第2話 憧れは恋に変わる

 雨下あまくだり麗花れいかという女性と出会ったのは、母親に連れていかれた美容院だった。


 カット四千円、その金額に怯え、お母さんの手を握って「こんな高いところじゃなくていいよ」と引き返そうとするわたしは気付けば半ば強引に椅子に座らされていた。


 来週に控えた高校の入学式のために、身だしなみはしっかり。それから、勉強をきちんとするならギャルギャルしくなってもいいとお母さんは言う。そんなつもりは微塵もないんだけど。


 ファッション雑誌のようなものを渡され、そこに載っている妖精、お姫様、そんなような女の子たちがわたしを見ている。この中の誰かを指差して、こんなカンジで、なんていう自信のある口は持っていない。ページをめくると打って変わって大人の女性ばかりで、わぁっと慌てて戻ると、さくらんぼの髪飾りをつけた中学生向けのページ。さらに戻って、カラフルなランドセルに、運動靴・・・・・・結局、高校生向けのページを見る他なかった。


 その時、隣の椅子から「雨下さん」という単語が聞こえてきて、珍しい苗字だったので気になり、横目でちらっと盗み見た。


 妖精ともお姫様とも似つかない、ほんの少し大人びただけの、等身大の女性がそこにいた。栗色の髪はやや癖っ毛のようで毛先が内側に丸まっている。そのせいでふんわりとした質感になっていて、肩甲骨まで伸びたシルクのカーテンのような髪に、わたしは目を奪われた。


 よく通る声をしていて、喉の引っかかりを覚えない、自然な声質。口を閉じ気味に笑うと、雲の上をスキップするような小気味いい音がして、下がった目尻からは穏やかな印象を受ける。

 

 鏡は正反対に映るというけど、きっと鏡の中のわたしでもあんな風にはなれない。諦めを抱けば後ろ向きな感情が生まれるはずなのに、何故か胸の奥から熱いものが込み上げてくる。


 その人がわたしの後ろを通る。わたしはもう、雑誌なんて見ていなかった。


 ドアのベルが鳴るのと同時に、わたしは素っ頓狂な声をあげた。


 ――あ、あのっ、さっきの人みたいに、なりたいですっ!


 あの人みたいな髪型に、そう言えばきっと笑われることもなかったかもしれない。


 わたしは美容師さんに髪を梳かれながら、真っ赤になった自分の顔を見た。


 髪は短くされた。さっきの人の髪は長かった。鏡を不思議そうに覗き込むわたしに気付いて、美容師さんが教えてくれる。


「六ヶ月も経てばあんな風になれるよ。横がふっくらしちゃうみたいだったから、ちょっと梳いておいたからね。それから」


 肩に手が置かれる、


「もっと背筋を伸ばせば、完璧」


 すぐになんて近づけない。もっともっと時間をかけて、努力して。ようやくあの人みたいになれる。これから開花する桜、始まる高校生活。それと、短くなったこの髪。この全部が第一歩になる。そんな予感がして、わたしはぎこちなく、鏡の前で張り切っていた。


 高校に入って、食堂の空いている席を探していると、その人はいた。三年生の青いリボンをつけて、友達らしき人たちとB定食を食べていた。


 わたしはおぼんを持ったまま、ドキドキしていた。そんな単純明快な胸の高鳴りと、喜びにも似た高揚感、ずっと思い出の中にいた人物が目の前に現れたという奇跡と、これから同じ場所で生活ができるという事実に華やぐ心。


 先輩と目が合うと、わたしは逃げるように回れ右をした。


 わたしの後ろを歩いていた人とぶつかってしまい、たまごスープがスカートにこぼれてしまう。ぶつかった人はお弁当箱を手に持っていて大事には至っていなかったが、野次馬のような視線を多く感じ、その中に先輩もいるのかと考えたら、もうその場にいることができなかった。


 結局わたしはお昼は食べず、お腹を鳴らしながら教室に引き籠もった。


 元々部活動には入ろうと思っていたので、校門でもらった数枚のチラシを手に放課後の校舎を回る。運動は昔から苦手だったので、外に用事はなかった。


 音楽室の前を通ると、汽笛のような音が廊下に響き思わず足を止めた。中を見ると数人の生徒が椅子に座り、楽器を演奏していた。


 窓際に見学者らしき人たちが並んでいたので、わたしもこっそり仲間入りを果たす。友達同士で見に来ているような人たちが多く、少しアウェイであることは否めなかった。


 もうちょっとしたら帰ろうかな、と思っていた頃に演奏が終わり、試しに見学しているわたしたちにも楽器を使わせてくれるという話になった。


 元々中学校で吹奏楽をやっていた人は自分の担当楽器に向けて一目散に駆けていくし、友達同士で来ている人はかっこいいじゃんとトランペットのところまで興味深そうに歩いていく。


 一人ポツンと残されたわたしは、遅れて室内を歩き回る。


 ふと、黒板とグランドピアノの間に先輩がいるのを見つけた。


 あ、と思わず声を出してしまう。幸い試奏の音で掻き消されてはいたけど、恥ずかしくていそいそと部屋を出て行こうとした。


「フルートに興味あるの?」


 両手を後ろに回してわたしに笑いかけるその姿は、あの時鏡越しに見た、思い出越しに憧れた、先輩そのものだった。


 話しかけられたことにびっくりしちゃって、わたしは返事をすることができなかった。先輩がわたしを見ている。先輩がわたしを認識している。先輩がわたしに話しかけてくれている。そう思うと、何故か申し訳ない気持ちでいっぱいになった。


 え、とか。あ、とか。要領の得ない母音の連続に先輩は嫌な顔ひとつせず、優しくわたしの手を握ってくれた。先輩の手は柔らかく、夏の夜に触れる、布団のシーツのように手離し難い冷気を宿していた。


 フルートの奏者は三人だった。そもそもこの部活自体、人数は多くなかった。だから嬉しかったのか、先輩はなんとかわたしにフルートの楽しさを教えようとあれやこれやと説明してくれた。


 でも、すでにわたしの心は決まっていた。フルートという楽器が先輩のように素晴らしいものだとしても、錆びた音しか鳴らないただの鉄の管だったとしても。わたしは吹奏楽部に入ることを決意していた。


 きっとそれが、第一歩になる。そう思い。


 わたしは背筋を伸ばして、入ります! と、チューニングの外れたような声で返事をした。


 先輩は朗らかに笑ってくれた。


 憧れというものがひどく身近に感じ、触れられるものだと気付くと止めていたはずの足がそちらに向かっていく。人の欲望に際限はないなんて大規模な話ではないけれど、胃の中にストンと落ちていく酸味のあるものとつい胸に手を当てたくなる切なさは、恋と呼ぶにふさわしかった。


 ただ、憧れが恋に変わったとしても。わたしと先輩の物理的な距離が近づいたとしても。


 これが片恋であることに気付くのは、そう時間はかからなかった。 

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