41 エレンの生きる場所

 冬が過ぎると徐々に気温が高くなり、一年を通して寒冷なリュドミラの大地にも春が訪れる。

 リュドミラでも北の山脈の頂は一年中雪を被っているが、このあたりは既に春の気配が濃くなっており、ぽつぽつと小さな草の芽も生え始めていた。


「風が優しいね」


 エレンが呟くと、彼女を馬の鞍の前に乗せていたミハイルが頷いた気配がする。


「そうだな。……おまえはまだよく分からないかもしれないが、冬と春では風の匂いが全く違う。この匂いで、俺たちは春を実感するんだ」

「そっか。……それなら私ももう十年くらいここで暮らせば、リュドミラの春の匂いが分かるようになるかな?」

「ああ、そうかもしれないな」


 難なく言葉を交わせる程度に馬は速度を落としているので、エレンはきょろきょろとあたりの風景を見てみた。


 ミハイルの操る馬は、緩やかな斜面を降りている。いくつも折り重なるように続く丘の向こうに小さな集落が見えるくらいで、都会の喧噪とはほど遠い野原だ。


 数ヶ月までは白く染められていたこのあたりも草木が生え始め、短い夏を迎える頃には様々な花が咲くのだという。


「それで……ミーシェニカ。目的地には、いつ着くの?」


 今日はエレンもミハイルも休みだったので、ミハイルから「見せたいものがある」と誘われて遠乗りに出かけた。


 前回、冬になる前に出かけた際は王都からそれほど離れていない小川が目的地だったが、今回のミハイルは具体的な目的地や到着予定時間を言わず、馬を走らせていたのだ。


「いつ……というのは、断言しにくい」

「まさか野宿することにはならないよね」

「それは安心しろ。まあ、野宿するとなっても俺がおまえを抱きしめて寝るから、凍えることはない」

「……でもお腹が空くだろうから、却下」

「はは、確かにそうだな。晩飯までには帰れるようにする」


 ぽんぽんとエレンの肩を叩いたミハイルだが、「……あ、あそこだ」と小さく呟き、馬を止めた。どうやらそうこうしている間に、「見せたいもの」のある場所まで近づいていたようだ。


 馬から下ろされたエレンは、足元を見ながら歩いているミハイルについていった。


「何を探しているの? というか、『見せたいもの』って結局何なの?」

「すぐ見つかる。……あ、やっぱり、あった」


 ミハイルはしゃがむと、「これ、見てみろ」とエレンを誘った。


 彼の隣に並んだエレンが見たのは、小さな花だった。紫色の五枚の花弁を持ち、身を寄せ合うようにしてひっそりと群れ咲いている。

 ちょうど手前にある石の影になっていたのでエレンは、言われるまでこの花の存在に気付かなかった。


「あ、可愛い花。……あれ、これ、見たことが……?」

「ああ、秋の終わりにも贈ったな。……『春を告げる星』の名を持つ、ラリサだ」


 ミハイルに言われ、エレンもはっきり思い出した。


 ミハイルが書いてくれた手紙に添えられていた、一輪の花。枯れてしまうのがもったいなくてフェドーシャの魔法で長持ちするようにしてもらい、しばらくの間飾っていたのだ。


 ラリサは春に咲くものと秋に咲くものがあるが、今見つけたのは前回の秋ラリサではなく春ラリサ。

 細い花弁が五枚で星形になっており、真冬の厳しい寒さを越えた先の春に咲くことから、「春を告げる星」と呼ばれているという。


「そっか、やっぱりこんなふうに咲いていたんだね」

「ああ。……温かくなったら、おまえに春ラリサの花を見せたいと思っていた」

「そういうことだったのね。ありがとう。ラリサは私にとっても思い出の花だから、嬉しいよ」

「思い出、って……俺が贈ったからか?」

「当たり前でしょう」


 つんつんと紫色の花を指で撫でながら、エレンは言う。


「あのときのあなたはまだ、私と本当の夫婦になるつもりはなかったようだった。……でも、きっとラリサが私の心にも春を届けてくれるはずだ、って思っていたの」

「……」

「まあ結局、春を呼んでくれたのはミーシェニカだったけどね」

「……おまえも、同じだ」


 顔を上げると、ミハイルが真剣な目でエレンを見ていた。


「おまえも、俺に春を届けてくれた。おまえが俺をひっぱたいて、諭して、俺の決めたことを肯定してくれたから、俺は冬を越えられた。そうでなければ俺は……冬を越すことなく、本当に死んでいただろうからな」

