第5話 憧れの先輩

 会計を待つ最後尾にわたしはいた。ひっそりと息を潜めていると、当然先輩が話しかけてくる。お腹痛いの? とか、具合悪い? とか。先輩だけじゃなくて他の人たちにまで心配される始末で、陰気臭いわたしがいるだけで誰かに迷惑がかかるのだということに気付く。


 食べすぎちゃいました、と笑顔を作る。それでみんな納得してくれて、笑い話にしてくれた。


 そうやってわたし自身を遠ざけていくことで他の人たちが滞りなく幸せになれるのなら、それでもよかった。


 ・・・・・・こんなだっただろうか。


 わたしが思い描いた未来、なりたかったもの、そして、繋ぎたい手の先は。


「うん? どうしたの? 燈代ちゃん」

「・・・・・・いえ、なんでもないんです。えへ」


 下手な笑顔。歪な表情筋は、虚ろな音色に似ている。


 焼肉店の駐車場で、三年生たちがはしゃぐ。女の人も男の人も入り混じって、楽しそう。どこか浮足立ってみえるそれは、もしかしたら本やテレビの中で見たことのある、青春と呼ぶのかもしれない。その中にわたしもいる。でも、いるだけじゃだめなんだと思い知らされる。


 告白が成功したという報告が横から飛んできて、お店の陰で恥ずかしそうに顔を赤くしている二人組がいた。


「わー、告白だって! いいなぁ」

「はい。前から仲良さそうでしたもんね。成功して、よかったです」

「だねー。青春だなー」


 先輩の横で、わたしはいったいどういう顔をしているんだろう。


 人の幸せを祝うので精一杯。自分のことにまで手を回す余裕はなかった。


「それじゃあ、先輩。わたしはこれで」

「本当に帰っちゃうの? カラオケじゃなくて、ボーリングにしてもらう? みんなどっちでもいいって言ってたから、相談してみよっか」

「そういうんじゃないんです。あの、お母さんが迎えにくるので、だから・・・・・・すみません」

「そっかぁ、燈代ちゃんと一緒に行きたかったなぁ」


 ぐ、と足に力が入る。その言葉はわたしが変な勘違いや烏滸がましい希望を抱くに充分だったのだ。


「でもしょうがないね、また今度だ」

「はい、また今度」

「絶対だからねー?」

「・・・・・・・・・・・・はい」


 カラオケには打ち上げに参加した人全員が行くわけではなかった。半数以上が早々に帰宅し、残った数人が暇だしカラオケに行こうという話になった。だから先輩も、帰ろうとするわたしを引き止めようとはしなかった。


「楽しかったです。それから、お、おつか、れ・・・・・・さまでした。先輩」


 最後のほうはもう掠れていて、秋風の冷気に乗って消えていく。


 喉の奥からこみあげてくるものを我慢し、我慢して、我慢しきれなくて。溢れだしそうになるものを見られる前に走り去る。


 音がどんどん小さくなっていき、人の肌から発せられる温もりのようなものを一切感じなくなる。


 お母さんが迎えにくるなんてうそをついて、わたしは、どこに行くんだろう・・・・・・。


 帰り道も分からないし、スマホは・・・・・・電源が切れちゃってる。


 ため息をついて肩をすくめる余裕があればまだよかった。なにかに呆れ、誰かのせいにして、諦められたらどれだけ楽なんだろう。


 自分で近づいた場所から自分の足で去っていく。思っていたよりも辛いことだった。


「燈代ちゃん」

「え?」


 声がして振り返ると、そこにはさっき別れたばかりのセンパイがいた。


「ど、どうしたんですか?」

「私も用事があるから断ってきちゃった」


 後ろに手を組んではにかむ先輩の額には、うっすら汗が滲んでいた。走ってきたのだろうか。そこまで急いでわたしを追いかける理由が、まったくさっぱり見当たらない。


「燈代ちゃん、お母さんとはどこで待ち合わせしてるの? 時間は大丈夫?」

「えっと、はい。その辺で、もうすぐ・・・・・・来ると思います」

「うそだよね」


 先輩の強い視線が、わたしを射貫いている。交差することが怖くて、わたしは先輩の背後に潜む僅かに含んだ茜色を見た。


「本当のこと教えて? 燈代ちゃん、これからどこへ行くの?」


 当然、答えられるはずもなく、代用品となる答えを探しているこの時間が、すでに答えとなっていた。


 横を車が通り過ぎていく。エンジンの音がうるさい。排気ガスのにおいが鼻をつく。風に揺られた先輩の髪が服を叩く。近くのファミレスからいい香りがする。先輩の大きな瞳が、わたしを捉えて離さない。


「昨日からなんか変だと思ったんだ。燈代ちゃん、あんまり笑ってくれないし。話しかけても、考えごとをしてるみたいに目を逸らすし」


 隠そうとしても隠しきれない。自分の無防備さを思い知る。


「ちょっと来て」

「あ、先輩っ」


 手を引かれて、わたしは先輩の背中を追う。強引さすら感じる先輩の手のひらには火傷してしまいそうなほどの熱が迸っていた。


「燈代ちゃん、私のこと見て」

「み、見てますよ」

「もっとよく見て」


 連れてこられた駐車場の隅。わたしを見下ろす先輩の髪の毛が、鼻先に当たる。くすぐったさと罪悪感が混ざり合うと、余った給食を全部混ぜ込んだ鍋の中身を思い出す。


「見てないよ、燈代ちゃん。私のこと全然見てくれない」


 拗ねたような声色は、写し鏡のように表情に表れる。先輩の陰に隠れたわたしは、やはりその視線を地面に落とす他なかった。


「ごめんね」

「なんで、先輩が謝るんですか」

「燈代ちゃんが笑ってくれないのって、私が関係してるんだよね。だから、ごめんね」

「え、そ、そんなわけないじゃないですか。ちゃんと笑えますよ・・・・・・ほら」


 にへ、と口元を曲げる。目の下が押し上げられ、眼球に潰れるような痛みが走る。


 ひくひくと痙攣するまぶたが視界を揺らし、表情を作り直そうとするたび、先輩が悲しい顔をする。


 気付けばわたしは先輩に抱きしめられていた。


 突然の抱擁にロマンティックな感慨を抱く暇もなく、投げ出されたわたしの両手は虚空をさまよっていた。


「先輩、え、ど、どうしたんですか」

「・・・・・・・・・・・・」

「わたし、本当に、なんでもないですから、大丈夫ですよ」

「・・・・・・・・・・・・」

「むしろ、わたしのほうが、謝らなくちゃで・・・・・・」


 口元にある先輩の腕を見ながら喋ると、肌を先輩に摺り寄せているようで、まるで甘えているみたいだ。


「わたしが足引っ張っちゃったんです。わたしがへたっぴだから、先輩にも、みんなにも迷惑をかけて。わたしがいなかったら、まだ先輩たちの大会も終わってなかったかもしれないのに、わたしが吹部になんて入っちゃったから、いけなかったんです」


 だけど舌を転がるのは苦い思い出だ。過去を振り返るのは簡単だけど、簡単だからこそ、緩んだ入口に無遠慮に入り込んでくる。吐き出すのは、こんなにも難しいのに。


「だから、ごめんなさい、先輩」


 投げ出された腕に、行き場なんてありはしない。項垂れた腕は、力無く下を向く。


「憧れちゃって、ごめんなさい」

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