30 エレンの願い

 国王の最終許可は、すぐに降りた。


 フェドーシャはその返事を待ちかねていたようで、すぐにエレンに旅支度をさせてくれた。

 そして騎士団の者たちも今か今かと待っていたようで、全身もこもこの着ぶくれ状態で現れたエレンを見ても誰一人笑わず、例の若い騎士がエレンの前に跪いた。


「リュドミラ騎士団第四部隊所属、イーゴリ・ベシュカレフでございます。奥様をミハイル様のもとへ安全にお送りいたしますことを、約束します」

「はい。よろしくお願いします、イーゴリ」


 イーゴリはかつてエレンの手紙を届けてくれた青年の一人だが、あのときの快活な様子はなりを潜め、きりりとしてエレンの手を取って馬に乗せてくれた。


 エレンの薬箱や必要物資は厳重に布でくるんで他の物資と共に馬に括り付け、騎士たちが見守る中、イーゴリは馬の横腹を蹴った。


「全速力で参ります! 奥様、しっかり掴まっていてください!」

「はい!」


 鞍にしがみついたエレンは最後に一度、振り返った。

 残念ながらここからは見えないが、きっと離宮の方ではカミラやエマ、メイドや騎士たちが窓辺に並び、エレンの出発を見送ってくれているはずだ。


(行ってまいります、カミラ様!)


 舞い落ちる雪の中、馬が駆けだす。

 鼻の先までフードを下げたエレンは唇を噛み、ひたすらミハイルの無事を祈っていた。














 王城の門を出て城下町を抜け、大きな馬車道を走るまでは、馬は順調に進んだ。

 だがイーゴリが馬の轡を西に向けて小さな馬車道に入ると途端に、降り積もった雪が馬の進行を妨げてくる。このあたりは、魔道士による除雪が行われていないのだ。


「魔法を使います!」


 だが騎士はほとんど馬の歩みを止めることなく片手を雪山に向け、そこから放った風で雪を粉々に吹き飛ばした。

 エンフィールドでたまに降る雪と違い、このあたりの雪は基本的に水分量が少なく、魔法の加減をすれば吹き飛ばすことも可能らしい。


 彼が魔法を使うたびに強風が巻き起こり、白いつぶてが否応なしに襲いかかってくるため、エレンは身を切るような寒さに耐えなければならなかった。

 念のため出発前に体を温かくする効果のある薬を飲んだが、それでも冬のリュドミラの空気は極寒に慣れないエレンを容赦なく攻撃し、体力を奪おうとしてくる。


(負けない! 寒さくらいに、私の役目を邪魔されたくない!)


 イーゴリは途中で一回休憩を挟み、その後は馬の速度を落とした。

 彼曰く、ミハイルが籠もっている村までは馬を全力で駆れば夕方までには到着するという。だがすぐに夜になり気温が下がるため、下手すれば馬の方が倒れてしまう。


 リュドミラ生まれのこの馬も特殊な魔法を掛けてもらっているようだから、多少の寒さでは音を上げない。

 それでも、無茶な働きをすれば倒れ――ミハイルのもとにたどり着くことなく、イーゴリもろとも行き倒れてしまう。


 エレンよりずっとイーゴリの方が、魔法や馬に詳しい。だからエレンは彼のやり方に一切文句を言わずに黙って鞍にしがみついていた。正直なところかなり尻が痛くて辛かったが、絶対に泣き言は言わない。


