25 夫婦でお出かけ②
フェドーシャを伴って二人は表に出て、待っていた馬に荷物を取り付ける。
エレンは昨日の昨日まで、遠乗りとは「一人一頭馬に乗る」ことだと思っていた。だから、一応嗜みとして乗馬の訓練は受けているが、険しい山岳地帯でも華麗に馬を操るリュドミラ騎士のミハイルについていけるだろうか、と不安に思っていたのだ。
だがそれを言うとミハイルの方がきょとんとして、「二人乗りに決まっているだろう」と一蹴した。彼が普段乗っている愛馬は大柄で、武装していないのなら男女一人ずつと荷物くらい軽々と乗せられるという。
なるほど確かに、今目の前にいる馬を見ればミハイルの言うとおりだと納得できた。
ミハイルが正騎士になった頃からの相棒だという漆黒の牡馬は大柄で、人二人乗せることくらい、なんということもなさそうだ。
(私が乗っていた子とは、全然違う……)
少なくともエレンが乗っていた馬はエレン一人でも十分乗れるくらいには体高が低く、鞍と軽装のエレンだけで重量制限に達していた。
性格もおっとりした牝馬で、野原を全力疾走させるのではなくゆったりと小走りにさせるくらいだったので、この牡馬は勝手が全く違うだろう。
(近くで見ると、大きいな……)
ミハイルが手際よく荷物を取り付ける間、エレンは馬をじっくり観察していたが、やがて振り返ったミハイルが「やめておけ」と忠告した。
「おまえは小さくて華奢だから、下手に近づくと馬鹿にされる」
「馬鹿……」
「仕方ないだろう、軍馬はそういうものだ。……俺が見ている間にはおまえに手出しはさせないが、だからといって近づきすぎるな」
「……うん、分かった」
ミハイルの指摘はもっともなので一歩下がり――そういう意図ではないと分かっていても、「おまえに手出しはさせない」の一言には不覚にもときめいてしまった。
仕度を終えたところで、出発だ。
エレンの身長では馬の鞍まで高すぎるので、フェドーシャが持ってきてくれた踏み台を使ってよじ登り、その後ろにひらりとミハイルが飛び乗る。
いくらエレンより身長が高くて脚も長いとはいえ、踏み台も使わずに鐙に足を掛けて軽々とまたがれるなんて、やはり騎士は体の鍛え方が違うようだ。
「では、行ってくる」
「はい、いってらしゃいませ、旦那様、奥様。二人きりのお時間を、楽しんでください」
フェドーシャに見送られ、ミハイルが馬の腹を蹴った。
ミハイルに従順な軍馬は軽い足取りで駆けだし、速度を出そうとした――ところで、ミハイルが手綱をぐっと引く。
「わ、っと……」
「鞍の縁に手を掛けていろ」
背後から声が聞こえ、手綱を持たないミハイルの左手がエレンの腹部に回り――ぎくり、と身を震わせてしまう。
これは、軍馬に慣れないエレンが転がり落ちないためだ、と分かっていても、大きな手の平が腹に触れてきて思わず身を固くしてしまった。
「……おい、エレン。もう少し俺の方に身を預けろ」
「い、いいの? 私の頭が邪魔にならない?」
「確かに邪魔になるかもしれないが、おまえが転がり落ちるよりはましだ」
……変に素直なところは、評価するべきなのかもしれない。
エレンは大人しく彼の言葉に従い、ゆっくり背中を倒した。すぐに体はミハイルの胸に受け止められ、ちょうど彼のあごの下にエレンの頭がすっぽり入る形になった。
(ミハイルの体、がっしりしてる……)
大柄で岩石のような肉体を持つ者の多いリュドミラ騎士の中ではスマートな方かもしれないが、以前見た彼の上半身はしっかり鍛え上げられており、無駄な肉がなかった。
エレンが落ちないように支える腕も思いの外がっしりとしていて、彼が自分とは違う性別なのだということをまざまざと思い知らされた気分だ。
ミハイルの馬は、本当はもっと力強く駆けたいのかもしれない。だがミハイルは愛馬の速度を調節し、エレンの体に負担がないようにしてくれていた。
グストフ邸の門を出た馬はそのまま住宅街を抜け、城下町の通りに出る。まだ朝の時間帯だからか開店していない店も多く、人通りもまばらな中、重い蹄の音を鳴らしながら馬は大門へと向かった。
見上げるほど巨大な門は既に開かれているが、門番たちが一旦馬を止めさせ、身分証明書の提示を求める。