「……うん」


 この春を迎えるまでに、色々なことがあった。


 去年の夏にはカミラの輿入れが決まり、秋にリュドミラに到着した。

 ミハイルと再会し、彼と結婚生活を送ったのが、冬の中頃。

 彼の真意を知って共に真冬を越し、エレオノーラの絡んだ紆余曲折の末に春がやってきた。


 エレオノーラがエレンに忘却の魔法を掛けたと聞いたときには、驚いた。だがその頃の心のもやもやが魔法の反動だったと分かり、魔法を解除されたエレンは――エレオノーラが「ミーシェニカ」の名をことさら特別視していたのだと理解した。


 ……理解はしたが、だからといって許すわけではない。

 優しくしてくれたエレオノーラが抱えていた闇に、同情はしてもいいが共感はしてはならない、とカミラにも言われた。


 エレオノーラはエレオノーラが受け入れた形で、罪を償うべきだ。


 ミハイルはふと眉根を寄せ、小さなため息をついた。


「……本当に。おまえと再会してからというものの、俺はおまえに格好悪いところばかり見られている気がするな」

「そうかな? でもそうだとしても逆に、格好つければ万事うまくいくってわけでもないでしょう?」

「少しくらいは見栄を張りたいものなんだよ。……好きな人の前だったら、いっそう」

「……そ、そう」


 じっと見つめて言われると、エレンも恥ずかしくなってくる。


 そもそもエレンは、この半年ほどのミハイルの様子を格好悪いとは思っていない。

 むしろ、過去に縛られていた彼が立ち直る姿は、文句なしに格好よかった。


 ミハイルは微笑むとその場に座り、そっとエレンの肩を抱いた。

 エレンは抵抗することなくミハイルの肩に身を預け、彼の隣に腰を下ろす。

 ちょうど二人は、南西の方角を見つめる形で座っていた。


「……もう、エンフィールドは春真っ盛りかな」

「そうかもしれないな」

「……女王陛下は、お元気になさっているかな」

「気になるのも仕方ないよな。……いつか、行こうか」

「えっ?」

「エンフィールドに。……これまでは書面のやり取りだけだったから、いずれ俺も女王陛下や王配陛下にご挨拶せねばと思っていたんだ」


 そう囁くミハイルの眼差しは、優しい。

「首刎ね騎士」と呼ばれていた男は今、かつて血濡れの剣を握っていた手でそっとエレンの肩を抱き、優しくエレンの名を呼んでくれる。


「革命戦争のときは慌ただしかったが……実は俺も、おまえが自慢するエンフィールドが気になっていたんだ。夏のくそ暑さや、秋に食べる芋のうまさとかな」

「……そういうの、覚えていたのね」

「ああ、覚えていた。……おまえのことだからな」


 風が、吹いた。


「……これから、色々なところへ行こう。まだリュドミラの風景を見せ足りていないし、エンフィールドのことだって知りたい」

「……うん。もし一緒に行けるようになったら、案内するね。私が生まれ育った町も見せたいし」

「いいな、それ。楽しそうだ」


 二人はくすりと笑いあい、どちらからともなく唇を寄せた。


「……ミーシェニカ」

「うん?」

「これからも、よろしくね」

「……ああ。こちらこそよろしく、エレン」


 こつんと額と額をぶつけあい、指を絡めて笑いあう。


 これから先も、色々なことが起こるかもしれない。


 だがこれからもエレンは魔法薬師としてカミラに仕え、その成長する様を見守る。

 そして夫婦としてミハイルと手を取り合い、一緒に生きていく。


 この、リュドミラの大地で。

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