27 謝罪の意味①

 エレンは、少しだけ惚(ほう)けていた。


「……エレン?」

「っは、はい! 何でしょうか、カミラ様!?」

「いえ、何かあるわけじゃないけど……ぼんやりしているようだったから」


 どうやらカミラの前で薬を調合している間に、意識を飛ばしてしまっていたようだ。

 仕事中だというのに考えていたのは、ミハイルのこと。


(専属魔法薬師失格だ……! 集中しないと……!)


 一応今は薬を練っているだけなので、少々ぼうっとしていても問題なく調合できる。だが仕事中に現を抜かしていたのは恥ずべきことで、エレンは顔を赤くして謝った。


「……申し訳ありません。集中を欠いておりました」

「ま、そういうこともあるわよね。……で? その原因は、何? まさか、会合で議題に挙げるべき件じゃないかしら?」


 すんなり許してくれたと思ったら、カミラは目を輝かせて詰め寄ってきた。今日は朝から咳が出るというので咳止め薬を調合していたのだが、少々体調が悪くてもその手の話に対する関心は失せないようだ。


 会合の議題に挙げるべき件――つまり、ミハイルとの仲についてではないか、と問うているのだ。

 まさにそのとおりでエレンが「……そう、です」と認めると、カミラは手を打って満面の笑みになった。


「やっぱりそうなのね! この前、一緒にお出かけしたって言っていたけれど……やっぱりそのこと? ふっと思い出すくらい、情熱的な時間を過ごしたの?」

「そっ、そういうほどではありません!」

「それは聞き逃せないな。エレン、いくら愛する夫君が相手とはいえ、屋外で盛り上がるのはどうかと……」

「そういうのじゃないからね、アリソン!?」


 エレンたちの中で最年長のアリソンにからかわれてかっとするが、カミラもアリソンも微笑むばかりだ。


(本当に、そういうのじゃないのに! だいたい私たち、キスさえしていないし……)


 そう。ミハイルは、キスさえしてくれないのだ。


 してくれない、というのは語弊があるかもしれない。エレンからねだって却下されたわけではないし、ただそういう機会が今までなかっただけだ。

 いくら「恋人から始めましょう」な夫婦とはいえ、結婚して一ヶ月以上経つのにキスをしないというのは、珍しいことかもしれない。


 少なくとも、エレンとミハイルは恋愛結婚だったと皆に周知させる必要がある。だからわざわざ「キスもまだです」と暴露するべきではないし、かといって焦る必要もないとエレンは考えている。


(まあ、もしキスされたら……嬉しいとは思うけれど、恥ずかしくて、ミハイルの頬を叩いちゃうかもしれないし)


「ふーん……そう。でも何にしても、エレンたちもうまくいっているようならよかったわ」


 そう言うカミラはここ最近、ずっと幸せそうだ。


 少し前の雨の日に騎士団詰め所に行った際、エレンは思いきって王太子にカミラの気持ちを伝えた。

 その効果だろうか、王太子は以前よりも積極的にカミラを誘い、顔を真っ赤にしながらも「君のことを慕っている」「喜ぶ顔が見たい」「もっと話をしたい」と希望を言ってくれるようになったそうだ。


 なお、そのときエレンは席を外していたので後になって知ったのだが、メイドのモニークとカレン曰く、「中庭で王太子殿下がカミラ様にキスしていました」とのことだ。


 まさか年下未成年夫婦に先を越されているとは思っていなくて、エレンは苦笑してしまったが、主君がとても嬉しそうなのでよしとした。


 本日のカミラは体調を考慮して、乗馬やダンスなどの授業を延期し座学に集中することになった。夕方まではエレンも別室で待機してカミラの体調をチェックし、夕方に念のためもう一度魔法薬を調合してから離宮を辞する。


(……あ、もう結構雪が積もってる)


 外に出ると既に中庭が白く染まっており、エレンはマフラーをきゅっと寄せて白い息を吐き出した。


 今年初の雪は、昨日の夕方から降り始めた。今朝までははらりはらりと降る程度だったのだがカミラの座学中に少しずつ勢いを強め、今ではブーツのヒール部分が沈むくらいまで積もっている。


(ミハイルは、年によっては家が埋まるくらいまで積もるって言っていたけど……本当なのかな?)


