40 生きる理由②

 ミハイルがはっきりとその名を口にした、途端。

 か細い悲鳴が、大門の方から響いてきた。様子を見ていた騎士たちがざわめき、何事かと悲鳴の上がった方へ駆けていく。


 間もなく、騎士たちに両腕を掴まれて引きずられてきたのは、黒いドレスを纏った儚げな美女――エレオノーラだった。

 今のやり取りの間に外れたのか、いつも被っていた黒い帽子は脱げ落ちており、きれいに結っている髪も一部解けてしまっていた。


 ミハイルに手を引かれ、エレンは何も言わずに大門の方へ戻る。エレオノーラは暴れる気力もないのか、その場にへたり込んでわなわな震えていた。


 魔法で幻影を見せられていたミハイルが、「エレオノーラ様」とはっきり口にした瞬間、エレオノーラは悲鳴を上げた。

 今も彼女は、苦しそうに胸を押さえている


 これはテレンスも教えてくれた、「呪い返し」だ。

 呪いを掛けられた者が術に打ち勝った場合、その反動が術者に返ってくることがある。エレオノーラが胸を押さえているのが、呪い返しを受けたという証拠だ。


(エレオノーラ様が、ミハイルに幻を見せていた……)


 ぎゅっとミハイルの手を握ると彼は頷き、ドレスが湿るのも構わず座り込んでいるエレオノーラの前にしゃがんだ。


「……昨日の夕方、あなたに届け物をしに聖堂に行ってからというものの、俺の体調は優れなくなった。そして……今朝、あなたは俺を呼び出しました。大門付近の教会にいらっしゃるというあなたに会いに行った後から――俺は、ボリス様の姿が見え、声が聞こえるようになりました」

「……」

「幻のボリス様は、周りにいる者を殺せ、『首刎ね騎士』の名にふさわしくあれ、と命じていた。……なぜ、このようなことをなさったのですか」


 ミハイルの言葉は落ち着いており、感情的になっている様子はない。

 皆がざわめく中、ようやく呪い返しの効果が薄れてきたらしいエレオノーラは呆然としている。


 しばらく様子を見ていたエレンはミハイルの手をちょんちょんと突いて解放してもらい、ずっと従騎士に持たせたままだった薬箱を受け取って、中から薄青色の液体の入った瓶を取りだした。


「エレオノーラ様、こちらを召し上がってください」

「……」


 ゆっくり、エレオノーラが顔を上げる。そしてエレンが思ったよりも従順に瓶を受け取ると、こくり、こくりと中身を飲み干した。


 エレンが飲ませたのは魔法薬の中でも基礎的なものである、気持ちを大きくする薬だ。

 いつぞやアドリアンにも作ってやったことのあるものの液体薬版で、魔法による尋問などと違い飲んだ者の精神を傷つけることなく、重い口を開かせることができる、合法的で効果も弱めの自白剤もどきだ。


 エレオノーラはしばし黙っていたが、やがてゆっくり、ミハイルを見上げた。


「……わたくしは……わたくしは、このようなつもりでは、なかったのです」

「……どういうことですか」


「……わたくしはずっと、お兄様の部下として戦うあなたに、憧れていました。お兄様が死してもなお、あなたはお兄様の遺志を継いで勇猛に戦ってらっしゃった。……『首刎ね騎士』は、我が国の誇りでした。あなたを迷わせるつもりはなかったのです。少し、少しだけお兄様のお姿を見せたら、かつてのあなたに戻ると思って……」


 滑らかに、しかし感情の起伏に乏しい声で語るエレオノーラを、エレンは目を細めて見つめた。


 生きる目的を失い、虚しい心でひたすら旧王国軍の残党を討伐していた、ミハイル。

 彼は苦しみ、迷い、いつ死ねばいいのかと自分の心を傷つけながら、一年間生きてきたのだが――エレオノーラは、そんな彼のことを好ましく思っていた。


(そういえば前、エレオノーラ様はそういうことをおっしゃっていた……)


『もし彼から牙が抜かれた場合……残された人間ははたしてミハイル・グストフといえるのだろうか、とも思っているのです』


 エレオノーラからすると、無茶な戦いをやめたミハイルはまさに、「牙を抜かれた獣」状態だったのだろう。


 ミハイルに亡き兄の幻影を重ねるエレオノーラは、「首刎ね」をやめたミハイルに、失望した。

 これではミハイルではない、と考えた。


 だから――兄の幻を見せた。


 つい、とミハイルの眉が上がり、一段と声が低くなった。


「……それが、あなたの目的だったと?」

「……わたくしは! かつてのように、勇敢なあなたに戻ってもらいたかった! 戦うことが喜びならば……エレンさんと結婚するまでのあなたに戻れば、あなたも幸せになれるのだと思って……」

