第24話 熱を持つ
ぶくぶくと泡ぶくを産みながら底に溺れていく。底に溺れるというのも変な話だけど、家庭の平均的な湯船の大きさではその表現が適切なのだった。
鼻の穴に弾けた水が入ってくすぐったい。息が詰まりそうになったところで顔を出す。やっぱりもう一回顔を沈める。
川を泳ぐワニのように顔半分を水面に出して、口に入り込む入浴剤を味わう。変な味。
爽やかな柚子の香りとは裏腹に、わたしの頭はでろでろとしたもので溢れていた。
「先輩が、わたしと・・・・・・」
入浴剤のせいで少しぬるぬるした自分の肌を撫でる。艶やかに照明を反射するそれは、茹でたばかりの卵のようだった。
彩葉ちゃんに教えてもらったことを思い出して、そっと指をあてがう。ずっとかけなかった背中をかいたときのような、何とも言えない達成感のようなものを感じる。ただ、それ以外に含まれたものを読み取れない。
先輩を想うときに生まれるのはいつだってお花畑だった。ちょうちょと駆け回るような夢物語を妄想しながら、にへにへと枕に顔を埋める。
だけど実際わたしは遅れているようで、本来ならばこうして自分の切望した想いをなぞるようにして慰めるのだと言う。
彩葉ちゃんは中学一年生の時にはもう知っていたらしい。もしかしたらわたしのクラスのあの子も、あの子も。そう思うと、周りがひどく大人びて見えた。
たしかにわたしは自転車の補助輪が外れるのがすごく遅いほうだったけど、それとこれとは話が別・・・・・・別なのかな。
一人で練習して、いろんな場所を走って。それじゃ満足できなくなって、誰かを誘う。ちょっとだけ似ている気がした。
それが好きな人となら、きっと必然的な成り行きなんだろう。
ということは、ということはだ。
先輩も、こういうことを知っているということで、こういうことをしているということで。
わたしが補助輪の外し方も知らないままキコキコと家の周りを走っている間にも、先輩はわたしの知らない風を感じていたということだ。
今も、もしかしたら。
そう考えると、顔がどんどんお湯に浸かっていく。
普段は優しくて、落ち着いていておしとやかで、キリンが大好きな先輩も。誰かを想って、今のわたしと同じ場所を触っている。
その誰かというのがわたしなのだとしたら、なのだとしたら・・・・・・え? なんなのでしょう!
わたしのどこにそんな要素があるんだろう。
足からお腹を通って、自分の胸元を見る。
あるにはある、けど、こうして屈むようにするとよくわからなくなる。ふん、と仰け反る。ある! かといって、一日中仰け反って生活するわけにもいかないので、多分、ないほうに分類される。
スタイルもよくないし、お母さんにはよくちんちくりんなんて呼び方をされる。
だけど、こんなわたしが、先輩を、ドキドキさせちゃって、そういうことをしたいって想わせちゃって、困らせちゃってる。
ぴちゃ、と音が鳴る。ぎゅって握ると水鉄砲みたいに水が飛んでいく。・・・・・・遊んでる場合じゃない。
恋人ならこういうことをするのが自然なんだって彩葉ちゃんは言っていた。そして先輩は、その合図を何回もわたしに出してくれていた。
先輩はわたしの同意を求めていたのだ。やっぱり、優しいな。
そうやって大事にされていることを自覚すると、体がぽかぽかして足の付け根がむずむずする。
口をお湯に付けていると、キスされているようになる。柚子の香りが先輩の香りとすこし似ていて、尚更わたしの鼻奥を刺激する。
いつまでこうしていればいいんだろう。
終わりの合図みたいなのは一応あるみたいなんだけど、それがどれなのかが分からない。
歯を磨きに来たお母さんに「はよあがれ」と急かされるまで、わたしは悶々と湯船の中で格闘を続けていた。
「い、痛い・・・・・・!」
体を拭いて、パジャマを着る。それからドライヤーで髪を乾かしているあたりで、触っていたところがヒリヒリと痛くなってきた。
歩くと擦れて熱を持つようになる。
「うぅ・・・・・・なにんしてるんだろうわたし・・・・・・」
なるべく服が擦れないようにひょこひょことはしごを登る。二段ベッドはこういう時に不便だった。下を見るとお兄ちゃんはまだ帰ってきていないようだった。お泊りかな。
そういう時にも基本的にお兄ちゃんからの連絡は入らない。お昼にちょっと喧嘩したとお母さんが言っていたので、もしかしたらそのせいもあるのかもしれない。さっき帰ってきたばかりのお父さんはあまり気にはしていないようだった。
仰向けになって、目の前の天井を眺める。昔わたしが開けてしまった穴に貼られたガムテープがぴらぴらと揺れていた。
なにしようかなと一瞬頭をぼーっとさせると、すぐに先輩のことを思い出す。
スマホを手に取って、メッセージアプリに表示された先輩の名前を見る。アイコンはこの前動物園で撮ったブレたキリンからリスのキーホルダーに変わっていた。
そういう変化を見つけてしまうと嬉しくなる。
「ええっと」
もう九時過ぎちゃってるけど、先輩寝ちゃったかな。
もしかしたらお風呂かな。ご飯、なんてことはないと思うけど。そういえば今日は先輩が見てるドラマの放送日だ。あれって何時って言ってたかな・・・・・・。
うーんとスマホを睨みつける。
そういえば、わたしから通話をかけようとするのは初めてだった。
いつもは先輩のほうからメッセージがきて、それからちょっとやりとりをしてから通話をはじめるという流れなので、わたしからの切り出し方が分からない。
好きな人に嫌われないように、とか。失礼のないように、とか。そんなことばかり考えてしまってなかなか指が動こうとしてくれない。
すぐにメッセージをくれる先輩って、やっぱりすごいな。大人だな。
そんな先輩だから、わたしのいきなり通話も許してくれるんじゃないかと淡い期待を抱く。出なかったら、メッセージに残しておこう。
ちょっとお話がしたかったです。
・・・・・・なんか訳アリみたいだ。
実際問題、まったくさっぱり訳なんてないのだけど。
用事があるわけじゃない。先輩の声が聞きたい。
わたしは枕にスマホを置いて、人差し指で何度も通話ボタンを突っついた。爪、指の腹。つんつん。反応しない。あれれと思う反面、少しホッとする。いやいやと、ついには中指も参戦する。
くすぐるように画面をひっかいてうわ押しちゃった!