 雪国らしくリュドミラ王城もそれなりの工夫はされており、雪が降っても掻き出しやすいような造りになっている。また魔道士たちが雪を溶かし、蒸発させ、人々が生活に困らないようにしてくれるという。

 少なくとも王城や城下町の付近はきちんと魔道士たちが警備してくれるので、巣ごもり状態を余儀なくさせられるほどでないそうで、エレンもほっとした。


 何にしてもこれからますます寒くなるそうなので、冬支度は必要だ。今も毛皮付きのコートや分厚いドレスなどは持っているが、念のため今度の休日に仕立屋に行き、下着などから買い直した方がいいかもしれない。


 そんなことを考えながら歩いていたエレンは、騎士団詰め所の方で見慣れた姿を目にし、ふわりと胸が温かくなるのを感じた。

 まさか、ここで出会えるとは。


「ミーシャ!」

「……エレンか?」


 ミハイルが振り返る。荷物を持っていることからこれから帰宅することが分かって、少しだけ期待してしまう。


 エレンは雪の中歩いていこうとしたが、ミハイルが手の仕草で「待った」を掛け、彼の方からさくさくと雪を踏んでこちらに来てくれた。

 エレンでは一歩一歩歩くのにも手間取りそうな足元だというのに、ミハイルの足取りは軽やかだ。


「おまえも仕事が終わったのか?」

「ええ。ミーシャもなら、一緒に帰らない?」

「……ああ、そうだな。だが……少し、聖堂に寄りたい。エレオノーラ様にお渡しするものがあるんだ」


 そう言ってミハイルは、コートの胸元から手紙のようなものを取り出した。


「……お手紙?」

「騎士団長から、エレオノーラ様あての手紙だ。別に郵便係に頼んでもいいのだが、俺はエレオノーラ様とも面識があるから受けることにした」

「そういうことね。それじゃあ、私も一緒に行っていい? あの聖堂、前は通っても入ったことはなくて」

「ああ、おまえさえよければ。……おまえも結婚で改宗したことになっているからな。リュドミラ教会はエンフィールドの聖女神教ほど熱心ではないのだが、顔を見せるくらいはした方がいいだろう」


 ミハイルの言うように、リュドミラ教会は聖女神教のように毎月決まった日に集会が開かれたりはしない。

 リュドミラの者なら全員リュドミラ教会に属しているが、信仰の度合いは人によってかなり違い、「一応リュドミラ教会だけど何もしない」という人もいるくらいらしい。


 そういうことでエレンはミハイルと並び、王城の隅にある聖堂へ向かった。


 エレオノーラはカヴェーリン公が存命の頃は兄妹で城下町の屋敷で暮らしていたそうだが、兄の死後は遺産の相続も放棄し、聖堂の客室で暮らしている。

 エレンも今まで何度か、カミラの授業を終えたエレオノーラを聖堂前まで送り、ついでにおしゃべりもしていたので、彼女に会いに行くのは全く気にならなかった。


 聖堂前の雪は、既に少し乱れている。ミハイルが両開きのドアを開けた先は、天井の高い礼拝の間だった。

 聖女神教の教会は参拝客用に長いすが置かれていたが、リュドミラ教会には椅子がない。代わりに床の上に分厚いマットが敷かれており、先客らしい十名くらいの礼拝者たちがその上に座っていた。


「礼拝者は靴を脱ぎ、マットの上に座って祈りを捧げるんだ」


 ミハイルが小声で教えてくれたので、なるほど、と思いながらエレンは広間を見渡した。


 エンフィールドの教会のようなステンドグラスはなく、高い天井から立派なシャンデリアがぶら下がっている。

 窓がなく、まともな光源がシャンデリアだけなので広間全体が薄暗くて、不気味でありながら神聖な空気を孕んでいた。


 広間の奥、祭壇の上には、聖女神教とは全く違う神像が据えられている。ぱっと見ただけでもそれが男神であることが分かり、抜き身の剣を構えている。

 元々リュドミラは戦闘民族だったと言われているので、この勇ましい男性を神として崇めているというのも納得できる話だ。


 出迎えた下級神官にミハイルが用件を言うと、間もなく黒いドレスのエレオノーラが出てきた。

 彼女はミハイルの隣にいるエレンを見ると少し意外そうに目を丸くしたが、すぐに微笑んだ。


「まあ……ご夫婦でお越しくださるなんて、嬉しいことです」

「偶然、騎士団詰め所の前で出会ったもので。……今日はよく冷えますが、エレオノーラ様はお変わりないでしょうか」


 普段エレンと接するときとは全く違う丁寧な言葉でミハイルが尋ねると、エレオノーラは笑って頷いた。


「お気遣いに感謝しますが、わたくしはリュドミラで生まれ育ちました。わたくしより、エンフィールド出身の奥方の方を大切になさってください」

「……かしこまりました」


 ミハイルは懐から手紙を出し、騎士団長からの言付けを伝えているようだ。

 エレオノーラも真剣な顔になったので、二人の邪魔をしないようにとエレンは少し離れ、聖堂内を見てみることにした。

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