ミハイルが「妻と少し出かけてくる」と言って懐から出した騎士団所属証明書を見せると門番ははっと息を呑み、「確認しました。いってらっしゃいませ、グストフ様!」と恭しく礼をして送り出してくれた。
(妻……うん、そうだね。私はこの人の、奥さんなんだ……)
もしかするとミハイルがエレンのことを人前で「妻」と呼んだのは初めてかもしれなくて、面はゆい気持ちになる。
門の外には冬の寒さで草木が枯れた大地が広がり、土をならして作った馬車道が伸びている。ここをしばらく南下し、途中の交易路で南西に曲がった先の緩やかな山脈を越えると、エンフィールド領に入る。
南西の空は、よく晴れているようだ。
この時期なら、エンフィールドは秋晴れが続いている頃だ。確か、毎年恒例の収穫祭もそろそろ開かれるのではないか。
エレンが目を細めて南西の方を見ていると少しずつ馬の速度が落ち、やがてエレンが身を預ける胸板が震えた。
「……エンフィールドが、恋しいか?」
ちょうどエレンの頭がミハイルの胸元にあるので、思いの外声が近くで聞こえた。
その声は静かで、あまり感情がこもっていない。
エレンは少し考えた後、首を横に振った。
「……懐かしいし、たまには皆の様子を見たいとは思うけれど、帰れなくて辛いほどじゃないわ」
「……」
「だって私は、あなたの奥さんだもの。それに、女王陛下からカミラ様のお付きとしてリュドミラに渡るように命じられた日から……私はこの国に骨を
もしかすると独りぼっちで墓に入るかもしれないけれどとにかく、カミラ本人からクビを言い渡されない限りは、いずれ王妃となる彼女に仕え、そしてこの国で天寿を全うするつもりでいた。
ミハイルは何も言わず、馬の向きを変えた。馬は大きな馬車道から細い小道に入り、そのまま枯れたリュドミラの地を進んでいく。
肌に触れる風は、故郷のそれよりも冷たくて乾燥している。毎晩フェドーシャが保湿液をしっかり体に塗ってくれるのでなんとか保っているが、気を付けないと唇の端が乾燥して切れてしまいそうな乾いた気候である。
「私、まだあなたの奥さんらしいことは何もできていないけれど……ちょっとずつ、頑張る。それでいつか、カミラ様についてきてよかった、だけじゃなくて、あなたと結婚してよかった、と心から思えるようになるから」
「……」
「ミーシャ?」
返事の代わりのように、ぐ、とエレンの腹に触れる手に力がこもり、エレンは身じろぎしてしまった。
「あ、あの。ミーシャ? あまりそこに、触れないでほしいんだけど……」
「だがこうしないと、じゃじゃ馬なおまえは転がり落ちてしまうかしれない。この高さと速度で落ちると、死ぬぞ」
「そ、そうだけど……ほら、そこってお肉が付く場所だし……」
エレンの指摘に、ぴくり、とミハイルの手が震え、軍馬が少しだけ不満そうに鼻を鳴らした。
しばしの沈黙の後、ミハイルが深いため息をつく音が頭上から聞こえてくる。
「……おまえはそんなこと、気にしなくていい」
「しっかり鍛えられた強靱な体を持つ人に言われても、説得力ないんだけど」
「しっかり鍛えられた強靱な体を持つ俺だから、言えるんだ。……おまえは女で、非戦闘員だ。……柔らかくて壊れやすい体を持っているのは、当然のこと。おまえのような者たちを命に代えてでも守るのが……俺たちの役目なのだから」
「ミー……」
「速度を上げる。舌を噛まないようにしろ」
エレンに質問の隙を与えず、ミハイルが馬の横腹を蹴る。待ってました、とばかりに速度を上げる馬によって口の中で事故が起こらないよう、エレンは言いたいことを飲み込んでぎゅっと口をつぐんだ。
ミハイルの言うことには、一理も二理もある。
同じ女だが騎士である同僚のアリソンやグレンダも日頃から、「私たちは戦士で、君たちは後方支援職だ。君たちを守るのが、私たちの仕事だ」と言っている。
だが……騎士としてではなく、夫として妻であるエレンを見てほしい、と贅沢なことを願ってしまうのだ。
不特定多数の「俺たち」が不特定多数の「おまえのような者たち」を守るのではなく……「ミハイル」が「エレン」を見るようになってくれれば、と密やかに思ってしまった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます