応援コメント

すべてのエピソードへの応援コメント

  • 楽しく読ませて頂きました。とっても分かりやすかったです!いっぱい勉強になりました〜。有り難うございます!

  • 分かりやすくて勉強になります。東さんが社会科の教師だったら楽しかっただろうな(笑)

  • いちごぱんつがインパクトありすぎて年号を一発で覚える事が出来ましたw

  • 昔の人って本当に、急に病気になって急に死んじゃうのが普通だったんでしょうね。分かりやすくて勉強になります。

  • 第18話 源平合戦 その2への応援コメント

    大河ドラマで今やってるのはこの辺ですよね。前後の流れが分かって勉強になります。

  • 最初から最後までわかりやすく面白かったです。
    本当は戦後からこの令和の時代まで取り上げてほしかったのですがそれは欲張りすぎなのかも知れません。
    素晴らしい歴史の講義をありがとうございました。

  • タフすぎて笑いましたw死んだふりは凄い…。当時の人にとって外国って物凄い行ってみたい場所だったんでしょうね

  • この辺良く分かっていなかったので、分かりやすい説明で勉強になります!

    作者からの返信

    『大化の改新』あたりって、授業ではサラッと流しがちだし、班田収授法とか公地公民とか、漢字たくさんあるからわかりづらいですよね💦

  • 遅れるながら読了いたしました。

    これだけの長い歴史を纏めるだけでも大変だったのではないでしょうか?それを例えを使い分かりやすく、楽しかったです。

    個人的にジョジョが大好きなので、ネタに出てくる度にニヤニヤしてしまいました。

    完結、お疲れ様でした。

  • 幕末も分かりやすく、何より楽しかったです。やっぱり例えがあるとイメージがしやすいですね。

    「ファミコンとプレステ5」とか、確かにこれだけ差を感じたらビビる!
    大乱闘でスマッシュな奴らも、また想像しやすく混乱状態が伺えました。

    近代日本も楽しく読ませて頂きます。

  • 松尾芭蕉、忍者説。初めて知りました!木の上で俳句かいてたのかな、なんて想像すると……歴史って面白いですね。

  • 読了しました。
    長い長い日本の歴史の物語、お疲れ様でした!!
    思い切り端折ったり、ゲームに例えたり、きっと、歴史を詳しく知らない人にも、とても分かり易い物語になっていたと思います。
    でも! それでも、21万文字超の大作!! いやはや、日本の歴史は長いですね!!
    私も、(時々、ちょこっとツッコミも入れさせて頂きましたが)、大変に面白かったです。

  • 明治維新によって、それまで蔑まれていた商業活動が国の基軸になり、自由な経済活動が可能になり、江戸幕府が結んだ不平等条約も近代化と国際的地位の向上によって改正し、国際連盟の常任理事国になり、自由で豊かな国になったはずなのに、経済の破綻から、政治よりも軍事を当てに、無謀で無計画な侵略戦争に突き進んで行ってしまった日本。
    江戸時代から培われた自由な町人文化も、資本主義による自由な経済活動も、「戦争の遂行」というただ一つのスローガンのために制限され統制され、ついには言いたい事も自由に言えなくなって、挙句に、国中が焼け野原になっての敗戦。

    どうして、こうなっちゃったのでしょうねえ!!
    旧石器の時代から4万年の歴史を持つ私たちの祖国日本が、ほんの20年ほどの愚かな誤りのために、今も、多くの分野で足かせをはめられています。

  • おごれるものも久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。
    たけき者も遂にはほろびぬ、 偏に風の前のちりに同じ。

    なんだって、同じ事の繰り返しが続くのでしょうねえ!?
    しかも、交通と通信が発達して、世界規模に!!

  • 鎌倉編、お疲れ様でした。
    とても楽しく、学ばせて頂きました。

    メンヘラが手紙を送りつけるとか、ユーモアたっぷりの解釈が面白かったです。文体はスラスラと間伸びせず、例えは現代風でわかりやすい。それでも鎌倉が崩れて行く様子は煩雑にならずしっかりと表現されていて「すごいなぁ〜」と……(語彙力がなくてすいません)。

    文字を書くまでに相当の時間が費やされているのが手に取るように分かる内容でした。室町編もお邪魔させて頂きます。執筆、頑張って下さい。

  • あの男が‥‥。
    第一次大戦でウハウハ儲けた日本にも、悲劇が待ち受けていますね。


  • 編集済

    203高地に日本海海戦、それに与謝野晶子の「君死にたもうことなかれ」、ドラマがいっぱいの日露戦争。
    ふぅむ、確かに、日清戦争の影が薄いですな。

    本当に、近代の国際政治の世界は、ヤクザの縄張り奪い合いの様相でしたね!! ひでえ話もあったもんだ。

    ちなみに、バルチック艦隊は、「日本海を渡って、どんどん日本に攻めてき」た訳ではなく、バルト海を拠点にしていた艦隊を、地球を半周させて極東に派遣したのでしたが、敵艦隊が軍港ウラジオストックに入るには、対馬海峡を通るコース、津軽海峡コース、宗谷海峡コースがあって、その中で、連合艦隊司令東郷平八郎は「対馬海峡コース」を予想、人工衛星も飛行機による哨戒もなかった当時、見事に敵艦隊を捕捉し、有名な「東郷ターン」で敵艦隊の進路を塞ぎ砲戦、敵艦隊を撃滅したのでした。
    東郷は、出撃に当たり、大本営に打電、
    「本日天気晴朗なれども波高し」
    の電文は有名ですね!!

  • 今回も、ザクッとガサッと、とっても分かり易いです。

  • 明治は、まさに「目に見える変革期」ですね!!
    ほんの数年前までチョンマゲ、着物、二本差しが当たり前だった日本人が、断髪、洋装、刀も腰にしなくなります。
    まさに、ドラマチック明治!!

    大河ドラマで人気の幕末から明治ですが、私、戦国時代もきっと、「目に見える変革期」だったのでないかと思うのですよ。
    白粉、大夫髷で公家風の衣装だった武士階級が、織田信長風の、素面、裃、月代髷のカブいたファッションに大変身。
    ビジュアルに時代の変化を感じ取れる時代だったのでないでしょうか。
    それも、短期間でのドラスチックな変化。

    さて、
    ・富国強兵
    ・文明開化
    ・殖産興業
    この三つは、明治新政府が掲げた維新の3大スローガンと言えますね!!
    スローガンがはっきりしている改革と言うのは、国民もついて行きやすいですね。

  • 西南戦争が終わった明治十年代も、ゴタゴタは続く~よ、どこまでも~♪
    そりゃ、まあ、ついこの間まで、幕藩体制のいわば「王国連邦」みたいなものだった日本を、中央集権の近代国家に変貌させようというのだから、大変なのは当たり前ですな。

    ちなみに、「西南戦争」と「自由民権運動」、どちらも「サムライの、新政府への反発」と捉えるのは、ちょっと、どうなのかな?
    西南戦争を頂点とする「士族の反乱」は、確かに、復古的なサムライたちによる反乱でしたけれども、そうして、江戸時代の支配階層であったサムライたちは同時に知識階層でもあり「自由民権運動」を主導したのも事実ですけど、でも、「自由民権運動」は、単に「士族の不満の発露」というに留まらない、日本の近代化に欠くべからざる、より広い国民運動だったと思います。
    例えば、東京の青梅の山村で、村人たちによって憲法草案が議論されたりしていた。
    国中の様々な階層で、「新しい国のあるべき姿」が熱く議論されていた。
    そもそも、明治元年、日本の新しい国の指針として明治天皇が発布した「五箇条の御誓文」に、
    「広く会議を興し、万機公論に決すべし」
    とあり、国会開設は、明治新政府の国民への約束とも言えるものだったです。
    そういう意味でも、国会開設を求める自由民権運動を「サムライの不満の発露」と捉えるのは、ちょっと違うのでないかなと思う私です。

    もちろん、歴史には色々な解釈があってしかるべきですけどね。

    とにかく、良い事も悪い事も色々あったけれども、天皇の統帥権規定が第二次世界大戦で悪い形で現れたのも事実だけれども、中世的分権体制だった江戸期日本を、世界に伍していける近代国家に作り替えるという大事業を成し遂げた私たちのご先祖である明治の日本人は、やっぱり、我々の誇るべき先達なのではないでしょうか?

