29 蝶が告げる危機

 十日以上降り続けた雪は、既に腰の高さまで降り積もっていた。


 だが魔道士たちが毎日巡回してくれているため、城下町の大通りや王城付近にはうっすら積もっている程度で済んでいた。魔法に詳しいカミラ曰く、地面や床に魔力を流し、雪が降ってもすぐに蒸発するようにしてくれているのだという。


 それでも魔力と魔道士には限りがあるので、あまり使わない道や裏庭などは自然のなすがままに放置している。

 そのため、王城の馬車道の両側は雪が積もっている中を歩くので、まるで巨大な迷路の中を歩いているような感覚になった。


 ……とはいえ、今のエレンはそんな状況を楽しめる状態ではなかった。


「本日は健康状態もよろしいようですので、こちらの赤い薬と青い薬を一錠ずつ、そしていつもどおり、体温を上げる効果のあるこちらの液体薬を紅茶に入れられるとよろしいでしょう」


 説明しながら、エレンの手は的確に動いて本日のカミラの薬を処方していく。


 ミハイルが、戻ってこない。

 その事実はエレンの胸を静かに、確実に蝕んでいるが、だからといって伏せっているわけにはいかない。


(ミハイルは、きっと無事。帰るのにちょっと手こずっているだけで、すぐにけろっとして戻ってくるはず)


 確証はないが、そう信じて毎日を過ごすしかなかった。

 ぼうっとしていれば、後悔――あの日聖堂で、彼を引き留めていればよかった、という思いに胸を潰されそうになるからだ。


 あのときミハイルに掴みかかった女性は、エレオノーラの指示で城下町の隅にある静かな教会に移動させられ、そこで療養しているそうだ。やはり彼女の夫は前回ミハイルが出陣した際に死亡しており、彼の亡骸をミハイルが駐屯地に連れて帰ったのだという。


 エレンには、何が正解なのか、どうすればよかったのか、分からない。

 ろくな魔力を持たないエレンにはただただ、夫の無事を案じてその帰宅を待つことしかできなかった。


 長年の習性なのか、こんな腑抜けた状態でもエレンの手はきちんと正しい薬を選んで、調合もできている。

 だがそんなエレンを見るカミラや仲間たちの目はいつも辛そうで、エレンの方が申し訳なくなってきた。


「液体薬は、甘めに味付けしております。ですので朝昼晩に二滴ずつ入れて――」

「……失礼します。少しよろしいですか、カミラ様、エレン」


 処方薬の説明の途中で、侍女長のエマが割って入った。

 いつも冷静な彼女らしくなく慌てた様子で、カミラもはっとして振り返る。


「ええ。どうしたの、エマ」

「……先ほど窓の外で音がするので何事かと思っておりましたら……キャロリン」

「はいっ」


 エマの後から部屋に顔を覗かせたメイドのキャロリンは、何かを手に持っていた。

 だがキャロリンがこちらに来るより早く、彼女の手の中にあったものが光を放ち、エレンの方に真っ直ぐ飛んできた。


「わっ……!?」


『えれん・ぐすとふサマ。えれん・ぐすとふサマニ、デンゴン、デンゴン』


 飛んできたのは、この時期にふさわしくない大きな蝶だった。

 その蝶は光っており、しかも若い男性の声でしゃべっている。どうやらこれも、魔法の一種らしい。


 きらきら光る大きな蝶はエレンの目の前でふよふよ飛びながら、少し雑音の入った伝言を再生している。


『みはいるサマ、キケン。フショウシ、リョウヨウチュウ。チリョウ、ウケナイ。みはいるサマ、キケン。クスリ、ノマナイ。テアテ、ウケナイ』


「……な、に……?」


 ミハイル様、危険。負傷し、療養中。

 治療、受けない。薬、飲まない。手当て、受けない。


 ぐらりと目の前の世界が反転し、意識が飛びそうになった。

 しばらくの間同じ台詞を繰り返していた蝶は、やがてぱっと光ると塵も残さず消えてしまった。


(ミハイルが……怪我をしている?)


 しばし呆然としていたエレンだが、はっとしてカミラを見る。

 カミラは難しい顔をしていたが、やがて肩を落とした。


「……その蝶の言葉は、信頼していいはずよ。その蝶からは、あまり強い魔力を感じなかった。……このお城の周辺には魔法の障壁を張っていて、無関係者の魔法は通らないようになっているの。だからきっと、その蝶を寄越したのは魔法の心得のある騎士団の誰かよ」

