第34話 大切な人
楽器の手入れと教室の片付けを終えて、部活は解散となる。
駐輪場まで上田さんと河原さんと一緒に行って、二人の後姿を見送る。河原さんの自転車がジャコジャコとチェーンを回し、その音は二人が見えなくなっても続いた。
田んぼの向こう側に駅の灯りが見える。遠いようで近いのか、それとも見たままなのか。実際に歩いてみないとわからないのだろう。
わたしは踵を直して正門へ向かった。まだ生徒玄関からまばらに人がでてきている。その波に紛れるよう、わたしも小さな歩幅で冷たい地面を歩いた。
校舎を振り返ると、大きな時計台がわたしたち生徒を見下ろしてくれる。止まることのない秒針は経年劣化によるものか、やや錆びついていた。
まだ一年も経っていないこの風景を見上げても、思い出すのは入学式と合格発表のこと。まだまだめぼしい思い出というかけがえのないものはこの校舎から貰えていない。
けど、先輩から見たこの景色は、わたしとは違って見えるんだろう。
郷愁にも似た寂しさは、消しようのないものだ。誤魔化すことや、上書きすることはできるかもしれないけど。
開いた手が、空気を掴む。
わたし自身が寂しいとか、先輩がいなくてどうしようとか、そんなことばかり考えていたけど。それは先輩だって同じなはずだ。
「燈代ちゃん」
聞こえたのと振り返るのと、どっちが先だっただろう。
「あ、せ、先輩!?」
校門近くの塀にもたれた先輩が、小さく手を振っていた。頭の中にあった妄想や願望をそのまま切り取ったかのような姿にこれが本当に現実なのかどうかが分からない。
一歩近づいて、また一歩近づくと、先輩がはにかむ。ほのかに甘いホワイトブーケの香りがして、もう一歩。正面から先輩を見据えて胸元に軽く触れると、柔らかい感触が跳ね返ってくる。
本物の先輩だってわかると、体の奥の方からじんわりとした熱いものが込み上げてくる。足がむずむずして、今にも足踏みを始めてしまいそうだった。
「お化けじゃないよ?」
「は、はい。先輩です。でも・・・・・・どうしてここに?」
「レクリエーションが終わったのが夕方だったから、今から向かえば燈代ちゃんに会えるかなって思って。今日部活だったでしょ?」
慌ててスマホを確認するけど、先輩からの連絡は着ていなかった。
「サプライズで来たら、燈代ちゃん驚くかなって思ったの」
「そ、そうなんですね。どちらかというと驚くというよりは、嬉しかったです」
「本当? よかった。私も燈代ちゃんと会えて嬉しいよ」
先輩が伸ばした手を掴む。ふにゃふにゃになった口元を見られないようもう片方の手で隠す。目元でバレバレかもしれない。
子供みたいに手を繋いでぐわんぐわん振るのもいいけれど、こうして腰で挟むようにすると大人びた心地よさを感じられる。恥ずかしさと嬉しさを行き来するこの感覚がわたしは好きだった。
「レクリエーションって朝からでしたよね。こんな時間までおつかれさまです」
「ありがとう。終わったのはお昼ごろなんだけど、そのあとに親睦会があったから長引いちゃった。でもいろんな人とお話できて楽しかったよ」
チク、と胸が痛んだ。
先輩はキレイだからきっといろんな人に話しかけられていろんな人に好きになられる。わたしなんかよりすごい人はたくさんいて、そんな時間がこれからどんどん増えていくんだろう。
「先輩、手がいつもより冷たいです」
「そうかな。私冷え性だから」
「ううん、冷えてます。わたしのこと、待ってたから、ですか?」
その赤くなった指先には、ここで待っていた先輩の時間が色濃く記されていた。よく見れば先輩の頬や耳たぶも赤くなっている。
まだ冬の名残を残しているこの寒空の下で、先輩は何時間わたしを待っていたんだろう。
「そんな顔しないの。私が勝手に待ってただけなんだから」
「でも・・・・・・」
「それに待ってるのもすごく楽しかったよ。燈代ちゃん来たらなんて声かけよっかなーとか、燈代ちゃん私を見たらどんな顔するのかなーって考えてたら時間なんてあっという間だったしね」