  • 激動の、明治初期十年ですね!!
    権力者も激しく入れ替わり、近代の基礎を作った人たちが新政府から脱落し、決して一様ではない様々な不平不満を抱えた分子らの中核になり、遂に乱を起こす事に。
    ちなみに、西郷は、私学校の弟子らを引き連れ、海路、東京に向かうという選択肢もあったのですよね。それをあえて陸路東上の道を選んだのは、なぜだったのか、西郷と言う人物の底知れなさを感じさせます。
    維新の三傑、木戸孝允は、西南戦争のさ中に病に倒れ、病床で「西郷、ええ加減にせい!」と言いつつ没し、大久保利通は、翌年、路上で暗殺されます。
    時代の指導者は、伊藤博文などさらに若い世代に移っていきますね。

    なお、明治十年の西南戦争をもって「士族の反乱」は終焉しますが、明治17年には、「自由民権運動」を土台にした「秩父事件」が起こります。

  • 怒涛の明治維新!!
    江戸焼き打ちは回避されましたが、会津戦争の前には、甲州、武州、越後などで戦闘になり、江戸でも上野で彰義隊と新政府軍の衝突が起こりましたね。
    榎本武揚の蝦夷共和国は、確か、2年くらいは持ちこたえたのでなかったかな‥‥?
    東照神君徳川家康公が泰平の世を築いたというのに、戦争はよろしくないですね!

  • 大政奉還によって幕府の時代が終わり、王政復古によって近代の天皇親政が始まる。
    作者様も、お疲れ様でした!!
    第二次征長戦争では、私は、高杉晋作が好きです。

  • ワクチン接種、つらいみたいですよね~。
    お疲れ様でした。m(_ _)m

  • む~ん。
    色々つっこみ所満載だけれども。
    面白いから良いです!!笑々

  • 阿部正弘が急死し、国難を背負うべく臨時職「大老」に就いたのは、彦根藩井伊家のミラクルボーイ井伊直弼。
    彼は、井伊家の十四男(!)で、元来、家督を継ぐはずもなかった、遊行だけで世を終えるはずの人だったのですよね。
    それが、兄の急死で井伊家を継ぎ、思わぬタイミングで大老職に就き、何を血迷ったのか、日本を揺るがす大問題を独断で対処。
    その一つが、勅許なし条約調印。
    先のリーダー阿部正弘が、国内の英知を結集して国難を乗り越えようとしたのを受けて公武(朝廷と幕府)融和で外交に当たろうとしたのに、「天皇の勅許を待つのは面倒!」とばかりに、アメリカ領事タウンゼント・ハリスと日米修好通商条約を調印。
    次いで、やったのが将軍継嗣問題。「次期将軍には人物重視で人選を」という諸侯の意見を無視して、幕閣の意見を重視し旧来通り紀州徳川家から13歳の家茂を迎えて解決、臣下が将軍を決めちゃった!
    そうして、一橋慶喜を推していた水戸家徳川斉昭、慶喜父子(井伊家から見れば主筋)、越前福井藩主松平慶永、伊予宇和島藩藩主伊達宗城らを隠居謹慎させるのを始め大弾圧。
    色々な意味でミラクルな男でありましたね!

  • 今回も、とても面白く分かり易かったです。
    阿部正弘は知っていましたけど、実は、林復斎は知りませんでした。

    幕府は、ペリーの来航と開国要求を前に、国民に広く意見を求め、その中から、勝海舟など、日本の歴史の転換期を担う人材が多く現れますね。
    身分制が基本だったこの時代、未曽有の国難を前に、老中阿部正弘は、すごい指導力を持ったリーダーだったと思います。
    この人に長生きして欲しかったものです。

    ちなみに、幕府は、文政8(1825)年に異国船打払令を出していますが、それより前の文化3(1806)年には、日本に寄港する外国船に薪や水を提供する薪水給与令を発令していて、また、異国船打払令も、モリソン号事件などに対する国内からの批判を受けて、天保13(1842)年には薪水給与令を再発令する事になります。
    徳川幕府は、決して、むやみやたらな攘夷的政策に固執してはいないのです。

    この時代、イギリスを始め西洋諸国は、アフリカや新大陸や南アジアを植民地化して発展しますが、現地の人たちの文化や生活を破壊し軍事力で征服するなんてのが、果たして「良い事」と言えるでしょうか?
    明治以降、遅れて国際社会にデビューする日本は、東アジアに植民地を広げて行きますが、その果ては、軍部の暴走による日中戦争、太平洋戦争、そして、敗戦です。
    巧みな交渉力でアメリカとの戦争を避けた徳川幕府と268年の治世は、もちろん、時代的な制約も多々抱えていましたけれども、私たち日本人が世界に誇り得る祖国の歴史だと思っています。

  • 今回も、とても分かり易いご説明。

    天保の元号を聞けば、いよいよ幕末が近づいた感がしますね!
    老中水野忠邦の時代には、蘭学を弾圧する「蛮社の獄」も起きましたね。


  • 編集済

    今回も、すごく分かり易いです。

    田沼意次も、農業を「軽視」した訳ではなく、印旛沼の開墾など新田開発にも意を用いているのですけど、どちらに比重を置いたかの話ですよね。
    オランダは、慶長以来、日本との交易を独占していた訳だけれども、イギリス他の国も、いつまでもそのままでいる道理もなし、時代は常に動いて行きます。
    現代だって、財政均衡が良いのか積極財政が良いのかは議論の分かれる所。
    コンピュータもない時代に、経済のかじ取りをしようとした先人たちの偉大さの上に、今日の私たちの日本はある、その事を、長州出身の安倍晋三どもはよく知るべし!!
    そろばんの一つも自分で弾いてみやがれ! てなもんです。

  • 今回も、ポイント、ポイントがすごく分かり易いです。
    もちろん、江戸時代は268年で、明治維新から現代までの倍近くあります。
    一口に江戸時代と言っても色々あるのは当たり前なのですけれども、大きな流れと細かなイベントがうまくかみ合った文章は、「お見事」の一語に尽きます。

    それにしても、徳川幕府の現実対応能力の柔軟な事よ! さすがは、東照神君徳川家康公が築かれた幕府です。
    戦乱に寄る事なく政権運営者が交代していく老中制の卓越さ!!
    一方で、将軍の夭折や病弱が増えて行くのは、きっと、支配階層の狭い社会の中で婚姻が繰り返されたためでしょうね。さすがの「健康オタク」家康公も、遺伝病の知識まではなかったか!? 知っていたらば、遺訓で戒めていた事でしょう。

    次回も楽しみにしています。

  • 江戸時代は、普通に言われる程に身分ガッチガチな時代ではなかったのですよね。

    下級武士から、能力重視で抜擢される事もあった。
    士分以下から、武士に取り立てられる事もあった。
    新井白石も、そういう大抜擢にあった人だったのですね。俄然、興味が沸いて来ました。

