第26話 どどどどど

 ドキドキ。


 焦がれるようなものから一変し、何かを待ち受けるようなもどかしさに身じろぎが多くなるのを自覚して息が深いものになる。


「あ、飲み物買っていく?」


 飲み物。水分補給。汗をかく。運動、激しい、喉が乾く。


 浅い勉強から得た知識が頭を駆け巡って唇の間から変な音が漏れる。


 コンビニで買った天然水は、空気の泡を上下させてカバンの中で揺れていた。あとはお菓子と、ウエットティッシュも同伴し、それが意味するものをひたすら考える。


 よし、って決めた夜のテンションはすでに焚火のように消えていて、決意や勇気といったものが日中の陽の光に焼かれていくようだった。


 どどどどうしようとおぼつかない足元に連動するように口元の輪郭が波打つ。


 わたしは恋人だから、先輩とそういうことをするのは当然なのかもしれない。わたしだって先輩の優しいところや朗らかな立ち振る舞いだけを好きになったわけじゃない。


 膨らんだ胸元や、綺麗な脚。それに体操着の間から覗くお腹に目を奪われたこともあったし、長くて細い指を見ているとぞわぞわとしたものを感じることもあった。


 美容室で見た、先輩の髪も、もちろん大好きで。わたしはしっかり先輩の体も大好きだったのだ。


 彩葉ちゃんに教えてもらったことや、本の知識なども踏まえると。


 そういうのを、えっちな目というらしかった。


 そうやって形容すると顔がどんどん熱くなっていく。


 あれからちょっとずつ練習して、なんとなくだけど終わりというものが見えてきた。けどやっぱり、補助輪を外したばかりじゃ遠くへは行けないし、つい蛇行してしまう。


 ポケットでスマホが揺れるのを感じて、見てみる。


 わたしの『どうしよう彩葉ちゃん、これから先輩とお泊りします』というメッセージに返信が来ていた。


『男なら覚悟を決めろ!』


 男じゃないよ! と返す。


「どうしたの? 燈代ちゃん」

「いえっ、な、なんでもっ」


 落ち着け落ち着けと胸をさすさすさすさすさす。さすって、ちっとも落ち着かない。


 告白して、付き合って、一緒にデートしたりして、お互いのこともたくさん知れた。先輩がわたしのことを、わたしに負けないくらい好きだってことも教えてもらった。


 繋ぐこの手に、不安や悩みなんて微塵もない。


 なのにどうして、こんなにも頭がくらくらしてしまうんだろう。最初の頃に戻ったように、しどろもどろと体の重心が行方を求める。


 先輩の家に着く。玄関に置かれた観葉植物を見る。靴を脱ぐ。先輩が先にあがる。白く洋風な壁がわたしを迎え入れる。粗相のないように靴がきちんと揃えてあるかもう一度確認する。ひっくり返っていた。いそいそと直す。階段を登る。先輩のスカートが揺れる。普段じゃ見られない曲線が、お尻のほうへと向かっていく。転びそうになって、手すりに捕まる。驚いたように先輩が振り返って手を伸ばしてくれる。ごめんなさいと手を握ると抱き寄せられて先輩の胸に埋もれる。先輩の手が背中を撫でていく。わたしはぎゅっと目を瞑る。先輩は小さく微笑んで、階段を登っていく。少し遅れて、わたしも止まっていた呼吸を再開させて後に続く。


「親御さんはなんて?」

「あ、えっと、むしろ泊まってこいって言われました」

「そっか、急に誘ったから迷惑かなって思ったけどそれならよかった。ちょっとリビングのほう片付けてくるからすこしだけ待っててくれる?」

「わかりましたっ」


 声が上ずる。


 先輩がいなくなった部屋で、小さく縮こまる。


「あ、楽にしてていいからね」


 再び開いたドアの隙間から先輩が顔だけ覗かせる。すぐに引っこんだけど、わたしは跳躍する猫みたいなポーズのまま固まっていた。


 黄色い丸机のそばに置かれた座布団の上に座って、わたあめみたいなクッションを抱く。先輩の香りとは少し違う、石鹸の混ざったようなものに肩の力が抜けていく。


 体育座りして、足とお腹の間にクッションを挟める。もこもこして、優しく包み込んでくれる。先輩の近くにはそういうものが溢れていた。


 黄色い丸机には黒ぶちのランチョンマットが敷かれていてすぐにキリンを模したものだと分かる。緑色のカーペットは草原のようで、壁にかけられた小さな時計は満月のようだった。


 ちら、とベッドに視線を向ける。


 枕や布団はキレイに揃えられていて、シーツにはシワがない。きっちり整頓されたそこは、もしかしたらこれから台無しになるくらいに乱れるのかもしれない。


 すぅ、と息を吸う。吐くのは忘れた。わたしのなかに滞在した甘いものがゆっくりと浸食していく。


「いい女の秘訣・・・・・・」


 雑誌で読んだ、そんなフレーズ。


 そのなかに、自分をしっかりと持つと書いてあった。


 揺らいで崩れてあっちこっち、そんな自分じゃきっとだめなんだろう。


 先輩がそんなふうになっているところをわたしは見たことがない。だからこそ憧れて、そばにいたいって思うようになったのかもしれない。


 それはすごく難しいことなんだろうけど、その代わり今始めて遅いなんてことは絶対にない気がした。


 わたしと先輩の気配しかしない、物音の少ないこの家。時計の秒針だけが、わたしの鼓動に合わせて動いている。


「おまたせ燈代ちゃん。お風呂ってどうする? ご飯食べてからにしよっか」

「お風呂!?」

「え? うん。ふふっ、どうしたの?」


 飛びあがったわたしを見て先輩が笑う。


 お風呂。そうだよね、お風呂は入りたい。汗かいちゃったし、体育の授業のせいで髪がごわごわする。


「どうする?」


 再び先輩がわたしの顔を覗き込む。逃げる。追いかけてくる。逃げられない視線を微かに見て、小さくつぶやく。


「じゃあ、ご飯のあとで」


 言うと、先輩が部屋の扉を閉める。


 ぱたん、という音がわたしにとってとてつもなく大きく聞こえた。


 部屋に蓋がされ、わたしと先輩だけになる。先輩の部屋に来るのは今日が初めてじゃないはずなのに、泊まるという事実が焦燥感を呼び起こす。


 こんな調子でわたし、夜まで持つのかな・・・・・・。


 ぐびぐびと勢いよくペットボトルを逆さまにするわたしを見て、先輩は柔らかく、目を細めていた。

   

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