呼び出し中の画面が表示されて、スピーカーの部分からプルプル電子音が聞こえる。
わたしは四つん這いになって、スマホを睨みつけた。息も忘れて、何故か出ないでと拝み始める。
プツ、と小さな音が鳴って、微かな声が聞こえた。
通話中の画面。先輩のアイコンが大きく表示されていた。
あ! ってわたしも声をあげる。
出てくれた!
矛盾だらけだった。
行ったり来たりの感情を処理できなくて、正座したままスマホを耳に当てる。
「あれ? 燈代ちゃん? もしもーし」
「あ、あ、あ先輩こんばんわ」
「え? ふふっ、うん。こんばんわ。今日はどうされました?」
おどけるような先輩の声は、電話越しだといつもと違って聞こえる。
家だからか、ちょっと小さめで、低い声。耳元で囁かれるような感覚に、つい両手でスマホを持ってしまう。
「あ、あの。ごめんなさい、先輩の声が、聞きたくて」
ジー、と電話の向こうから機械音が聞こえる。無音というものは、基本的にないのだった。
そんな無機質な中から届く先輩の声が、ひどく温かく感じる。
「うん。私も燈代ちゃんの声が聞きたかったところだよ。通話かけてくれてありがとう。すごく嬉しい」
「は、はいっ!」
スマホを指でつついていたことを思い出して、ちょっとおかしくて笑った。
そんなまどろっこしいことしなくても、先輩はこうして受け止めてくれる。
横たわった布団に触れる。柔らかい。
寒くなってきたので、そのまま布団の中にくるまった。
「燈代ちゃん今寝転がってる?」
「え、なんで分かったんですか?」
「眠そうな猫ちゃんみたいな声だったから」
「猫ちゃ」
「うん。私もお布団入ろうかな」
スマホの向こうからもぞもぞと音がする。先輩の部屋の、大きなベッドを思い出す。たしか白生地で、花柄の布団だった。あの中に先輩が入って寝転がる。髪がこう、もふってなって、枕に乗るのかな。想像する。
「よいしょ」
声が近くで響く。
「今スマホをね、顔のすぐ近くに置いてるの」
「あ、わたしもです。電気も消してます」
「寝るモードだね」
そのあと、ピッと音がする。そういえば先輩の部屋の電気はリモコン式だった。
「私も寝るモード」
先輩のくすぐったそうな笑い声が耳元で聞こえる。
こうして暗い部屋で先輩と通話していると、本当に先輩が隣にいるみたいで、先輩と添い寝しているみたいで。
つい毛布を丸めて抱きしめてしまう。
「燈代ちゃんは横向きで寝てる?」
「はい。仰向けは、うまく眠れなくて」
「私も、枕が合ってないのかも。あ、知ってる? 横向き用の枕とかあるみたいだよ。今度見に行ってみない?」
「そんなのあるんですね。是非行ってみたいです」
「いいのあったら、お揃いの買おうよ。そしたら毎日添い寝できるよ」
添い寝。その単語が先輩からも出てきたことに驚く。同時に、同じことを考えていたという事実に胸が高鳴る。
目を瞑ると、とろんと思考が溶けていく。
先輩がスマホの向こうから話かけてくれている。目を閉じたままそれに答える。
暖房もつけているし、布団もしっかり敷いている。寒いわけじゃない。
なのに体は、なにかを求めている。
「ね、燈代ちゃん」
「はい、先輩」
「・・・・・・・・・・・・」
「あれ、先輩?」
言葉が続かなかったので不思議に思い聞き返す。
「やっぱりなんでもない。ちょっと恥ずかしくなっちゃった」
「そ、そうなんですね」
「うん。燈代ちゃんは私がなんて言おうとしたか分かる?」
「え、えっと・・・・・・はい。わたしも、たぶん同じことを、言おうとしてました」
「ほんと? なになに? 教えて?」
嬉しさを隠しきれないような無邪気な声に、わたしも微笑むのが分かった。
横になりながら、枕の隣に置かれたスマホを見て、言う。
「手を、繋ぎたいです」
布団の向こうに手を伸ばす。電波には触れない。
ん、と。相槌のようなものが聞こえた。ともすればそれは、何かを噛みしめているかのようだった。
「先輩」
「どうしたの?」
「あ、いえ、なんか」
どうしてそう呟いたのかは分からない。気付けば口から漏れていたのだ。
何かを求めるかのように、どこかを目指すかのように。
お互いが眠りに向かっていったことに気付いても、通話は切らなかった。
まどろんでいく世界の中。
わたしは自分の腕を、両足で挟んでいた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます