応援コメント

第21話 義経VS頼朝!? 奥州合戦」への応援コメント


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    日本人は判官びいき、義経は日本史一番の人気ヒーローですよね。
    私も大好き。
    子供の頃は、「頼朝ひどいな、義経かわいそう」と思っていたものでした。

    でも、保元・平治から治承・寿永、そうして、承久に到る戦乱は、京都の貴族政権の膿みに膿んだ政治・文化が崩壊して、武士の時代が生まれる道程であったと思うのです。
    その時代の流れ中で、義仲も行家も義経も、京都の権威に密着し過ぎていた。その中にあって、辛抱強く東国から動かず(自身が京文化の中で育ったにも関わらず)、鎌倉に、朝廷から独立した武家政権を樹立した頼朝は、やはり、隔絶した偉人であったと、大人になるにつれて思うのです。
    源氏は、保元の時代から、源氏vs源氏。それは、3代実朝の横死においても同様でした。
    平家が、一族の結束強く、壇ノ浦で諸共に滅んだのとは、真逆。
    でも、その結果、鎌倉幕府は、北条、三浦、比企、和田、梶原などの東国武士、大江広元、三善康信など京の公家出身者など多士済々な人々によって構成されました。
    こうした幅広い出自の人々をまとめ上げ、「幕府」という新たな権威のシンボルを創出した頼朝は、やはり偉人であったと思うのです。

    ちなみに、「いい国作ろう」1192年は、頼朝が征夷大将軍に宣じられた年ですが、「いいはこ」1185年は、平家滅亡の年、あるいは、頼朝が、朝廷より惣追捕使の任免権を与えられた年、すなわち、頼朝が全国に権力を振るう基盤を確立した年ですね。

  • ごきげんよう、まさに血で血を洗う骨肉の争いでしたね。
    それにしても頼朝さん、凄いな……。
    平泉藤原さんこそいい迷惑、とばっちりでした。
    この時点で後白河さんはどうなってるんでしょう?
    征夷大将軍として鎌倉幕府を開いて良いという宣下は後鳥羽さんからだされたんでしたよね?
    後白河さんが健在だったら、頼朝さんにみすみす権力を渡すようなことはしなかった気もしますよね。

    作者からの返信

    おだしのぶさん、いつもコメントありがとうございます。

    ちょっと説明不足でしたが、後白河上皇は奥州合戦の後亡くなります。

    後白河上皇が頼朝に権力を渡したくないので、征夷大将軍にするのは拒んでいたのですが、彼が亡くなったので、1192年にようやく頼朝は征夷大将軍になれたんですね。