 そうして夕方になりかけた頃、雪に埋もれつつある小さな集落にたどり着いた。

 出迎えた村人たちはエレンたちを見て驚いた様子だったが、「負傷した騎士の治療に来た」と言うと納得しつつ、申し訳なさそうに眉を垂らした。


「それは……ありがたいことです。騎士様はまだ息がありますが……我々が何と言おうと、一切の手当てを受けてくださらないのです」

「いや、ミハイル様のご様子を見てもらえただけで、十分ありがたい。……奥様、私は馬を休ませてきますので、ここから先はお願いします」

「はい。……本当にありがとうございました、イーゴリ。必ず、ミハイルを助けます」


 エレンはかじかむ唇を叱咤して言い、村人の案内でミハイルのいる小屋へ向かった。

 案の定、尻も足も腰も痛い。尻はきっと皮が擦り剥けているだろうし、足もガクガク震えていて、様子を察してくれた村人の手を借りなければ途中で倒れていただろう。


 だが歯を食いしばって歩き、案内された小屋に駆け込んで――ベッドの上で丸くなる人物と、その傍らにいた若い騎士の姿を見て、泣きそうになった。


 騎士は弾かれたように振り返ると、「ああ……!」と掠れた声を上げる。


「来てくださったのですね、グストフ夫人……!」

「あなたが、蝶を、送ってくれたのですね。ありがとう、ございます」


 ふらふらしつつエレンが礼を言うと、騎士はぐすっと洟を啜った。

 彼はエレンたちのために魔法の炎をベッドの側に浮かばせると、村人に伴われて退出していった。ずっとミハイルの様子を見てくれた彼も、休むべきだ。


 さて、とエレンは村人が持ってきてくれた薬箱を抱え、ベッドに近づく。

 毛布を被ったその人からは、微かな息づかいが聞こえてくる。まだ、生きている。


「……ミーシャ」

「……え、れん……?」


 もぞり、と掛け布団が動き、頭まですっ込んでいた男――ミハイルが振り返った。


 一体どんな怪我の仕方をしたのだろうか、彼の灰色の髪には黒ずんだ血が固まっており、青紫色の唇の端にも血の塊が付いている。

 顔はまだましなようだが、被った毛布の真ん中あたりに赤い染みが付いていることから、腹部の負傷がひどいのだと分かる。


 エレンは歩み寄って、問答無用で毛布を引っぺがし――その有様に、意識が飛びそうになった。


 彼の裸の胸には雑に包帯が巻かれており、そこが濃い赤色に染まっている。包帯では傷の全てを覆えなかったようで、痛々しい裂傷が肩や腹部にまで続いているのが分かった。

 これだけの怪我を負いながらまだ生きていることの方が、奇跡なのかもしれない。


 ミハイルは虚ろな目でエレンを見、辛そうに歯を食いしばった。


「……俺は、死ぬ前に、幻を、見ているのか。エレンが、いる……」

「幻じゃないし、あなたは死なない」

「……やめて、くれ。もう、死なせて、くれ……」

「却下します」


 言いながら、エレンは震える体に鞭打って薬箱を開く。そしてまずは事前に作っておいた自分用の体力回復・体温上昇効果のある薬を飲み、ミハイル用の薬の調合に向けて薬を選んだ。


 化膿止め、体力回復、保温、失った血の早期回復――今のミハイルの状態に効果的だろうものを選び、小さな瓶に入ったそれらの液体薬を慎重に乳鉢の中に入れ、軟膏を作る。


 だがミハイルは力なく首を横に振り、震える手でエレンの肩を掴んだ。


「やめ、ろ。もう、いい。俺は、死にたい。死ぬべき、なんだ」

「私は、あなたが今死ぬべきだとは思わない」

「……ちが、う。今、死ねば……おまえの、ために、なる……」


 ぴくり、と乳棒を握るエレンの手が震える。


「……私のためになる?」

「……俺が、死んだら、おまえは……今度こそ、幸せに、なれるから……」

「はい、お静かに」


 ぺちん、とミハイルの口を片手で覆い、右手だけで器用に軟膏を混ぜて魔力を注ぐ。

 そうして完成したきらきら輝く軟膏を指ですくい上げて、ミハイルの傷口を覗きこんだ。包帯は、今はまだ無理に剥がさない方がいいだろう。


 エレンが容赦なく軟膏を胸と腹に塗りつけると、一言では形容しがたい悲鳴が上がった。

「やめろ」とうわごとのように呟くミハイルの髪を優しく撫でながら、エレンは作成した軟膏を全て傷口に塗り、軟膏と血でべたつく手をタオルで拭いた。


 ひとまず軟膏は塗ったので、後は同じような効果のある液体薬を作って飲ませる必要がある。


 軟膏がしみるのか、ミハイルはそれまでの拒絶の言葉を言うこともなくうめいている。その間にエレンは真顔で薬を練り、魔力を加え、とろりとした少量の飲み薬を調合した。


 いつもカミラに作っているものと違い、とにかく多くの効果が早く得られるようにしているので――間違いなく、ものすごくまずい。だが、下手に味付けをして効果を落とすよりはましだ。


 淡い緑色に光る薬を試験管からグラスに移し、ミハイルの方を見る。


「できた。……はい、ミハイル。口を開けて」

「……」

「ミハイル」


 目を瞑って口を閉ざすミハイルの頬をぺちぺちと叩き、催促する。


 正直、エレンの体もそろそろ限界だ。なんとか軟膏も飲み薬も無事に調合できたが、ともすればふっと意識が吹っ飛んでしまいそうだ。


 そうならないのはひとえに、目の前にいる夫を助けたいと思っているから。


「ミーシャ。……私は、あなたに生きてほしい」

「……」

「もっとおしゃべりがしたいし、一緒に色々なところに行きたい。……夫婦として、あなたともっとたくさんのことをしたい。あなたに、死んでほしくない」

「……っ」

「ミーシャ」


 生きて。


 ミハイルの目が、そうっと開く。

 その拍子に目尻からこぼれ落ちたのは、透明な――しかし流れる途中で血の塊に触れて赤く染まっていった、涙。


 それは、何故なにゆえの涙だったのか。それを聞くためにも、エレンは彼に生きてほしい。

 辛いことがあるのなら、言ってほしい。

 一緒に幸せになる道を、考えてほしい。


 沈黙の末、ミハイルはおずおず口を開いた。だが急いで彼の口に薬を流し込もうとしても、唇の端から流れてしまう。


 ……迷っている場合ではない。

 エレンは思いきって、グラスの中身を煽った。とろりとした感触が口内に溢れ――


(……臭っ! まずっ! えぐっ! 気持ち悪っ! 苦っ!?)


 想像を超える味に目を剥いたが、おかげで意識ははっきりした。


 そのまま、ぼんやりするミハイルの上に覆い被さって、薄く開いた彼の唇に自分のそれを重ね、口の中のものを彼の口内に流し込んだ。


 少しでも吸収しやすいよう、ただ吐き出すのではなく舌を使って歯の裏や口蓋に塗りつけ、舌を刺激して唾液の分泌も促す。

 何度か吐血したのか、彼の口の中からはほんのり血の香りがしたが、やがてあのえぐい臭いが届いたようで身もだえし始めた。


「んっ……だめ、吐かないで。ちゃんと飲んで、口の中を舐めて……」


 唇を離し、吐こうとするミハイルの両頬を無理矢理押さえる。

 彼の震える手がエレンの腕を掴んでぎりぎり絞めるが、こちらとて手加減はしない。


(ミハイル……ミーシャ……生きて)


『リュドミラがどんな場所か、気になるか? それならこの戦いが終わった後、遊びに来てくれ。おまえが来るのなら、歓迎しよう』


 三年前、小川の側で笑うミハイルの声が脳裏に蘇る。


 しばらくの間抵抗していたミハイルだが、やがてぱたりと腕が降ろされた。

 飲み薬に睡眠効果のある薬草も入れていたからか、次第に静かな寝息が聞こえてくる。


(……きっと、ミハイルは、大丈夫)


 そう思うとどっと疲れが押し寄せてきて、立ち上がることさえできなくなった。


 カン、とグラスが落ちる音にさえ反応できず、エレンはミハイルの足元に倒れ込むと、そのまま意識を失った。

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