「わ、わたしどんな顔してました・・・・・・?」
「想像より何倍もかわいい顔」
囁くように言われて肩が跳ねる。風が拭けば髪が鼻先を掠めるこの距離で、わたしは唇を噛みしめた。
「わたし、かわいいですか」
「うん。すっごく」
「今日大学で会った人よりも、ですか」
「燈代ちゃん?」
ってわたし、なに言ってるんだろう。
そんなわけないのに、ちょっとかわいいって言われたくらいで調子に乗っちゃった。
「もしかして、ヤキモチ焼いてくれてる?」
「・・・・・・かもしれないです」
「そっか」
正月に散々お餅を焼いたのにまだ焼き足りないなんて。これ以上体重が増えたら、目も当てられない。
なんて思っているあいだにも先輩に抱きしめられて、背中が反ってしまう。その反った部分にあてがわれるように添えられた手がわたしを支えた。
「ヤキモチ焼いてる燈代ちゃんもかわいい」
頭を撫でられると髪があっちこっちいって耳の裏が軽やかになる。
「寂しかった?」
「・・・・・・はい」
「ごめんね」
「ずっと会いたかったです」
「うん」
「ずっと先輩のこと考えてました」
「授業は真面目に聞かなきゃだめだよ?」
「でも、つい先輩今なにしてるのかなって考えちゃって、いつもなら三年生の教室に行けば先輩がいるから安心できるんですけど。先輩がわたしの知らない場所に言っちゃって、知らない誰かと喋ってるのかなって思うと・・・・・・気になっちゃって」
今日の板書はおそらく過去最悪だろう。エックスの文字がふにゃふにゃの芋虫になっていることを思い出すとそれは明らかだった。
「あ、で、でも! 話しちゃダメとかそういうんじゃないんです! 先輩はキレイだし、優しいし、先輩のこと好きな人もたくさんいるだろうし!」
慌てて手を振ろうとするけど、手首を掴まれて動かせない。向かい合った先輩の顔が近づいてきて、息が止まりそうになる。
「たしかに今日はいろんな人に話しかけられたよ。みんないい人で、面白くて、連絡先とか聞かれて、食事にも誘われちゃった」
「そ、そうなんなんですね」
なんが一個多かった。動揺を隠すのは難しい。
「けど、全部断ったよ」
「え、せ、せっかく仲良くなる機会だったのにですか?」
「うん。話しててね、あー、燈代ちゃんのほうがいいなー。燈代ちゃんと話してたほうが楽しいなーって思っちゃった」
先輩は笑っているけど、わたしは意外だった。
先輩って誰にでも優しいから、人に優劣を付ける人じゃないと思っていた。でも、先輩はたしかに、わたしと今日話した人を比べて、わたしを選んでくれた。
「だから親睦会も途中で抜けてきたの。早く燈代ちゃんに会いたくって」
「先輩・・・・・・」
なんでだろう。
わたしを選んでくれた。わたしを優先してくれた。その事実が、どうしようもなく嬉しい。別にそんな大それたこと望んでいたわけでもないのだけれど、わたしのワガママが顔を出しちゃってる。
「わかった。今度から誰かと話すときは先に言っておくことにするね」
「言っておく、ですか?」
「うん。私には大切な人がいるので、って。それなら大丈夫でしょ?」
大切な人。
大好きって言われるのも嬉しいけど、大切と言われるのはなんだか、なんだろう。言い表せない。言葉にしようとすると細分化されすぎて粒みたいになってしまう。
けど、手を握られて真正面から大切な人だと宣言されると、わたしもその手を握り返したくなる。
先輩のためなら、わたしはきっとなんだってできる。空だって飛べちゃうかもしれない。そんな夢を見て、大袈裟に幸せを噛みしめるのが癖になりそうなほど嬉しくて。
やっぱりわたし、先輩のことが好きだ。
わたしの返事を待たずに、先輩が手を引いて歩き出す。代わりにぎゅっと、力を込めた。
「先輩、卒業式・・・・・・もうすぐですね」
「そうだね。あっという間だ」