「それ、じゃあ……ミーシャは、本当に怪我をして……治療も受けないで……?」

「ええ。きっとそれをどうにかしようとした騎士が、あなたに伝言を送ることを考えたのでしょう。あなたがミハイルの妻で――魔法薬師であることを、頼りにして」


「……」

「……エレン」

「……はい」

「一緒に、国王陛下に謁見に行きましょう。……ミハイルを助けられるのはきっと、あなたしかいないのよ」










 国王への急な謁見はやはりというか、叶わなかった。


 だがだいたいの事情を聞いた国王は、自分の代役として王太子・アドリアンを指名した。おそらくこれが、アドリアンが初めて一人で行う「公務」になるのだろう。


「王太子殿下に拝謁願えたこと、感謝いたします」


 準備の間にカミラから説明を受け、仲間たちに檄を入れられたエレンが定型どおりの言葉を述べると、少し緊張した面持ちで座っていたアドリアンは「気を楽にせよ」と言った。


「ミハイル・グストフの件は、先ほど説明を受けた。……彼が他の遠征部隊員と共に帰還せず、かといって死亡報告も入らないため、私も疑問に思っていた。騎士たちにも口止めがされていたようだが、先ほど事情聴取ができた。……ミハイル・グストフは現在、遠征先の村に留まっている。彼は命の危険に関わるような怪我を負いながら治療を拒否し、そのことを誰にも伝えるなと皆に言っていたそうだ」


 アドリアンの言葉に、エレンは硬い表情で頷いた。


 どう考えても――ミハイルは、生きて戻ってくるつもりではない。

 負傷したというのに治療を受けず、薬も飲まず、かといって先んじて帰還した騎士たちに伝言を託すこともしない。


 あの蝶を寄越してくれた騎士もミハイルに口止めされたのだろうが、彼を死なせたくなくて苦渋の選択の後、密かに蝶を飛ばしてくれたのだろう。


「おそらく、ミハイルはこのまま治療を受けずに死ぬ気でいる。……あいつの意図は、あいつにしか分からない。だが私としては、このままあいつを死なせるわけにはいかないと思っている」

「……はい」

「それで……君は、ミハイルの治療に行きたいのだったか」

「はい。殿下に許可を賜りたく存じます」


 そう言ってエレンが深く頭を垂れると、アドリアンがうなる声が聞こえてきた。


「……戦う力を持たない君を、単独で村に向かわせるわけにはいかない。ゆえに、騎士の同行ならびに案内が必要となる。その間、我が妃カミラの薬の処方ができなくなるが、それについての補填は?」

「はい。カミラ妃殿下と魔法薬研究所から許可をいただき、私が不在の間には魔法薬師を一人、臨時として付けていただくことになりました。彼には私が普段使用している処方薬を預け、日頃のカミラ様の体調を記した健康記録簿もお渡しします」


 普通、カミラのお抱え魔法薬師であるエレンが個人的な事情で主君のもとを離れることはできない。


 だがその主君であるカミラの方から「ミハイルを助けに行け」という「命令」が下り、普段世話になっている魔法薬師も快く協力してくれた。

 侍女長やメイドや騎士仲間たちも、「エレンがいない間のサポートは自分たちがする」と言ってくれた。


 また、案内をしてくれる騎士にも既に連絡をしている。

 やはりミハイルのことを心配している騎士たちは多いようで、以前ミハイルへの手紙を託してくれた青年騎士が一番に名乗りを上げ、エレンを必ずミハイルのもとまで送り届けると約束してくれていた。


(私は、このままミハイルを死なせたくない。死なせるわけにはいかない)


 まだ、彼とは話したいことがある。聞きたいこともある。


 彼を死なせたくない、死んでほしくない。

 たとえ……生きるのが辛かったとしても、こんな形で命を諦めないでほしい。


 エレンがはっきりした声で説明するとアドリアンは頷いて、隣の宰相を見やった。

 アドリアンが国王代理としてエレンの計画に同意し、さらに宰相が承認の意を表す。そして国王が宰相からの報告に諾の返事をすればよい。


 かなり面倒な手順になり、こうしている間にもミハイルの命の灯火が消えようとしていると考えると、気持ちばかり急いてしまう。だが、たとえ手続きが厄介だとしても、ただの平民でないエレンが動くためにはこれしかないのだ。


 国王の右腕である宰相はしばし考えていたが、やがて「よろしいでしょう」と頷いた。


「すぐに国王陛下にご報告いたします。ただ、念を押しますが……エレン・グストフ」

「はい」

「今回のそなたの使命は、『ミハイル・グストフの治療』です。これは王太子殿下、並びに国王陛下のご命令となるため、任務を受けたからにはミハイル・グストフが何と言おうと、治療に専念しなさい」


 そう、たとえ彼がエレンを突っぱね、死を望んだとしても。


 エレンは、迷わなかった。


「はい。抵抗しようと私に罵声を浴びせようと必ず治療し、嫌がるものなら殴ってでも黙らせて王城に連れて帰ります」

「……ええ。そなたのような奥方であれば……きっと大丈夫でしょう」


 そう言う宰相は、少しだけ安心したように微笑んでいた。

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