えっと」

「嫌いに、なったよね」


 返事をしようとすると、先輩が強くわたしの手を握る。


 嫌いになんて、なるはずがなかった。むしろそれは先輩のほうで、わたしは先輩に飽きられてしまわないようにって必死だった。


 今日だってちょっとでもかわいいって思ってもらえるように慣れないお化粧までしてきたし、肌と体調のコンディションを保つために何日も前から早寝をした。そうやって必死に、やれることはなんでもやった。


 それはお兄ちゃんに言われたことがきっかけでもあった。


 わたしと先輩。きっと思い合う気持ちの大きさは、同じじゃない。


 わたしのほうがちょっぴり、ううん。すごく、前のめりだ。


「嫌いになんてならないです。そもそも、わたしが間違いで買ったキーホルダーなんかのために、先輩がこんなびしょ濡れになる必要なんて——」

「間違いなんて言わないで」


 ハッと息を飲む。先輩の声が、震えていたからだ。


「絶対、失くしたくなかったの」

「でも、だからって・・・・・・!」

「私ね」


 先輩が、床に膝をついたままわたしの手を両手で握る。キーホルダーを掴んだときのように手繰り寄せて、手の甲に額を乗せた。


「好きなの」


 小さい声だった。


「私、燈代ちゃんが好きなの」

「先輩・・・・・・?」

「多分、燈代ちゃんが想像しているよりもずっとずっと、燈代ちゃんのことが好き」


 潤んだ瞳が水面のように揺れる。濡れて張り付いた前髪が、艶やかに光沢をかざす。


「わかんないよね。私、よく言われるんだ。誰にでもいい顔するから、本当はなにがしたいのかわかんないって」


 地面に落ちたのは、雫か、雨か。それとも。


 先輩は顔をあげて、わたしを見る。


 また、見たことのない顔。


 なにかを抑えようとして、けど抑えきれなかったものが目と、鼻と、頬に表れて、口から溢れだす。


「私のほうが、燈代ちゃんのことが好きだよ。大好き、なんだ。・・・・・・伝わら、ないよね」


 届けるのって簡単だ。けど、伝えるのは難しい。


 そりゃ、そうだ。だから言葉があって、表情は変わる。少しでも相手に伝わるようにって頑張る。


 お兄ちゃんだって、きっとそれができなくって苦しんでいたのかもしれない。


 想う気持ちの大きさが、お互い同じなわけがない。


 それは、そうなのかも。


 でも。


「伝わってます」

「燈代ちゃん・・・・・・」


 嬉しい。


 すごく嬉しい。


 高鳴るこの胸の鼓動はわたしよりも随分とお利口さんだ。淀んだ感慨を持たない。ただ素直に、相手の気持ちに応えている。


 うん。迷ったら、手を添えればいい。お利口さんだから、すぐに教えてくれる。


「先輩がわたしのこと好きだってこと、伝わってます。先輩の言ってくれたこと、わたし、信じます」


 雫が一つ増える。


 わたしの好きな人が、わたしのことを好きだなんて。これっていったい、どれくらいの奇跡なんだろう。


 確率じゃなくって、これまで歩んだ道のりが重要なんだろうか。


 必死に悩んで、苦しんで、勝手に未来を想像して、何度も枕を濡らした。


 そんな日々が全部必要なものだったのかもしれないと想うと、また前を向きたくなる。


「先輩、いい、ですか」


 わたしは先輩の肩に手を添えて、同じように膝を着く。


 やり方なんて分からない。


 ただ今は、上手くできなくたって、伝わればそれでいい。先輩だって、そうやって夢中に、不器用に伝えてくれたのだ。


 やっぱり、もういらないかな。


 憧れは、ここで捨てよう。


 この全部がこれから、好きに変わればいいなって。頬を伝う流れ星に願う。


「燈代ちゃん・・・・・・上手だね」

「わ、え、そ、そですか」

「うん。すごく伝わってきた。フルートで鍛えたのかな?」

「ど、どうなんでしょう・・・・・・まったくさっぱり、わかんないです・・・・・・」


 ほんの一瞬だったから、良し悪しは分からない。段々と熱を帯びてきた唇が火傷しそうで、今はそれどころじゃない。


「大好き」


 先輩がわたしを抱きしめて、囁く。


 ・・・・・・大きければいいってわけじゃない。


 好きって言われたら大好きって答える。けど、大大好きじゃ、なんだか心は膨らまない。大好き以上の大きさはいらなくて、中に詰まったものが大事なんだ。


 だからわたしは、好きですと真っ直ぐ伝える。


「・・・・・・好きです、先輩」


 幸せで涙は流れる。それを実感しながら思う。


 お兄ちゃん。確かに、想う気持ちの大きさは同じじゃないかもしれない。


 でも、ずっと隣合わせで歩いていたら、手を繋いでいることしかできないでしょ?


 追いかけて、追いかけられるからこそ。


 手を引いて、背中を押せる。


 それが、付き合うってことなんじゃないかな。 

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