    緊縮財政派の8代将軍吉宗には、積極財政派のライバル、尾張徳川家の宗治という人がいましたね。

  • 今回も、いや、今回はいつもに増してさらに、とても分かり易かったです。

    そう! 生類憐みの令、今の目で見れば、必ずしも悪い内容ではない。
    とはいうものの、やり過ぎは確かにあった。
    しかしながら、私は言いたい、ニホンオオカミ、ニホンカワウソ、ニッポニアニッポン(朱鷺)‥‥、こんなに「ニホン」を冠した動物たちを絶滅させてしまった明治以降の近代化政策だって、一種の「やり過ぎ」だったのではないか!?
    「オオカミは悪い生き物」、これって、西洋の考え方ですよ! だって、日本ではオオカミは「大神」、神様だったのですから。
    今、シカやイノシシの獣害が言われていますが、ニホンオオカミがいたならば、もっとバランスが取れていたのではないでしょうか。

    人類は、決して決して、自分らで思っているほどに賢い訳ではないですから、やってみて、やり過ぎて、後退して‥‥、これを繰り返しながら進歩発展していくしかないのでないでしょうか?
    ただ、取り返しがつかない状況になる前に、やり過ぎに気づいて軌道修正したいですね。

  • 今回も楽しかったです。

    おだしのぶさんご指摘の、静岡の久能山東照宮に行きましたよ。
    久能山は、家康公が晩年を過ごされた駿府から近く、景観も良くて、素敵な場所、家康公がお体を休まれるにふさわしい場所です。
    日本平からだとロープウェイで楽に行けますが、海側から行くと、大変な坂道をひたすら登る事になります。
    でも、登るにつれて眺望が開けて来るのが、とても魅力的なコースでした。

    日光は、江戸の真北に位置します。
    家康公は、江戸の北辰(北極星)となって、幕府を守り導くお積りだったのでしょう。
    日光の東照宮も、‥‥家康公の「質素に」の遺訓にはいささか違えたかも知れませんけど(汗)、好きです。

    東照宮は、東京上野にもあります。

  • 今回も、面白くて分かり易かったです!

    でも、ものは見様、考え様。
    城は、そもそも軍事拠点。平和な時代になったのだから、藩庁としての一城があれば十分。
    重要拠点であれば、二城を持つ事が許された藩もあったはず。

    参勤交代で大名がお金を使えば、お金は消えてなくなるのでなく、市中を流通。
    宿場町、渡し守、荷役夫などが潤った。
    行列の威儀を整えるために、漆や彫金や錦などの工芸が発達した。
    日本中で、新田開発が盛んに行われた。

    儲けておいて内部留保ばかりしている現代の企業の方が、ひどいものです。

    五街道が整備されて、民間の運輸交通にも役立った。
    庶民の間には、富士講やお伊勢参りなどが大流行。
    質素倹約は、今風に言えば SDG's で、とことん循環型社会が形成された。
    文武両道の推奨が、世界に誇れる識字率の高さとなった。
    『東海道中膝栗毛』も『奥の細道』も、被支配層であるはずの庶民の文芸。
    やがて、19世紀に日本にやって来る西洋人は、町屋の小娘が夢中で本を読むのを見て、びっくり仰天する事になりますね!

  • まあ、そもそも、茶々(淀殿)が護りたかったのが、豊臣家だったのかどうか、私は疑わしいのです。
    茶々の父は、近江を治めた戦国大名・浅井長政、母は織田信長の妹で絶世の美女と言われたお市の方。父長政と、茶々の生まれ育った小谷城を攻め落としたのが、豊臣秀吉です。
    そうして、娘三人をつれたお市の方は、兄の家臣であった柴田勝家に再嫁します。
    その義父・柴田勝家と母・お市の方、そして、新たな住まいであった北ノ庄城を攻め落としたのも、また、秀吉でした。
    秀吉に、豊臣の家に、茶々が「愛情」を持っていたと言えるでしょうか?
    茶々は、天下人秀吉の側室となり、その子を産む事で、浅井の血を護りたかったのではないでしょうか?

    浅井三姉妹の末妹・江は、徳川の2代将軍秀忠に嫁ぎます。
    そうして、その娘・和子が、後水尾天皇に入内します。
    秀吉によって滅ぼされた浅井の血が、今も、天皇家に受け継がれています。

  • ひどいなあ、東照神君徳川家康公を、天下の簒奪をもくろむタヌキみたいにぃ!!
    石川五右衛門が言ってるよ、「大泥棒は、天下を盗んだ秀吉だ」って。
    ww

    今回も面白かったです。

  • 人たらし羽柴秀吉の本領発揮!
    とりあえず、「戦国時代」は、秀吉の天下統一を持って終了、20年程は「安土桃山時代」と称す見方もありますね?

  • 関所の撤廃、
    楽市楽座、
    兵農分離、
    信長の真骨頂ですね!!

    ちなみに、日本中を関所だらけにしてしまったのは、応仁の乱で登場した日野富子でしたね!
    お騒がせな方‥‥。


  • 編集済

    今回も、ざっくり、ばっさり、歴史の本質を突いた分かりやすい説明。
    なのですが、さすがに今回は、ちょっと一言。

    信長は、足利幕府の副将軍にはなっていません。義昭に勧められて、断っています。
    「それでは、管領に」と言われて、これも断っています。
    なぜなら、副将軍や管領では、将軍の臣下という事になり、行動が制約されます。
    これは、源頼朝が、後白河法皇から権大納言や右近衛大将を与えられてもすぐに辞任したのと同じこと。

    代わりに、信長が求めたのが、「草津、大津、境の3大商業都市に代官を置く権限」でした。
    信長は、名のみの幕府内の役職を固辞して、着実に天下布武の布石を打って行ったのです。

    重箱のすみみたいな話ではありますが。ww


  • 編集済

    第33話 信長登場!への応援コメント

    大人気戦国武将、織田信長の登場ですね!!
    美男子、長身、『敦盛』の舞が得意! ファッションも独特で、ひらめきは天才的、人の登用も門閥よりも能力重視。
    「実は、結構、保守的な人だったのでないか」という評価をする人も、近頃、いる様ですが、やっぱり、信長は、日本史の革命児、大スターには違いがないですね!!

    大河など、ドラマ化も数多い織田信長ですが。
    彼が織田家の当主となったのは、父の信秀が、信長を嫡男としたためですよね。
    その父信秀の死に、位牌に抹香を投げつけて、悲しさ悔しさを顕わにするシーンが、映画でもTVドラマでも、好きです。

  • 今回も、ざっくり、ばっさり、とても分かり易いです。

    フランシスコ・ザビエルはイエズス会。そこまでは学校でも教える。
    でも、イエズス会はカトリック、これは、学校の歴史の授業ではあまり教えない重要なポイントなのですよね。
    戦国時代にやってきたスペイン、ポルトガルはカトリック国、秀吉の時代以降にやって来るイギリス、オランダは新教国。
    当時、「キリシタン」と呼ばれた宗教は、実は、カトリックだった。
    秀吉、家康は、闇雲に鎖国をした訳ではなくて、スペイン、ポルトガルとの交易をやめて、イギリス、オランダを重視する様になる。
    これは、とても重要な歴史的事実だと思っています。

    伝来間もない鉄砲をすぐに国産化する日本の技術力、日本人の好奇心、素晴らしいですよね。
    幕末にも、日本人は、来航間もない洋帆船や蒸気船を、見よう見まねで作り上げてしまいますね。
    今の日本人には、そうした未知のものへの好奇心や探求心が足りていない様に思われます。

    作者からの返信

    デリカテッセン38様

    いつもコメントありがとうございます☺

    イエズス会ってなに? カトリックってなに? この辺を教えずに、ただ暗記を強要する学校の勉強はどうかと思います。

    日本人は真似して改良して、より良くするというのは、鉄砲の国産化のエピソードで表されていますね

  • グッダグダ!!
    ふうっ! って感じですね。開いた口がふさがらず‥‥。(-◇-)

  • ブラボー! 楽しく、解りやすく読めました!

