だめだめなわたしが憧れの先輩と付き合う話

野水はた

第一章

第1話 二人きりの音楽室で

 最後はキリンだった。


 もっしゃもっしゃと顎をズラして草木を頬張る大きな動物を想像していると、長い首が伸びてくる。黄色じゃなくて肌色。ややベージュの混じったそれは、牧場の羊を思い出させた。


 かと思えば聞こえてくるのは猫が喉を鳴らすかのように低く、どこか心地の良ささえ覚える声。キメラや、鵺のようないろいろな動物がくっついている怪物を想像する。


「もう、『き』はずるだよ。そんなのキリンって言っちゃうに決まってるもの」


 先輩は両手を床についたまま頬を膨らまして壁に寄りかかった。


 足を動かす仕草の中で、スカートが太ももとの境界線を変化させていく。引いていく潮のような郷愁に駆られ、思わず目を奪われた。


 遮光カーテンの隙間から覗く茜色の夕日がただでさえ黄色がかった音楽室の壁を淡くライトアップしていく。先輩の輪郭に影がかかり、密閉された室内に埃が少し舞って見えた。


「あ、あのっ、すみません。狙ってやったわけじゃないんです・・・・・・。嫌なら、いいですから」

「しりとりで負けたほうがヒミツを一つ暴露するって最初に言い出したのは私だもん。だから謝らないで? 典型的な、蚊取り線香が蚊取り線香になるっていうやつなんだから」


 ミイラ・・・・・・と言いかけた口を静かに閉める。


「うーんとねぇ、私がキリンのぬいぐるみを密かに集めてるっていうのは・・・・・・もう言ったよね」

「はい。私がまだ入部したばかりの時に」

「とっておけばよかったなぁ。えーっと。ヒミツ、ちょっと待ってね? すっかり燈代ひよちゃんには勝てる気でいたから全然考えてなかったよ」


 スラっとした顎の先端に指を当て、垂れ気味の目を閉じると長いまつ毛が鍵盤のように交わった。


 きっとスキップをするように軽やかな音がなるんだろうな。


 羽毛のようにふわりとした佇まいの先輩は、風に導かれたように時折こちらの顔を覗き込んでくる。癖みたいなものなんだろうけど、縮まる距離と、眼前に突然現れる整った顔立ちにわたしはつい背筋を張ってしまうのだ。


 先輩は鍵についた輪っか型のホルダーを指にはめてくるくると回した。


「これね、私が持ってること先生は知らないんだ」


 盗んだ、なんてことはないはず。先輩は真面目で、勉強や部活にも真摯に向き合うような人だ。だから盗むなんてことは・・・・・・ない、よね? 先輩の見せる、少しイタズラっぽい笑みに推測が不確かになる。 


「返すの忘れちゃってて、その日が金曜日だったから次の週の朝に教務室に行ったんだけど。すでにスペアの鍵が補充されてたの。だからね?」


 先輩は舌を可愛らしく覗かせてウインクした。てへ、と星が散るような仕草に、わたしもなるほど、と返すしかなかった。


「じゃあ、わたしたちがここにいるのを見られたら」

「うん。怒られちゃうかも、主に私が。だからこれは二人だけのヒミツ」


 指を口元に当てて、朗らかに笑う。先輩の肩がわたしの肩に触れると、つい首筋に力が入る。


 音楽室の奥にある、この防音室には時計がない。今は何時なんだろう。


 廊下を渡る足音が聞こえなければ、わたしたちの声も外には聞こえない。まるで外界から遮断された、わたしと先輩二人だけの場所。


 両手で抱えたペットボトルを持ち、唇を当てる。


 ふす、と空気の抜けるような音がわたしと先輩の前を通り、落ちて、転がっていく。そこまで重量の感じる音でもなかったが、きっと重要なのは音自体の、飛ぼうという姿勢なんだろう。


「燈代ちゃん、私の唇よく見てて」


 すると先輩も、持ったペットボトルを唇に当てる。ひょうたん型のペットボトル。先輩は炭酸が好きみたい。わたしはしゅわしゅわと舌を転がるあの泡が苦手だ。でも、最近はコップ一杯分なら飲めるようになった。


 先輩が息を吹くと、蒸気機関車のような音が文字通り、部屋全体に響いた。防音の壁も、ようやく仕事になるといきいきとしているようだった。


「燈代ちゃんはたぶん、音を全部中に入れちゃってるんだと思う。トランペットとかと違ってフルートは外にも息を吹かなきゃいけないの。見ててね?」


 もう一度、先輩のペットボトルから重厚な音が鳴る。薄いピンク色の唇が飲み口に押し当てられると合わせるように形を変え、視覚からでもその柔らかさが伝わってくる。半開きになった口の奥には赤い舌が息を潜めるようにしていて、ふいに見えると、ゾクりとした感覚が背筋を走る。


「ね?」

「はいっ、もう一回やってみます」


 わたしは首を振って雑念を取り払った。せっかくわたしのために時間を割いてくれているのに、わたし自身が練習に集中できていないのでは先輩に申し訳ない。


 ペットボトルの飲み口に下唇を置くように乗せる。先輩の湖のような瞳が、わたしの唇をじっと見つめる。当然、わたしの息は震えて、プラスチックの空洞からは笑い声のような音が鳴った。


