第20話 逃げ道なんてどこにもないから

 カラオケボックスを出たあとの空気は少し潤っていて、平たくなった音響にうーんと伸びる自分の声が加わる。結局泳ぐたいやきの歌で80点を出すことはできなかった。


 そんなわたしのへたっぴな歌は邪魔だと思って後半は彩葉ちゃんにマイクを譲ることが多かったけど、彩葉ちゃんはわたしの歌を聞いてるほうが楽しいと言ってくれた。


 そんなこんなでわたしの70点代の曲がメドレーと化したところで部屋に電話がかかったという具合だ。


 淡くもまだ青白く光る太陽が暗闇に鳴れた網膜を引き裂いて痛みを呼ぶ。柔らかい色を求め探すと、目の前で揺れる紅色の髪があった。


「このあとどうする?」

「あ、えっと」


 スマホを取り出して画面を睨みつける。


「遊園地に行こうかなって」

「この時間から? だいたい五時閉園じゃなかったっけ。二時間くらいしか遊べなくね?」

「で、でも、まだ観覧車に乗ってないし」

「んー? てかそれなに見てんの」

「うわあ!」


 背後ににゅるっと彩葉ちゃんの首が伸びてきてスマホを覗き見られる。


「彩葉ちゃんに元気出してもらうプランって・・・・・・なにこれ」

「わ、わ。見ちゃだめだよ」

「あはは! なになに? わざわざメモ帳に書いてきたの?」


 彩葉ちゃんがわたしの肩を掴んで揺さぶってくる。


「それもうデートじゃん。ぴよはうちとデートするつもりだったん?」

「え!? ううん、まったくさっぱり、そういうつもりじゃなかったんだけど・・・・・・」


 言うと、彩葉ちゃんの笑みに寂寥のようなものが含まれる。木陰で揺らめく落ち葉を見るような感慨に浸り、わたしから一歩離れる彩葉ちゃんの足元を見た。


 学校で履いているのとは違う水色のスニーカーが水面を歩くように地面を鳴らす。靴、何足持ってるんだろう。


「まあいっか。せっかく近くにあるんだもんね」


 前に先輩とも行った遊園地。わたしたちが住んでいる街は、どちらかといえば田舎。もっと細かく言及してしまうと、都会になろうと背伸びをしている田舎。ビルやデパートが並ぶ通りを抜けると老舗が多くなり、果てには田んぼが見える。他県からやってきた人はこれを見て『ボロが出たな』と笑いながら言うことが多い。


 そんな半端な町だけど、いいところもいくつかあって。そのなかの一つに、遊園地が駅から徒歩で行ける場所にあるというものがある。


 彩葉ちゃんと歩き、遊園地を目指す。改札口のない無人駅を通り、田んぼの奥に見える大学を過ぎたところにあるトンネルを抜けると雑木林に出て、さらに川を渡ると見えてくる。


「小学校の遠足以来だわここ」


 彩葉ちゃんが懐かしむように観覧車を見上げる。


 大きなジェットコースターはないけれど、空飛ぶブランコから時々絶叫が聞こえて足がすくむ。


「ぴよ絶対ああいうの苦手でしょ」


 真っ青のわたしを見て彩葉ちゃんが笑う。わたしはそそくさとチケットを買って中に入った。


 時間もそんなにないので、回数券ではなく三枚のチケットにした。これを受付の人に渡すと、そのアトラクションに乗れるというシステムだ。


 さっそくわたしは観覧車を目指すと、ちょうど降りてくるところだった。お客さんがそぞろに出て行くのを待って、赤い色のゴンドラに彩葉ちゃんと乗り込む。


 ちょっと古いからか、踏み入った時にギシと軋む音がした。


「なんで観覧車?」

「あのね、向こうに山が見えるでしょ? この冬の変わり目に観覧車の頂上からあの山を見るとね、キレイなミストシャワーが見えるんだって」

「へー。てかそういうのは先に言わないほうがよくない?」

「そ、そうなの?」

「まあ見ててよ。ぐらいにボカしたほうが見たときの驚きデカイじゃん。うちもうすでにミストシャワー待ちなんだけど」


 ギシギシ、音が鳴る。わたしの首の音だった。


「ぴよってそういうの下手よなー」

「ご、ごめん・・・・・・」

「けどよく知ってたね。調べた?」

「ううん。先輩に教えてもらった。元気を出してもらうにはキレイな景色が一番だよーって」

「パイセンパワーだなー」


 ゴンドラが動く。地上から離れて、景色が下に落ちていく。手を振っていた人たちが消え、空ばかりの世界になると足元が落ち着かなくなる。


 ちょっと硬いシートを握る。穴が開いていて、黄色い綿が飛び出していた。


「けどさ、観覧車ってそれだけじゃないじゃん?」

「え?」


 外を眺めていると、再びゴンドラが軋む。中で重心が移動した合図だった。


「こういうことも、起きるって。言われなかった?」

「彩葉ちゃん?」


 壁に手を当ててわたしを囲うように彩葉ちゃんが覆いかぶさってくる。顔が近づいて、半分睨むような不思議な視線にどぎまぎする。


 紅色の髪が垂れて、視界が秋に染まる。ドアの隙間からは冬の冷たい風が迷い込んでいた。


 彩葉ちゃんは何も言わない。何かを察しろということだろうか。わたしは必死に考える。


 その間にも彩葉ちゃんがわたしの顎を持ち上げ、視線が交わる。宝石のように光る彩葉ちゃんの瞳は、夕陽に変わりつつある太陽の角度によって煌めきを変えていく。


 だんだんと彩葉ちゃんの顔が近づいてくる。その表情は、何かに耐えているかのようにも見えて・・・・・・。


「あ、わかった。彩葉ちゃん、これでしょ?」


 わたしはバッグから酔い止め薬を出して彩葉ちゃんに見せる。


「ごめんね。観覧車で酔う人だっているよね。最初に聞けばよかった。わたし、こういうところがだめなんだね・・・・・・! 自覚!」 


 はい、と差し出すと彩葉ちゃんは。


「そう! それそれ。いやーマジで酔うんだわー。助かる! アライグマ助かるってカンジ」

「ええ? アライグマ」

「アライグマ」 


 彩葉ちゃんは酔い止め薬を口に放って、向かいの席に戻った。


「・・・・・・逃げ道がないって、しんどいね」


 曇天に覗く欠けた太陽のように笑うと、彩葉ちゃんは地上を見下ろした。


 たしかに、逃げ道ないもんね観覧車って。途中でお手洗い行きたくなったらどうしよう。彩葉ちゃんの言う通り、しんどいかもしれない。


 お腹付近に問いかけても、返事は返ってこなかった。


 頂上の辺りまでくると、ゴンドラの速度が落ちる。雲と同化するように緩やかな空の歩行を楽しむと、コンクリートの硬さから解き放たれた肩が上ずってしまう。


 山の向こうでは白雪が雲を呑み込むように拡がっている。舞い上がった結晶が光を反射して、さらに小さな光を作る。何十キロ離れた場所から拡散する光は、無数の粒となってわたしたちの網膜に張り付こうとする。


 質素な街並みの奥に見える幻想的な風景に、わたしは心を奪われていた。


 今度、先輩とも見てみたいな。


 同じ景色でも、同じ感慨を抱くとは思えない。好きな人がくれるパワーって、そういうものだった。


 ふと、彩葉ちゃんを見る。


「キレイだね」 


 窓の外を眺めながら、小さく呟いた。


「別の未来ならさ、一緒に、見れてたかもしれないんだよね」

「彩葉ちゃん・・・・・・」 


 本当は、解決なんてしてなかった。


 吹っ切ることなんてできていない。


 本当は、元気なんかじゃない。


 世界から遠ざかった場所で、彩葉ちゃんは窓に額を当てて震えた息を漏らす。


「ねえ、ぴよ」


 彩葉ちゃんの、目だけがわたしを見る。


「雨下パイセンと、来たことあるんだよね」

「うん。あるよ」

「どんなだった?」

「え?」

「好きな人と一緒にいるって、どんな気持ちだった?」


 答えに迷った。


 それは先輩との時間を思い出せないからというわけじゃない。


 今の状態の彩葉ちゃんに言っていいのか、分からなかったのだ。


「教えて」

「えっと」


 真剣な表情の彩葉ちゃんに気圧されるように背にもたれる。後頭部に当たる鉄の冷たい感触が、不要な熱を取り去っていった。


「楽しいよ、すごく」

「そんだけ?」

「えっと、なにするにも楽しいって感じで。ちょっと長くアトラクションを待つときもあったけど、その待ち時間すらも楽しかった。あそこで叫んじゃいそう、とか。今の人平気そうだったね、とか。そういう些細なことを言い合って、あとでこうしようああしようって予定を立てながら話すと、まだ始まってすらいない未来のことも楽しくなっちゃって、楽しい今の二乗って感じで、ずっと落ち着かなかった」


 続けて、と彩葉ちゃんが変わらない真剣な眼差しで促す。


「もちろん楽しいだけじゃなくって、人込みに押されて先輩の体に抱き着いちゃったときに、胸がドキドキして、顔が熱くなったり。先輩がわたしのことを思って何かをしてくれると心が温かくなって。わたしも先輩になにかしてあげたいって思うようになって、そうすると自然と距離が近づいて、先輩の視線を追うようになっていって、目が合う回数も、手が触れ合う回数も増えて、その度に好きって気持が増していくんだ」


 胸に手を当てると、いくらでも思い出せる。


 先輩と行った場所。先輩との会話。わたしが言った些細な一言に対する、先輩の小さな反応。休日の先輩のヘアアレンジ。服装、香水の匂い。調子の良さそうな顔色。


 だから、好きってことが実感できる。


 こんなに誰かを好きになれる自分を褒めたくなるのと同時に、こんなに自分を好きになってくれる誰かに尽くしたくなる。


 この気持は、きっとわたしだけじゃない。


 互いが同じことを思っているから時折磁石のようにぶつかって、甘い衝撃に、頬を綻ばせる。


 その瞬間。


 その瞬間こそが。


「――」


 彩葉ちゃんを見る。


 淀みだらけだ。


 どこまでも真っ直ぐではいられない。


 何もかもを隠し通せる人間なんていない。


 水たまりのような瞳の輪郭に、わたしは答える。


「幸せなんだ」

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

「って、ち、違うんだよ!? べつに彩葉ちゃんに自慢してるわけじゃなくて、ご、ごめんね!? わたしなんかが何いってるんだーって感じだよね!? えっと、その・・・・・・!」


 慌てて手をバタバタさせると、ゴンドラが揺れた。


 わたし、なんて偉そうなこと言ってるんだろう! というかしみじみと恥ずかしいこと口走っちゃってるよ・・・・・・! 


「いいね、恋人って」


 彩葉ちゃんは窓に預けていた額を離して、正面からわたしを見る。


「恋人に、なりたかったなぁ・・・・・・」


 ボサボサになった前髪が、彩葉ちゃんの表情を曇らせていく。


「でも、なれないんだよなぁ・・・・・・」


 間延びする語尾が、喉奥で鳴る空気の音と共に震えていた。


「ずっと見てたのになぁ・・・・・・ずっと想像して、勝手に盛り上がって。学校に行く理由にもなってたのになぁ・・・・・・センセーが、うちのすべてだったのになぁ・・・・・・いろんなことを教えてもらって、一緒に過ごして、その全部が、たのしかったのになぁ・・・・・・」


 顔を覆う指の隙間から、大粒の涙が伝う。


「全部、諦めなきゃなのかぁ・・・・・・」


 子供みたいに歯を食いしばって、肩を震わせる。拭いきれなくなった涙を何度も手の甲で受け止めて、袖を濡らす。


 彩葉ちゃんの気持ちが同調して、わたしまで辛い気持ちになってくる。けど、ここはゴンドラの中だ。地上から離れた、空のてっぺんだ。彩葉ちゃんの言った通り、逃げ道なんてない。


 向き合わなきゃいけないんだ。

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