    作者からの返信

    田中ざくろさん

    最後まで読んでくれて、ありがとうございます☺

  • すごく楽しく学べました。
    東樹さまが塾講師だったら、通います。
    なんだかんだ日本が平和で幸せなのは、こういう歴史があるんですね。
    (毎日東海オンエアのリサイタルズを聞いています。平和)

    本当にお疲れ様でございました。

    作者からの返信

    星都ハナスさん

    最後までコメントありがとうございます☺

    文章は得意ですが、口で教えるには苦手なので、塾講師はできないですね💦

    東海オンエアをゆっくり見れる、平和な現代に感謝するばかりです

  • ごきげんよう、こうして拝読させて頂いていると、本当に日本と言う国、長い歴史があるんですね。
    ひとつの国が、その体制は時々で変わっても、天皇家を中心として連綿と続いていることが奇跡の様ですね。
    ドイツや半島のように、歴史にもまれて分断されてしまった国々があるように、WW2敗戦で日本も分断の危機があったことを考えると、歴史って凄いな、と素直に思えます。
    こちらこそ、楽しいお話、世界史の中の日本を楽しく学べました。
    ありがとうございました。

    作者からの返信

    おだしのぶさんさん

    最後までコメントありがとうございます☺

    天皇を中心とする国が古墳時代からつづいているのは奇跡ですね。

    おだしのぶさんさんのコメントといいね♥で、最後まで書ききることができました。

    ありがとうございます。


  • 編集済

    足利幕府‥‥。
    何なのですかね~!? 4代目からはグダグダですね。

    室町時代は、日本の文化の大きな変革期でもありました。
    北山文化、東山文化の影響もあったでしょうけど、教育とか伝統の継承が、プツンと切れたのでないでしょうかね?

  • 足利将軍家は、短命の血筋?
    源氏と違って、三代以上ずっと親政を続けたですのにねえ!
    むしろ、それが悪かったのかな? 優れた執権がいれば良かったのかも知れませんけど、高師直では、ねえ!(笑)

    足利将軍家は、日野家から正妻を迎える事が多かったですね、そういう血縁の濃さが、性格や短命にもつながったかも知れませんね。

    3代義満には、「日本国王」を称し、次男の義嗣に、100代・後小松天皇の跡を継がせて、足利家が天皇家を簒奪しようとした、というとんでも説もありますね。

  • ごきげんよう、本当に無謀な戦争で、尊い命がたくさん儚くなってしまいました。
    原因は様々、各国が各国それぞれに理由はあるのでしょうが、この時代、国民教育のレベルまで含んで、避け難い運命だったのかもしれません。
    最後に、ソ連に不可侵条約を一歩的に破られたのは噴飯ものですね。

  • すごく分かりやすかったです。
    と、同時に虚しさが。
    一人一人は平和を望んでいるのに、トップの暴走で多くの人の命が( ; ; )
    現代でもいつ戦争に突入してもおかしくないんですね。
    人間の本質って変わらないですもの。

  • 学生時代は何とも思わなかったのですが、藤原道長さんって確かにラッキーボーイですね! 気づきませんでした。

  • 楠木正成は、源義経と並ぶ日本史のヒーローですね。
    歴史の変革期に突如として現れて、一時、煌めく様な活躍をしながら、栄達する事なく消えて行った不運の武将。
    大塔宮護良親王も同様ですが、正成は、草莽の出であるだけに、多くの人から人気がありました。
    足利側の記録でさえも、楠木正成に賞賛を惜しみません。

    対して、後醍醐天皇は、両統鼎立の約束を違え、討幕の陰謀が露見すると臣下の日野資朝、俊基に責任を負わせ、討幕戦の功労者である護良親王を阿野廉子の讒言から政敵に売り、時代錯誤な尊王観から社会の現実より乖離した政治を行い、さらには、私情を交えた閨房政治でますます政治をゆがめて行った。

    元弘の乱での楠木正成の活躍は、その機略縦横な戦術にありました。
    その正成に、平原で敵の大軍と会戦せよとは、正に愚かしさの骨頂。

    後醍醐天皇こそは、徳のない天子でした。

  • ごきげんよう、経済恐慌が戦争の原因になる、戦争のお陰で好況になる、こうなると本当に戦争とは罪深い、まさに人類の愚行ですよね。
    日本ではこの時の取り付け騒ぎが原因で、戦後大蔵省は金融機関を徹底的に保護しましたものね。ペイオフ制度の導入で預金の保証もなくなっちゃいましたけど。

  • ごきげんよう、日本はこの頃調子に乗ってますね。
    主戦場は欧州、たいした損害もなく、出張しているドイツを叩いただけで領土拡張。
    日清日露で勝ったことが、運が良かった、同盟国に恵まれたことも忘れて自分の実力だと思ってしまったのかしら?
    この頃は帝国主義が正義、でしたから日本もそうなりたかったんでしょうね。
    でも戦争で経済が儲かるという構造も、哀しいですね。

  • あの男ですか!
    悲惨な時代になりますね。


  • 編集済

    いよいよ、混乱の建武時代、そうして、南北朝の時代にやって来ました。

    鎌倉幕府滅亡の何よりの原因は、14代執権・北条高時でしょうね。
    12歳の幼年で執権職に就き、実権のない飾り物、暗愚で病弱で無気力で、闘犬や田楽などにうつつを抜かした道楽者。
    蒙古襲来を撃退した祖父、8代執権時宗に似ても似つかぬ不肖の孫です。
    そこに御内人の長崎円喜などがつけ入り、幕府の政治を私(わたくし)した。

    そして、そうした偏頗で私心に基づく政治が、なんと、後醍醐天皇も同じだったという。なにしろ、持明院統と大覚寺統の両統鼎立の約を違えた人物ですからね。
    政権トップが、私心を元に、筋を違えた政治を行うと国が乱れるのは、今も昔も変わりません。

    次回も楽しみにしています。

  • ごきげんよう、日本のスパイというと明石さんですね。
    日本は帝国で反共だけれど、その共産勢力に肩入れしてあげるなんて、よほど切羽詰まっていたのかもしれませんね。
    バルチック艦隊はスエズ運河を英国が通せんぼしたので、遠回りでやってきたので、日本についた時にはもう疲れ果ててボロボロだった、というお話も聞いたことがありますが、日本はもう本当に運に恵まれていたんですね。

    作者からの返信

    おだしのぶさんさん

    いつもコメントありがとうございます☺

    その通り、日本のスパイというのは、明石さんです。ややこしくなるので、名前は伏せました。

    日本は本当に運がいいですよね


  • 編集済

    出ました、楠木正成! 源義経と並ぶ日本史のヒーローですね!!
    今回も、歴史の主人公たちの活躍をズバッと物語る文章が抜群に面白かったです!!
    この人の存在も、後の日本人の心情に多くの影響を与えましたね、良くも悪くも。

    さて、私も小学校で先生から教わりました、鎌倉幕府は元寇で弱体化して滅んだ、と。
    でも、大人になってよくよく考えてみると、文永/弘安の役は1274~1281年。鎌倉幕府の滅亡する1333年までは半世紀もあるのです。

    戦争はするものじゃないです。
    それは、いつの時代の人にも、実は共通認識で、現代人だけが達観した訳でないのですね。
    そういうのは、鴨長明の『方丈記』などを読んでも感じられます。
    源平合戦が終わり、幕府による武士の統治が始まり、多くの人は平和を喜んだ。
    いつの時代にも、乱を好む無法者は多少はいるけど、大抵の人は平和を好む。
    悪党つまりフリーランサー楠木正成は、河内で運搬業などを営む事業運営者であったと思われます(豊臣秀吉につかえた蜂須賀小六に似ていたかも)。
    武士ではないから、当時の鎌倉御家人にはなれなかったけれども、その時代秩序の中で家業を営む人だった。
    その正成を赤坂籠城に突き動かしたモチベーションは、果たして「七生報国」などという観念論であったのか? 私は、疑うところです。

    鎌倉幕府を弱体化させたものは、直接に元寇ではないでしょう。
    なぜなら、対モンゴル防衛線で戦った竹崎季長らは、多くの恩賞を幕府から与えられています。
    鎌倉幕府の衰亡は、遠に、北条得宗家の弱体と御内人(内管領)と呼ばれた北条家陪臣の台頭であったと考えています。
    下克上が幕政を歪ませ、諸国の人士が北条氏に不信と不満を募らせていった。
    楠木正成の挙兵は、そうした政治の歪みに対するレジスタンスであったのでないか。
    であればこそ、湊川の合戦を前に、後醍醐天皇に足利尊氏との和睦を勧める献言にもつながったのでないか。
    私は、そんな風に想うのです。

    次回、「鎌倉幕府滅亡」回も楽しみにしています。

    作者からの返信

    デリカテッセン38様

    いつもコメントありがとうございます☺

    楠木正成は個人的に大好きです

  • 宗教と文学まで学べてお得感満載です。
    知らない事ばかりで、驚きました。

    作者からの返信

    星都ハナスさん

    いつもコメントありがとうございます☺

    お得感ありますか

    よかったです!

  • ごきげんよう、教科書では日清日露の戦い、とか言ってひとまとめで習っちゃうんですよね。そして色々な小説や映画、TVでも日露戦争ばかりが取り上げられて日清戦争ってかなり影が薄くなっちゃいますよね。
    こうやって経緯を取り纏めて頂くと、とても判り易いですね、ありがとうございます。


  • 編集済

    今回も、すっきりバッサリあっさりと、元寇がまるっと分かる説明でした!!

    さて、元寇といえば神風、神風といえば台風と、「ラーメンにメンマ」の様に言われますけど、さて、どうなのでしょう?
    歴史の評価は、ある時期には「白」と言っていたものが、別の時代には「黒」になり、また時がたつと「白」になりと、しばしば評価が揺らぎます。
    そもそも、台風とは何か?

    「熱帯低気圧のうち北西太平洋または南シナ海に存在し、かつ低気圧域内の最大風速が約17.2 m/s(34ノット(kt)、風力8)以上にまで発達したものを指す呼称」
    Wikipedia

    まず、「熱帯低気圧」であるのがミソ、どういう事かといえば、前線を伴っていない。台風が温帯域まで北上して前線を持つと「台風が温帯低気圧になった」と言います。
    そうして、最大風速が約16メートル以上であること。
    鎌倉時代、風向風速計も、気象衛星ひまわりもありません。
    「暴風雨があった」、これが間違いのないところでしょう。

    文永の役において、元軍は、博多で幕府軍と会戦して、日暮れと共に船に戻り、そこで暴風に遭遇します。という事は、敵勢が、陸上に橋頭保を築く事が出来なかったということであり、日本勢の抵抗が頑強であった事の現れだと言えます。
    元軍は、朝鮮半島から鏡の様な海面を渡って来た訳ではなく、対馬、隠岐でも激しい戦闘をして、その上で博多に攻め寄せています。
    常識的に考えて、渡海して来た軍勢が、弱敵を前にわざわざ海上で夜を過ごすとは考えられない事です。
    敵軍は、昼の戦いで、左副元帥・劉復亨が、鎮西奉行・少弐資能の三男・景資に矢で射られて負傷し、撤退を決断した事が、元側の資料にも記録されています。
    敵軍の撤退が、日本武士団の果敢な迎撃に因る事は、間違いないでしょう。

    弘安の役では、敵軍は、「歴史上空前」といわれる規模の軍勢で5月に高麗を出帆し、迎え撃つ日本軍と7月末まで戦い続けて、ついに我が国を寸土も占拠する事が出来ずに、海上で暴風に遭います。
    3ヶ月にも亘って海上にいれば、格別の神の加護がなくても、嵐にくらいは遭いますね!

  • なるほど!!
    鎌倉仏教は「忙しいビジネスマン必見!」仏教だったのですね!
    確かに、平安時代の山岳密教は、それこそ“出家”、世を捨ててそれに専念しなければ成就しない仏教でした。
    鎌倉仏教は、浄土宗も日蓮宗も禅宗も、地上で生産活動に従事しながらでも出来る仏教。
    目から鱗です。

    さて、大陸では風雲急を告げていますね。どうなる、日本!?

  • この当時生きていた人って、ものすごい変化を目の当たりにしたんですね。

  • ごきげんよう、西南戦争で生涯を閉じた西郷さん、自由民権運動で新政府に圧力をかけ続けた板垣さん、アプローチは違いますが、やっぱり新政府への抵抗勢力は多かったんですね。
    板垣死すとも自由は死なず、と刺された時に板垣さんは言ったらしいですが、その時は死ななかったんですね。
    文明開化で鹿鳴館ですね。ここは教科書でもくどいほどしっかりと出てましたよね。
    外国の新聞のイラストで、おさるさんみたいな日本人が燕尾服やドレスを着ている風刺画が掲載されていたのを思い出しました。
    外人さんからは滑稽に思われてたのかもしれませんね。

  • ごきげんよう、明治初期は本当にお侍様の反乱、多かったですものね。
    佐賀の乱、萩の乱、トドメが大西郷どんという超大物を担ぎ上げての西南戦争ですね。新しい時代に変わるというのは、古い時代の膿をださねばならないから、痛みや苦しみも大きかったのでしょうね。
    ただでさえ人材難なのに、この相次ぐ反乱で維新の立役者が次々失脚すると言うおまけつきでしたね。
    いよいよ外国との戦争が始まりますね。
    戦争は嫌ですよね。


  • 編集済

    草創期の鎌倉幕府を揺るがした承久の乱。
    後鳥羽上皇は、事績を見ると、結構、権力志向の強さを感じますね。
    この上皇は、安徳天皇の跡を継いで天皇になった訳ですが、践祚の折、「三種の神器」が平家に持ち出されていて無かった。
    こうした「特例的」な即位が、後鳥羽のコンプレックスになっていたのではないかという意見も、目にする事がありますね。
    しかし、ふたを開けてみれば、後鳥羽の軍は鎌倉までは攻めて来なかった。
    代わりに京まで攻め込んだのは鎌倉御家人の坂東武者たち、結局、朝廷に、武士階級から権力を取り戻す力は既になかったのでしょう。