「うん、上手上手。フルートって音出すのすごく難しいから。燈代ちゃんはすごいよ」


 それがお世辞ということも分かっていた。入部して六カ月ほどが経った今もまともに音も出せないわたしがすごいわけがない。


 けれど、自分のことのように喜んでくれる先輩の屈託のない表情を見ていると、それに甘えたくなってしまう。


 その後も、頭部管だけを使った練習をして、調子がよくなってから簡単な演奏をした。わたしの隣で、先輩もフルートを吹く。わたしの何倍も綺麗な音が出ているにもかかわらず、その音は儚く小さい。それがわたしの音を際立たせるためだということに気付くと、より一生懸命手元と口元に意識を向ける。


 本当に奇跡みたいなタイミングで、互いの音が重なる。そうすると先輩はフルートを鳴らしたままこちらを見る。


 先輩の奏でる音が軽やかで幸せな、祝福の音色に変わる。おめでとう、やったね。そう言われている気がして、音に気持ちは乗る。そう思った瞬間だった。


 先輩がふいにスマホを取り出す。液晶の発する光が、暗いこの部屋に強く広がる。時間を見て、楽器の掃除を始めた。


 フルートをばらし、ガーゼを巻きつけた掃除棒で管内に溜まった水分を拭き取る。ゴシゴシと手を動かし、時々つっかえるわたしの手捌きに対して、先輩の手つきは優しかった。


 あんな風に頭を撫でてもらえたら、なんて思ってしまう。


「燈代ちゃん、もしかして柔軟剤変えた?」

「えっと、多分変えた、と思います。お母さんが洗濯してくれてるので何に変えたのかはわかんないですけど」

「あれじゃないかな、アリア」

「CMでよく見るやつですね。たしか、西海くんが出てる・・・・・・あ、そういえばお母さん、西海くんのファンなんでした」

「じゃあ当たりかな? ふふーん、私の鼻。結構効くでしょ?」


 すんすんと鼻を鳴らしながら、先輩がわたしの首元に顔を近づける。生暖かい息が耳の裏側に当たり、つい掃除途中のフルートを強く握りしめてしまう。


 俯くばかりで何も言わないわたしの顔は、ぜったい真っ赤になっているという確信があった。


 恥ずかしい、落ち着かない、くすぐったい。どれも惜しいようで、今のわたしの感慨を表すにはすこしだけ不適切な気がした。


 ドキドキと高鳴る鼓動はきっと、なにかを期待している。


 手入れを終えたフルートを仕舞い、防音室を出て誰もいない音楽室を後にする。廊下はすでに黄金にも似た滲んだ色に染まっていて、わたしよりも背の高い先輩が隣を歩くと影がわたしを覆う。


 そこからはみ出ないよう、しっかりと先輩についていく。カバンを両手で持つ先輩の所作は上品で、揺れる栗色の髪は秋始めのこの季節通りの優雅さを持っている。


「りんご」


 階段を降りている途中、先輩が前を向いたまま呟く。それが開戦、もしくはリベンジの合図なのだと気付くと、わたしは間髪入れずにごましおと答えた。


「オットセイ」

「いかすみ」

「ミミズク」

「くろず」

「ず? す?」

「どちらでもいいと思います」

「じゃあ、ズグロチャキンチョウ」

「ウェイパー」

「あれ? それって、ぱ? それとも、あ?」

「ぱだと思います」

「そっか。えっと、パプフィッシュ。あ、この場合は、ゆ、でいこう」

「わかりました。えっと、湯煎・・・・・・あっ」


 答えとして言ったわけじゃなくて考えている最中に呟いただけのつもりだったのだけど、先輩は嬉しそうに笑い、下駄箱へと走っていってしまった。


 わたしが靴を履くために屈んでいると、すぐ隣に来た先輩が膝立ちの状態でわたしを見ていた。


「私の勝ちだね。燈代ちゃんのヒミツ、教えて? 今なら周りに誰もいないよ」


 耳元で囁かれる。ゾワゾワとした感覚に、唇がきゅっと締まった。いそいそと靴を履き終えると、先輩が促すように耳をこちらに向けていた。形の整った、綺麗な耳だった。


「実は、お腹・・・・・・空いてます」


 すると先輩は、そっか、と呟いて立ち上がる。調味料ばっかりだったもんね、と指摘されて、お腹がぐぅ、と答える。


「帰りどこか寄っていこっか。あ、今日木曜日だよね。大判焼き屋さん、来てるんじゃない?」

「はい、そうですね・・・・・・わっ」

「行こ。燈代ちゃん」


 手を引かれて、外を駆ける。夕焼けに彩られたわたしの手は、真っ赤に染まっていた。先輩の背中、なびく髪。繋いだ手。周りの景色に意識を向ける余裕なんてわたしにはない。


 ――先輩、好きです。


 それは文字通り本当のヒミツ。


 足元に落ちた銀杏のように、そもそも咲くことのない実なのかもしれないけど。それでも、と願わずにはいられない。


 秋萩をなぞる微かな風は、いまだ余熱を持っていた。

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