28 謝罪の意味②

 広間の隅には、立派な鍵盤楽器が置かれている。

 触れない程度に近づいて見てみるが、エンフィールドで愛用されるものとは少し形が違うようだ。定期集会はないようだが、何かの折りにはこの楽器を弾いて賛美歌を歌うのかもしれない。


 キイ、と小さな音がしたのでそちらを見やると、入り口のドアが開いて新しい礼拝客が来たのだと分かった。

 カンテラを持ちフード付きコートを着たその人は若い女性のようで、彼女は近くに立っていたエレンを見ると目を丸くした。だがエレンが何も言わずに会釈をすると会釈で応え、マットの上に座ってカンテラを膝の前に置くと、祈りを捧げ始めた。


 彼女らの邪魔をしないよう、足音を忍ばせながら聖堂をぐるりと回ってミハイルたちのところへ戻る。

 ちょうどこちらも話が終わったようで、エレオノーラが手紙を受け取っていた。


「……ああ、待たせてすまなかったな。それじゃあ、帰ろうか」

「ええ。……それでは、またカミラ様の授業のときに」


 エレンが言うと、エレオノーラも微笑んだ。


「ええ、お気を付けてお帰りくださいね、ミーシャ、エレン」


 ……エレオノーラの控えめな声が聖堂に響いた、その瞬間。


 カシャン、と何かが倒れる音。

 振り向けば、先ほど礼拝に訪れた女性が割れたカンテラの前で膝立ち状態になり、呆然とこちらを見ていた。


 女性は、惚けたように口を開いてこちらを凝視している。

 だが彼女は立ち上がると裸足のままずかずかと歩いてきて、ミハイルの前で立ち止まった。


 エレンやエレオノーラ、他の参拝者たちがぽかんとして見守る中、徐々に女性の顔が歪み――いきなりがっと、ミハイルの胸元を掴んだ。


「おまえが……おまえが、『首刎ね騎士』か!?」

「ちょっ……何を……」

「おまえがっ! おまえが、私の夫を殺したんだな!?」


 ――血を吐くような女性の叫びに、その場は凍りついた。


 女性は小柄で細身なので掴みかかられてもミハイルは動じないが、だからといって何も言い返さない。

 彼は眉根を寄せ、苦しそうに顔をしかめ――「もしや」と呟く。


「おまえは、ヴァレリーの妻か……?」

「ああ、ああ、そうだ! 負傷した私の夫は、おまえが見殺しにした! おまえが残党を追わずに夫を担いで撤退していれば、夫は死ななかった! だというのに、おまえは、夫を見捨てたんだろう!?」

「ちょっと、待って……」


 彼女の言葉の意味はすぐには理解できなかったが、とにかく止めなければ、という意識だけはあった。


 だからエレンは女性をなだめようとその肩に触れたのだが、彼女はぎょっと目を剥くと、今度はエレンに掴みかからんばかりの勢いで迫ってきた――が、途中でミハイルに腕を掴まれ、その場でたたらを踏む。


「おまえは、『首刎ね騎士』の妻だな!? おまえたちの結婚記念日が、おまえがこの人殺しと結婚した日が、私の夫の命日になった!」


 ミハイルに掴まれて宙ぶらりん状態の女が叫んだ言葉が――エレンの胸を、貫いた。

 それは、つまり――


(この女性の旦那さんは、私たちの結婚記念日にミハイルが出陣したとき――亡くなった)


 それも、もし彼女の言うことが正しいのなら……ミハイルは負傷した仲間より、ボリスの仇討ちを優先させ、仲間を捨て置いた。

 だから治療が間に合わなくて、その騎士は死んだと。


「……おやめなさい! あなたのご夫君は、このようなことは望んでらっしゃいません!」


 その場の状況に耐えかねたのか、エレオノーラが声を上げる。

 そして彼女が「誰か、手を!」と呼びかけたことで、それまで固まっていた礼拝者や下級神官たちが動き、ミハイルから逃れようともがく女性を取り囲んで押さえつけた。


「離せ! ヴァレーロチカは、夫は、おまえが殺した! おまえが刎ねた首は、敵のものだけじゃない!」

「お黙りな――」

「人殺し! 地獄に堕ちろ! ヴァレーロチカの、カヴェーリン公の代わりに、おまえが死ねばよかったんだ!」


 エレオノーラの制止の声をかき消したその慟哭に、ひとつ、ミハイルの体が震えた。


 礼拝客の一人に少々魔法の心得のある者がいたようで、女性を黙らせて下級神官に引き渡した。動揺する礼拝者たちは一旦他の神官たちが別室に案内し、エレオノーラが彼らに指示を出している。


 ミハイルは、何も言わない。

 少し俯いているので、エレンからは彼の表情も読み取れなかった。


「……ミーシャ」


 そっと、呼びかける。

 そうして肩に触れようと差し伸べた手は――途中で、やんわりと押しとどめられた。


 エレンの手を押し返したミハイルは、顔を上げないままぼそりと言う。


「……先に、帰っていてくれ」

「でも……ミーシャ。私はあなたのこと……」

「いい、おまえは気にするな。……。……すまなかった」


 それは一体、何に対する謝罪の言葉なのか。


 ミハイルは呟くと、エレンに背を向けた。

 追いかけたかったのに、魔法を掛けられたかのように体は動いてくれない。


 ミハイルは何も言わず、聖堂を出ていった。

 割れたカンテラからオイルが滴る、ぴちん、という静かな音は、まるで彼を見送っているかのようだった。












 その後のことは、あまりよく覚えていない。

 おそらくエレンは放心状態でその場に立ち尽くしていて、見かねたエレオノーラが迎えを呼んでエレンを屋敷まで送り届けてくれたのだろう。


 気が付いたら屋敷に戻り、フェドーシャにぎゅうっと抱きしめられていたエレンは、その日は眠らずにリビングの暖炉の前に座っていた。


 ミハイルは、「先に、帰っていてくれ」と言っていた。

 だから、彼が帰宅するまで待ち、「おかえりなさい」と言いたかった。


 だが心配になったフェドーシャがたくさんの毛布を持ってきてくれても、暖炉の薪が燃え尽きそうになっても、ミハイルは帰ってこなかった。

 深夜になって雪が強く降り、フェドーシャが慌てて暖炉に薪を追加しても。長い夜が明けて朝の日差しが見えてきても、ミハイルは戻らない。


 カミラからの使いが来て、「今日は休みなさい」という言葉が伝えられた。

 朝になったら出勤して騎士団にミハイルの様子を尋ねる気だったエレンは抵抗したが、いつになく怖い顔をしたフェドーシャによって強制的に寝室に連れていかれ、眠らされた。


 夕方頃に目が覚めても、ミハイルは帰宅していなかった。

 それどころか彼はエレンの知らないうちに仕事に行き、往復で十日はかかりそうな遠征に出かけていた。


 エレンは、待っていた。

 翌日からは出勤するようになり、きちんとカミラ用の薬を処方して魔法薬研究所にも顔を出したが、あまりにも顔に生気がないからか、皆に心配された。


 雪は降り続け、かつてミハイルが教えてくれたように世界がどんどん白く染まっていく。

 そうしていると、遠征に出ていた騎士団が王城に帰ってきた。


 だがその中にミハイルの姿は、なかった。

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