    三寅・藤原頼経は、飾り物の将軍に過ぎなかった。
    でも、そもそもは、頼朝が「飾り物」だったのでないか、というのが、私の近頃の思いです。
    頼朝は、流人として伊豆で過ごし、挙兵に際して兵力も武器も、舅の北条時政頼みだった。そうした頼朝が、関東の旗印となって幕府を創設する事になったのは、「平安貴族の権威から独立して、自分達が耕す土地についての権利を確立したい」という武士階級の悲願があったからだったのではないでしょうか。
    平清盛は、武家を代表して権力の座につきながら、その権力を平家一門で独占して、重商主義的な政策を進め、諸国の武士の信頼を失った。
    それ故に、彼らは、頼朝の元に結集した。
    頼朝は、東国武士に担ぎ上げられた自身の権力基盤をよく理解していたのでしょう。彼は、新しい政治の在り方を志向する武士たちの「飾り物」である事を自覚しつつ、自ら進んでその役割を果たした。
    その自らの役割を果たすために、朝廷から権大納言・右近衛大将の任官を受けてもすぐにこれを辞任し、後に、令外官である征夷大将軍は受け、これが幕府主宰者が就く慣例となった。
    私は、そんな風に解釈しています。

    次回も楽しみにしています。

  • 吉幾三さんの替え歌、面白いです。

    作者からの返信

    ありがとうございますw

  • ごきげんよう、確かに廃藩置県は抵抗勢力の反発が予想されたことでしょうね。
    けれど、それにしても新政府、さすが汚い!
    そして華族に釣られちゃった大名さん達、チョロい!
    でもこれから外国を相手に丁々発止と渡り合うには、まずは中央集権を推進しないといけませんものね。新政府の皆さんも必死に頭を捻っていたことでしょうね。

    作者からの返信

    おだしのぶさんさん

    いつもコメントありがとうございます☺

    新政府のやり方は姑息ですが、出来たばかりだし、日本の近代化を押し進めるには仕方がなかったと思います

  • 喩えがわかりやすいです。
    学校でもこうやって教えてくれたらよかったのにと思います。

    どの時代も姑息なのですね。

  • 要するに、頼朝は、「過去に類例のないもの」を作り上げた訳ですよね。
    紛争に明け暮れていた関東の侍たちを糾合し、事務や実務や財務を行う組織を整え、朝廷から朝敵扱いとなった平家や義仲や義経の存在を利用して支配範囲を広げていき、配下の御家人たちを諸国に守護・地頭として派遣し土着させて支配を確立していく。
    そうして作り上げられた統治機構が、いつからか「幕府」と呼ばれる様になり、その組織が完成した時に頼朝がその地位にあった事から、征夷大将軍がその権威の象徴として君臨するという前例を成した。
    その前例があればこそ、室町幕府も江戸幕府も成立し得た訳で、頼朝自身だって、きっと、最初から、脳内に完成図を思い描いていた訳ではなかった事でしょう。
    ユリウス・カエサルがローマに軍事独裁政権を開いてから、「カエサル」が「皇帝」の称号として使われるようになったのと同類でしょうね。

  • ごきげんよう、慶喜さん、鳥羽伏見の戦いでは味方の部下達を置き去りで逃げてしまいましたものね、あれはちょっと可哀想でした。
    関ケ原よろしく、新政府軍の東征で、、進路に当たる各藩もどんどん新政府軍に寝返っていったとか。我が藩もこれで安泰とか胸を撫で下ろしたら廃藩置県になるのですから、これも薩長のアクロバットでした(薩摩の島津久光さんは「聞いてないぞ!?」とお怒りだったとか)。
    でも西郷どん、涙脆いというか、チョロい!
    まあ篤姫さまは島津のお姫様ですものね、同郷の女性ですから優しかったのかしら?


  • 編集済

    日本人は判官びいき、義経は日本史一番の人気ヒーローですよね。
    私も大好き。
    子供の頃は、「頼朝ひどいな、義経かわいそう」と思っていたものでした。

    でも、保元・平治から治承・寿永、そうして、承久に到る戦乱は、京都の貴族政権の膿みに膿んだ政治・文化が崩壊して、武士の時代が生まれる道程であったと思うのです。
    その時代の流れ中で、義仲も行家も義経も、京都の権威に密着し過ぎていた。その中にあって、辛抱強く東国から動かず(自身が京文化の中で育ったにも関わらず)、鎌倉に、朝廷から独立した武家政権を樹立した頼朝は、やはり、隔絶した偉人であったと、大人になるにつれて思うのです。
    源氏は、保元の時代から、源氏vs源氏。それは、3代実朝の横死においても同様でした。
    平家が、一族の結束強く、壇ノ浦で諸共に滅んだのとは、真逆。
    でも、その結果、鎌倉幕府は、北条、三浦、比企、和田、梶原などの東国武士、大江広元、三善康信など京の公家出身者など多士済々な人々によって構成されました。
    こうした幅広い出自の人々をまとめ上げ、「幕府」という新たな権威のシンボルを創出した頼朝は、やはり偉人であったと思うのです。

    ちなみに、「いい国作ろう」1192年は、頼朝が征夷大将軍に宣じられた年ですが、「いいはこ」1185年は、平家滅亡の年、あるいは、頼朝が、朝廷より惣追捕使の任免権を与えられた年、すなわち、頼朝が全国に権力を振るう基盤を確立した年ですね。

  • みんな叫びまくって面白いです。
    たしかにまだ争うことばかりでしたね、この時代。
    おサムライさん、生き方変えるの大変だったでしょうね。

  • 第20話 源氏合戦 その4への応援コメント

    4話に及ぶ源平合戦、お疲れ様でした。
    本当に、1万文字使っても語り尽くせぬ源平合戦、義経の冒険譚だけでもまだまだあるのに、熊谷直実と平敦盛、梶原景時、源範頼、平知盛などなど、源平双方の登場人物たちの逸話の数々!!
    まさに日本の大歴史叙事詩。
    一気呵成の語り口、堪能しました。

    草薙の剣は、結局、この時、壇ノ浦に沈んで見つからなかったのですね。
    残念な事!!

  • 岩倉具視ってお札の人ですね。
    こんな時に出てきたんですね。

    作者からの返信

    星都ハナスさん

    いつもコメントありがとうございます☺

    岩倉具視は本当はもっと前から、活動してるのですが、わかりやすくするために、かなり割愛しているので、このタイミングになりました

  • ごきげんよう、もう副反応は大丈夫なのでしょうか、元気になられたようで良かったです。

    慶喜さんは一橋家のホープですものね。
    でも希代の陰謀家の岩倉さんにはやられちゃいましたね。
    土佐の山内さんは、ご先祖様の受けた恩があったので、徳川家も救いたかったのでしょうね。
    第二次長州征伐では、私、大村益次郎さんが大好きです。まるでこの為だけに現れたような方で、司馬遼太郎さんの「花神」は愛読書でした。
    確か、英仏が中古の型落ちの武器を売るのを避けて、竜馬さんが持ってきた南北戦争が終わって武器がだぶついていたアメリカの最新式の銃を買ったのでしたっけ?
    近代日本編も楽しみですね。明治前半は結構ぐだぐだしていた様子ですし。

    作者からの返信

    おだしのぶさん

    いつもコメントありがとうございます☺

    副反応は嘘のようによくなりました!

    竜馬が南北戦争で余った武器を買ったというお話ですが、

    たまたま参加したセミナーで、講師がメッチャ陰謀論じみた事をお話していて、「フリーメイソンが日本を奪うために、竜馬に南北戦争の武器を売った」みたいな

    私は眉唾だと思ったので、信じていませんでしたw

    明治前半はグダグダですね。まとめるのが、大変です

  • 何処かの歴史漫画で載ってあった内容をすっかり忘れていた私です。めっちゃ分かりやすかったです。早めに仲良くしてたら平定しやすかったでしょうに。

  • 第19話 源平合戦 その3への応援コメント

    19話源平合戦 その3。今回も絶好調で飛ばす、飛ばす!! 爽快です。

    頼朝は、非情に、冷酷に、情勢を見ていますね。
    義仲が飢饉の京で苦境に陥ったというよりも、頼朝は、だから京に進発しなかったと言えるのかも知れません。
    そうして、「人道支援」の名の下に、義経に東国の穀物を持たせて京に派遣した。どこからも文句のつけようがないです。

    源氏VS源氏は、義仲だけでなく、伯父の行家に対しても、同様ですね。

    でも、頼朝の非情さは、愛娘である長女の悲恋につながる。

    義仲に与えられた称号は「旭(あさひ)将軍」でなかったでしたっけか? どうでしたっけ?

    スネオ=樋口兼光/今井兼平でないでしょうかね、義仲サイドは?
    そうすると、巴御前=しずかちゃんか!? うーん、なんか違う。(^□^)

  • 第18話 源平合戦 その2への応援コメント

    清盛の最大の失敗は、「貿易立国」を目指した事でしょうね。
    宋銭の輸入も、福原遷都も、瀬戸内海の掌握も、悪い政策ではなかった。
    でも、武士は、そもそもは、荘園を守り支える農場経営者、彼らの利益を代表する事が「武士の棟梁」には求められていたのに、それに気づかなかった。
    スーパーヒーロー清盛、ある意味で残念な男でした。

    作者からの返信

    デリカテッセン38さん

    いつもコメントありがとうございます☺

    清盛はやはり、権力に取り憑かれた男だったかもしれませんね。

    清盛が武士の時代を作ったかもしれませんが、最後儚いです

  • ごきげんよう、竜馬さんいよいよ登場ですね。
    西郷さんと桂さん、結構揉めに揉めたらしいですけれど、竜馬さんの粘り腰で同盟締結に至ったと聞いたことがあります(桂小五郎さんが結構、ウジウジ、過去の恨み言を言うので話が進まなかったそうですね)。
    長州が倒幕に傾いた背景には、その昔、関ケ原で家康さんに負けて領土を減らされて、それ以来恨んでいたとか(結構粘着質なんですね、毛利さん)。
    反対に竜馬の土佐藩は、家康さんに領土をたくさんもらったから、倒幕派につくのを迷ったとか。

    私もコロナの注射うちましたけど、痛いですよね。2回目は熱も出ました。もう、メソメソ泣いちゃいました。
    どうぞお大事に。

    作者からの返信

    おだしのぶさんさん

    いつもコメントありがとうございます☺

    竜馬はかなり粘り強く交渉しましたね。

    カットしていますが、薩長の会談を西郷隆盛がドタキャンして、テンヤワンヤだったとか

    腕の痛みは引きました。もう痛くて大変ですよね💦

    金曜には次話投稿します

  • あべしー。懐かしいです。
    坂本龍馬好きな人多いですね。

    腕の痛みだけならいいのですが。
    お大事になさってください。

    作者からの返信

    星都ハナスさん

    いつもコメントありがとうございます☺

    腕の痛みは引いたので、明日から原稿再開します。

    金曜には次話投稿します


  • 編集済

    第17話 源平合戦 その1への応援コメント

    祇園精舎の鐘の音~(ベン!)
       諸行無常の響きあり~(ベベベン!)

    はああ! 琵琶の伴奏が欲しいですね!!
    保元の乱がグッチャングッチャンのドロッドロなのに対して、平治の乱から始まる源平合戦は、ドラマチックで活劇あり、人情話ありで、大好きです。

    イジイジナヨナヨやっている平安貴族は好きじゃない。
    これからは、武士の時代!!
    でも、今様の歌い過ぎで喉を潰す後白河法皇の茶目っ気も、実は好きだったりします。

  • ごおきげんよう、イギリスと薩摩、ほんとに少年漫画みたいな熱い友情を結んだんですね、夕陽が眩しい!
    長州も結構叩かれましたものね、この外国の脅威を身に染みて知った薩長が倒幕の主力となるのですから、歴史って面白いですね。
    尊王攘夷を旗印に倒幕の戦いに乗り出した雄藩が、米英から武器を買って、フランスの軍事指導を受けた幕府軍と戦うなんて、攘夷はどこに行った? という感じですよね。
    でもこうして解説して頂けると、本当に面白くて楽しく学べますね。


  • 編集済

    「保元の乱」に到るストーリーは、グッチャングッチャンのドロッドロで、何度読んでもすっきり理解が出来ません。
    こちらは、余計な枝葉を取り払って、とても分かり易かったです。

    でも、白河法皇と待賢門院(たいけんもんいん)と鳥羽上皇のドロドロ昼メロみたいな話を読んでいると、「リア充、爆発しろ!」じゃないけど、「こんな連中、さっさと消え去って、武士の世になっちまえ!」とは思ってしまいます!!

    平将門と従妹の姫とか、父親の反対を押し切って源頼朝の元へ走る北条政子とか、情熱的でまっすぐな東国の武士の娘たちが好きです。

    作者からの返信

    デリカテッセン38さん

    いつもコメントありがとうございます☺

    保元の乱わかりやすくて、よかったです。

    正直複雑だし、ドロドロしてるし
    で、わかりやすく、楽しく書くのが難しかったんですよ💦

    もう、恨みつらみの塗り重ねだから、書いてて気分も沈んでくるしで、正直保元の乱が一番萎えました

    でも、デリカテッセン38が「すっきり理解できた」と言ってくれて、嬉しいです

  • 長州小力さん、懐かしいです。
    安政の大獄ってテストに出たので暗記しました。
    内容が全く分からず……。
    へえ、へえです。

    倒幕、ついにきましたね。

  • ごきげんよう、この井伊さんが結んだ不平等条約を改訂する為に、江戸幕府が終わって明治政府になっても苦労するんですよね。
    井伊さん、なんてものを結んじゃうんですか!
    とは言え彼も可哀想なことになっちゃう様子ですし。
    いよいよ幕末の動乱ですね。
    戦国時代と並んで大河ドラマ化されるのが多い時代。
    司馬遼太郎さんに言わせると暗殺だらけの日本史の中でも特に暗い時代とのことですが、それでもスペクタクルではありますよね。
    楽しみにお待ちしていますね。

  • ごきげんよう、日米和親条約は確かに教科書では武力に屈して結ぶことになったとありましたね。でも林先生、大活躍でペリーさんのマウント取れてるじゃないですか、これは凄いですね。
    阿部さんが林先生を交渉役に選んだとのことですが、林先生ってどういう経緯で選ばれたんでしょうね? 教科書での林先生の扱いが酷いですよね(殆ど載ってない)。
    エジソンさんもこの頃か……。そう言えば、電信機が幕府に贈られたんでしたっけ?

    作者からの返信

    おだしのぶさんさん

    いつもコメントありがとうございます☺

    なぜ林先生が交渉役に選ばれたのか、色々調べましたがよくわかりませんでした💦

    ものすごく、頭がいいエリート学者っていうのは、わかるんですが、

    でも、確かに教科書って林先生の扱いってひどいですよね。武力に屈した、みたいな事が書いてあるし

    電信機が送られたんですか? それは、知らなかったです💦

  • 鑑真が日本に行く事を失敗していたことは知っていましたが予想以上に多いですねw
    2回ぐらいかと思ってましたw タフにも程がありすぎやしませんかねw

    作者からの返信

    @satuki1さん

    コメントありがとうございます☺

    鑑真はすごいですよね

  • 今にして思えば、開国して良かったですね。
    そういう理由があったの初めて知りました。
    勉強になります。

    作者からの返信

    星都ハナスさん

    いつもコメントありがとうございます☺

    開国しなきゃ、他の国の植民地になっていたと思います。

    変化は受け入れなきゃ、いけません

  • 公地公民制から三世一身の制度に、そして、墾田永年私財法に。
    そうなれば、国司を通じて朝廷に収められる税収は減る訳で、朝廷の力は落ちるは、残った公民への国司による収奪は過酷になるは。
    都では、門が朽ちても修繕すら出来なくなるは。
    地方の治安は乱れるは。
    誰もが「公民」であるより有力者の「私民」になりたがるのも当然ですね。
    なんで、税率を下げる、という簡単な事が出来ないのだか???
    平城/平安時代も。
    現代のコロナ対策でも。
    給付金出すより、税率を下げる方が簡単でしょうにね!?