「先輩がいなくなっちゃうのは、寂しいです」
本心だった。
それを伝えるのは難しいって思っていたけど、先輩といるとすごく簡単だ。
「でも、こうやって久しぶりに会うと。溜まっていたものがわああって弾けるみたいでっ、こ、これもいいなって思いました・・・・・・!」
「もう燈代ちゃん。久しぶりって、昨日も会ったでしょ?」
「そうですけど、わたしにとっては、久しぶりのうちなんです」
一夜空くだけで胸の奥がもぞもぞするのだ。一日、一週間も会わずにいたら、わたしはどうなってしまうんだろう。
誰かを想う気持ちも、そろそろ慣れのようなものを持って欲しいところなんだけど、わたしの心は初心を忘れない主義のようで、胸が高鳴る衝動から新鮮さは消えないのだった。
「だから、卒業してからもまだ楽しみがあるんだって思うと寂しくないので。先輩の卒業、精一杯お祝いできそうです」
「お祝いだなんて。でもありがとね、燈代ちゃん」
「はい。ただ」
これはもう一つの懸念点なんだけど。
「先輩の卒業式でわたし、な、泣いちゃうかも・・・・・・」
しっかりと先輩の背中を拍手で見送ることができればいいんだけど、自分のことがあまり信用できない。コサージュをつけた先輩が卒業証書を持って退場していく姿を想像するとそれだけでも涙ぐんでしまう。
「泣いちゃうのは悪いことじゃないと思うよ」
「先輩は、卒業式泣いちゃったりしますか?」
「私? うーん、小学校のころはあんまり覚えてないなぁ。中学校は泣かなかったよ」
そっか。やっぱり先輩大人だな。
「卒業式って新しい門出をみんなに見てもらうっていう、喜ばしいものだと思ってるから。むしろ笑ってたかも」
「え、わ、笑ってたんですか?」
先輩は頷く。
「だからたぶん泣かないかな」
「た、たしかに先輩が泣くのって想像できません」
「それってどういう意味なのかな?」
先輩にじーっと見られてわああと逃げる。追ってくる。先輩に覗き込まれると、つい歩く速度が落ちてしまう。
先輩が定期を探す素振りを見せると、終わりを感じる。着いてしまったという後悔だけを胸にしまって古い電灯の霞む階段を登った。
もっと一緒にいたいけど、そういうわけにもいかないのが時間の経過というものだった。太陽がもっと頑張ってくれたら、先輩と一緒にいられる時間も増えるのかもしれないけど。
かといって先輩の時間も奪いたくなかった。先輩はすごく大事な時期だし、先輩には先輩のやるべきことがある。
わたしは先輩のことが大好きだけど、それと同時に、とても大切な人だ。
この手を握る以外にも、わたしにできることはたくさんあるはずだった。
駅のホームに入ると、スーツ姿の人が散見される。
その間をくぐり抜け、改札口の前で手を離す。
「ねえ、燈代ちゃん。あれ、またしてくれる?」
先輩がもの欲しそうにわたしを見てくる。
この前わたしがついやっちゃった別れの挨拶なんだけど、どうも先輩はそれが好きみたいだった。
ともすればわたしも好きなことに変わりはなく、先輩に言われるまでもなく自分からするつもりだった。
こうやってわたしと先輩との距離をどんどん縮めていけたらいいなって思う。
やることがいっぱいだ。本当に毎日が忙しい。不安や悩みがすぐ幸せに上塗りされてしまう。
わたしは改札口に向かう先輩に、大きく手を振った。
「ば、バイバイ! 先輩!」
「うん。バイバイ燈代ちゃん」
敬語を崩すと先輩の笑顔が増す。
先輩の望んでいることに向けて、ちょっとずつ前に進むわたし。
いつか交わるときが来たらそのときは、きっとまた新しい道を見つけるんだろう。
小さくなる背中を眺めながらそんなことを思った。
「よ、よし」
先輩の卒業式がよりよいものになるよう、どうすればいいのか。
教えてもらったことを全部含めて。
もう答えは出ていたのだった。
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