ごきげんよう、フビライさんのお手紙、まさしくメンヘラっぽい!
謎の上から目線ですから、時宗さんも「うざっ!」と思ったことでしょうね。
ヤンデレに好かれてストーカーにでもなられては大変ですものね。
フビライさんは手を広げ過ぎて管理能力を超えてしまって反乱が相次ぎ、日本はなんとか防衛したものの財政難に陥り御家人の不満は募り……。
本当に、戦争なんてするものじゃありませんね。
作者からの返信
おだしのぶさん
いつもコメントありがとうございます。
フビライのメンヘラ手紙は多少誇張してますが、少なくとも私にはメンヘラに見えたので、あのような表現になりましたw
本当に戦争はするものじゃないです。戦争の事書いてると時々気が滅入ってくることがあります。
編集済
今回も、すっきりバッサリあっさりと、元寇がまるっと分かる説明でした!!
さて、元寇といえば神風、神風といえば台風と、「ラーメンにメンマ」の様に言われますけど、さて、どうなのでしょう?
歴史の評価は、ある時期には「白」と言っていたものが、別の時代には「黒」になり、また時がたつと「白」になりと、しばしば評価が揺らぎます。
そもそも、台風とは何か?
「熱帯低気圧のうち北西太平洋または南シナ海に存在し、かつ低気圧域内の最大風速が約17.2 m/s(34ノット(kt)、風力8)以上にまで発達したものを指す呼称」
Wikipedia
まず、「熱帯低気圧」であるのがミソ、どういう事かといえば、前線を伴っていない。台風が温帯域まで北上して前線を持つと「台風が温帯低気圧になった」と言います。
そうして、最大風速が約16メートル以上であること。
鎌倉時代、風向風速計も、気象衛星ひまわりもありません。
「暴風雨があった」、これが間違いのないところでしょう。
文永の役において、元軍は、博多で幕府軍と会戦して、日暮れと共に船に戻り、そこで暴風に遭遇します。という事は、敵勢が、陸上に橋頭保を築く事が出来なかったということであり、日本勢の抵抗が頑強であった事の現れだと言えます。
元軍は、朝鮮半島から鏡の様な海面を渡って来た訳ではなく、対馬、隠岐でも激しい戦闘をして、その上で博多に攻め寄せています。
常識的に考えて、渡海して来た軍勢が、弱敵を前にわざわざ海上で夜を過ごすとは考えられない事です。
敵軍は、昼の戦いで、左副元帥・劉復亨が、鎮西奉行・少弐資能の三男・景資に矢で射られて負傷し、撤退を決断した事が、元側の資料にも記録されています。
敵軍の撤退が、日本武士団の果敢な迎撃に因る事は、間違いないでしょう。
弘安の役では、敵軍は、「歴史上空前」といわれる規模の軍勢で5月に高麗を出帆し、迎え撃つ日本軍と7月末まで戦い続けて、ついに我が国を寸土も占拠する事が出来ずに、海上で暴風に遭います。
3ヶ月にも亘って海上にいれば、格別の神の加護がなくても、嵐にくらいは遭いますね!