  • ごきげんよう、老中水野さんの登場ですね。
    かなり横暴な改革だったのは覚えています。
    でも生姜の恨みは恐ろしいですね、そんなに生姜が好きだったのか……。
    大塩平八郎の乱は確かに教科書にも必ず載っているようですね。
    でも大塩さんの名前がブランド化されているとは知りませんでした、確かにマイケルジャクソンさんの都市伝説めいてますね。

  • 自分も戦国時代の事は色々勉強してますが、こちらはとても分かりやすかったです。
    源氏か平氏のどちらかのルーツを戦国武将は探してたんですね。
    そうなると奥州藤原氏、とかはどうなるのでしょう?藤原氏だから貴族扱いですかね?

  • 政治権力者は、いつでも非情だなあ‥‥。

    作者からの返信

    デリカテッセン38さま

    いつもコメントありがとうございます。

    桓武天皇が坂上田村麻呂の言うことを聞いて、アテルイを助けていれば、もっと早く東北を平定できたかもしれませんね

  • ごきげんよう、何事も中庸がいいんですね、やっぱり。
    厳しくすれば反動が大きいですね。
    定信さんになって田沼さんの評価が上がったというお話はよく聞きます。
    まあ経済政策に関しては、緊縮財政は必要でしょうが、貨幣経済移行は少し早すぎだとしても、ハードカレンシーが米という時代からの脱却は必要でしょう。
    この頃から幕末の動乱に向かって加速が始まるんですね。

    作者からの返信

    おだしのぶさん

    いつもコメントありがとうございます。

    なんでもバランスを取るのが一番難しくて、大事だと思います。

    貨幣経済以降のタイミングは、たしかに難しかったですね。タイミングが早かったのかもしれませんが、私達のお給料が米で支払われても、困ってしまうので、いつかは移行しないと、いけなかったとは思います。

  • まあ、「麻呂」は「〇〇太郎」みたいなもので、大勢いますね。名前の流行りは、いつの時代もあるなあ!

    随分前に、石原さとみちゃん主演で阿倍内親王のドラマをやってたな。石原さとみちゃんは、くちびるが魅力ですよね!!
    という話は置いておいて、孝謙天皇の評判が悪かったから、その後長く女性天皇が立たず、現代でも拒絶反応が強いのでしょうね!
    「女の敵」は、道鏡だけでなく、阿倍内親王もだなぁ。あるいは「女系」を認めず、女性天皇を結婚させないから、変な男に狂っちゃうのか? 生物としての人間のありように不自然な政治や文化は、人間をいびつにしますね。

    さて、眞子内親王には、幸せになってもらいたいのですけど、‥‥ねえ!?

  • ごきげんよう、田沼さん、悪く言われたりしていますが、貨幣経済にシフトしようと頑張ってはいたんですよね。松平定信さんはきっと田沼さんが気に食わなかったんだろうなぁ。でもどうにもバランスが悪くて、凄く偏ってしまうから、何かあった時に困っちゃうんだろうなぁ。
    蘭学事始め、オランダには足を向けて寝られませんね。
    それにしても、本当に、幕府は将軍家がどんどん力を無くして、周囲の取り巻きさんが引っ張るようになりますねぇ。歴史は繰り返す、ですね。

  • 杉田玄白も田沼意次も名前は知っているのに、
    どの将軍の時だったかは覚えていませんでした。
    時代背景が分かってきました。
    そう考えると、偉大な人たちだと思えますね。

  • 不撓不屈とは、まさに、鑑真と、普照、栄叡のためにある様な言葉ですね!!

    この時代、中国からも偉い人が来ましたが、日本からも、はるか天竺を目指した人が。
    少し時代は下がりますが、平城天皇の皇子・高岳親王が海路で天竺を目指しました。
    日本人の旅行好き、ここに始まれり(?)。


  • 編集済

    いつもながら、例えがブッ飛んでいて、すこぶる面白いです!!

    ま! あの時代、スピリチュアルは、社会インフラみたいなものですね。
    疫病が、病原菌やウィルスによるものだなんて知識はないし、中国から政治や文化を輸入していた時代、都を中国風に作るのも、仏教を全国に振興するのも、同じロジックによるものでしょう。
    呪術で国を治めた卑弥呼の時代から、高々4,5百年。
    武士という、実力で政治を行う階級が現れるのは、まだまだ先の時代です。

    国分寺や国分尼寺の建設、大仏の建立によって、日本の建築技術や冶金技術は、大きく進歩したはずです。

    作者からの返信

    デリカテッセン38さん、いつもコメントありがとうございます。

    また、レビュー評価もしてくれて、感謝の言葉しかありません。

    ウイルスとか、病原菌とか、目に見えないものが病気の原因だとは、わからないので、霊的な力で国を治めようとしたのは、仕方がないですが、天皇がスピリチュアルに倒錯していたのを強調すると、当時の考え方がわかりやすく伝わると思ったので、このような書き方になりました☺





  • 新井白石って天才だったんですね。
    現代も必要な人材ですね。
    某時代劇の見過ぎでしょう、吉宗はいい将軍だと思い込んでました。

    ニンニンからのドロン⭐︎でデバネズミに変身
    ニンニンからのドテン⭐︎で突然消えていなくなる。   忍術でした。
    ニンニンからのポロン⭐︎でオッパイ出してめくらましです。

    はい、すいません。m(__)m 調子に乗りました。

    作者からの返信

    星都ハナスさん

    いうもコメントありがとうございます☺

    吉宗は時代劇の影響は強いですね。とは言え、江戸の将軍もヤベェやつが多いので、その中では比較的名君だと思いますよ

    ニンニンからのドロン⭐︎でデバネズミに変身
    ニンニンからのドテン⭐︎で突然消えていなくなる。   忍術でした。
    ニンニンからのポロン⭐︎でオッパイ出してめくらましです。

    ↑メモしました

  • ごきげんよう、暴れん坊将軍さんの登場ですね。白馬に乗って砂浜伝いに和歌山から東京まで、ご苦労様です。
    新井白石さんは今で言うギフテックさんだったんですね。
    でも吉宗さんはなんで馘にしちゃったんでしょうね、上手く改革が進んでいたのに。
    やっぱり朱子学がNGだったんでしょうか。
    吉宗さんの質素倹約令は現代経済学からすれば景気高揚策としては逆だったという説もありますね。
    吉宗さんの時代と言えば蘭学者が世に出始めた頃、平賀源内さんもこの時代でしたっけ?

    作者からの返信

    おだしのぶさん

    いつもコメントありがとうございます☺

    吉宗はワンマン社長タイプで、徳川じゃない新井白石が幕府を引っ張ってるのが気に入らなかったんじゃないでしょうか。
    しかもアンチ朱子学で、経済政策も米が中心だし、根本的に新井白石と考えがありませんね。

    質素倹約令は経済学的には、よろしくありません。好景気というのは、皆がたくさんお金を使っている状態なので、その逆を強要する倹約令というのは、むしろ景気が悪くなります。

    平賀源内も割愛しましたが、この時代の人です。