「それは、違います。……俺は楽しくて敵の首を刎ねていたわけではないし、かつての自分が幸せだったとは全く思いません」


 ミハイルの冷たい言葉に、エレオノーラは顔を上げた。

 ぱちぱちとまばたきする彼女にとって……ミハイルの今の言葉はまさに、青天の霹靂だったのだろう。


「あなたは、勘違いをなさっている。俺のことも……ボリス様のことも」

「っ……お兄様のことを、知ったかのように……!」

「ええ、確かに実妹であるあなたと比べれば、俺がボリス様と過ごした時間は短かったでしょう。……しかし」


 そこでミハイルは顔を上げ、何もない雪の上――おそらく先ほどまでボリスの幻が立っていたのだろう箇所を、寂しげな眼差しで見つめた。


「……あの方は一度たりとも俺たちに、『敵を殺せ』と命じたことはありません。奇しくもあなたが見せた幻により、俺も思い出せました。……ボリス様の命令はいつも、『大切な者のために戦え』、だったと」

「……え」

「だから昔の俺は、ボリス様のために戦っていました。そして今も戦うとしたら、この手で守りたい者のために戦いたいのです」


 ミハイルの言葉に、エレオノーラの目から光が失われる。

 傍らにいた騎士にぐったりともたれかかった彼女はやがて、嗚咽を漏らし始めた。


(エレオノーラ様にとって、カヴェーリン公もミハイルも、憧れの対象だった)


 だが、彼女は兄やミハイルたちの気持ちを、真には理解していなかった。


 こうすれば、亡き兄は喜ぶはず。

 こうすれば、ミハイルは幸せになれるはず。


 彼女にとってミハイルに兄の幻を見せたのは、完全な善意だったのかもしれない。

 だが――それはかえってミハイルを苦しめた。


 なぜ戦うのか。

 なぜ戦わないのか。


 その理由を知ることなく勝手な幻想をミハイルに押しつけたエレオノーラは、今になって、自分の行為が間違っていたと気付いたのだろう。


 騎士たちが、エレオノーラを連れていく。

 その背中はとても小さくて、頼りなくて……見ているエレンの胸中は、複雑だ。


「……エレン」


 呼ばれて、隣を見る。

 立ち上がったミハイルはエレンを見、ぽん、と肩に手を置いた。


「……約束、守ってくれてありがとう」

「……え、どれ?」

「殴ってでも正気に戻す、というやつだ。エレオノーラ様の前では偉そうに言ったが……おまえが踏み込んでくれなければ、俺はボリス様の幻影を振り切ることはできなかっただろうし、イーゴリのとっさの判断がなければおまえを斬っていたかもしれない」


 肩を落としたミハイルが言うので、エレンはふるふると首を横に振った。


「あなたは魔力を持たないから、私たちよりも魔法に掛かりやすいのは、仕方のないことだもの。それに……確かに私は気付け薬をぶちまけたけど、最終的に呪いを弾けるかどうかは本人の精神力が問題だし……あなたはちゃんと、自分の気持ちを言えたじゃない」

「……そうか、あのヒリヒリする薬は気付け薬だったんだな。おかげで目が覚めた」


 ミハイルは苦笑すると、エレンと並んで歩きだした。


(ミハイルもエレオノーラ様も、カヴェーリン公の死から立ち直れずにいた)


 エレオノーラは、自分の抱く理想と兄の真意との乖離に気付くことなくミハイルに幻想を押しつけ、ミハイルは死者の言葉を騙った幻に打ち勝つことができた。


「……ボリス様は、亡くなった。だから俺はあの方のことを思い出にはしても、あの方の言葉を勝手に想像して生きる理由にしたり、戦う理由にしたりはしない」

「うん。もちろん、私との結婚を死ぬ理由にもしないよね?」

「ああ。……俺がしたいことは、俺が決める」


 ひゅう、と冷たいリュドミラの風が吹く。

 だが知らぬうちに固く繋がれていた二人の手は、どちらも温かかった。












 カヴェーリン公・ボリスの妹であるエレオノーラ・アドロフはその後、国王のもとに連行された。


 そうして彼女に下されたのは――髪を切り、身分を捨て、リュドミラ最北端にある修道院での終身勤務という、リュドミラの女性貴族であれば誰もが嫌がり、そこに行くくらいなら自害した方がましだとまで言われる処罰だった。


 彼女はミハイル・グストフに対して兄の幻影を見せたことに加え、その妻であるエレン・グストフに簡易的なものではあるが忘却の魔法も掛けたことを自白した。


 どちらの魔法も、用途によっては人の精神を崩壊させることもあるため、行使した際の処罰は非常に重くなる。だがエレオノーラは一切抵抗せずに全ての処分を受け、修道院で罪を償うことを約束し、王都から追放された。


 エレオノーラが王都に戻ることは二度となく、彼女は一生を極北の修道院で過ごし、その骨を北の大地に埋めることになったという。

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