39 生きる理由①

 エレンとほぼ同時に国王や王太子のもとにも異変は伝わっていたようで、「大門付近で勤務中の騎士団の補助をせよ」という命令がエレンや騎士団員に下った。

 行き先が王都から離れた村だった前回と違い、すぐそこだったことが今回は幸運だったようだ。


(でも……どういうこと? ミハイルの様子がおかしい、助けて、って……)


 薬箱を持って城門前に向かったエレンを馬上に引き上げてくれたのは、エレンも何度か顔を見たことのある騎士だった。

「参りましょう、グストフ夫人」と頼もしく言う彼は鞍の前に乗せたエレンを抱えると、他の騎士たちと共に城門を飛び出した。


 城門を出て石畳の道を真っ直ぐ南下した先にある大門までは、非常に緩やかな下りの勾配になっている。

 ただ歩くだけならほとんど気にならない程度の坂なのだが、ここから見ると、大門付近で悶着が起きているのがすぐに分かった。


(ミハイル……)


 ぎゅっと鞍を掴み、エレンはひたすら、夫や騎士たちの無事を祈った。


 数分で騎士たちは大門前に到着した――が、逃げまどう人々に邪魔され、なかなか目的地まではたどり着けそうにない。


「騎士団だ! 無関係者は、退けてくれ!」

「グストフ夫人、この先は歩いて参るのがよろしいようです」

「ええ、分かりました」


 確かに、馬で進めば無関係者を蹴り飛ばすかもしれないし……何かあったときに、とっさに身をかわしたり物陰に隠れたりすることもできなくなる。移動力は落ちたとしても、身軽な徒歩の方がいいだろう。


 エレンは馬から下り、大事な薬箱は従騎士の少年に渡した。

 そうして逃げる人々の間を縫うように大門をくぐり――その場の異様な光景に、息を呑んだ。


 白い舞台には、戦闘の跡があった。今日は新人騎士の育成が目的だということだから、ミハイルたちに引率された若手騎士がごろつき相手に一生懸命戦ったのだろう、ということは分かる。


 だが、無事に任務を終えたにしては、様子がおかしい。というのも、商人に扮した新人騎士たちは大門付近でへたり込んでおり、彼らを守るように騎士が立ちはだかっている。


 一体彼らが、何に警戒しているのかというと――


「……あっ、奥様!」

「あなたは……イーゴリ」


 これまでにもエレンのもとに蝶を送り、ミハイルとのやり取りを手伝ってくれた青年騎士が駆けてきた。

 彼はエレンを物陰に連れていきながら、早口で言う。


「本当にすみません、奥様にこのような場面を見せることになり……」

「いいの、です。それより……」


 エレンは、物陰からそっと外を見る。


 剣を持つ手をだらんと垂らし、少し俯いた姿勢で立ち尽くすのは――紛れもなく、エレンの夫だ。

 乱れた雪の上に立つミハイルの体はゆらゆら揺れており、騎士の仲間が近づこうとすると持っていた剣を振りかぶろうとする。


「……奥様もご存じかもしれませんが、今日はよほどのことがない限り我々が剣を抜くこともなかったのですが……遅れて合流したミハイル様はどうも様子がおかしく、既に討伐された敵ではなく新人騎士たちに斬りかかろうとして――」

「……遅れて合流?」

「はい。どうやら約束があったようで、ミハイル様は先に――」


 イーゴリの言葉をかき消すように、低いうなり声が聞こえた。

 それまでは黙っていたミハイルがうめきながら胸を押さえ、剣を地面に突き刺して喘いでいた。


「っ……ミハイル! ミーシェニカ!」

「奥様!?」


 イーゴリの手を振り払い、エレンは駆けだした。

 声が聞こえたのかミハイルがゆっくり顔を上げ、感情の読めない眼差しでエレンを見てくる。


 彼の目は、エレンを見てはいない。

 なぜなら――エレンを見た彼が「ボリスさま」と呟いたことが、唇の動きで分かったからだ。


 ……いや、正確には、エレンの方向さえ見ていなかった。

 彼の目は、何も存在しない白い雪を見つめていた。


(……この気配は)


 魔道士としての才覚を伸ばせなかったエレンでも、ミハイルが見つめる先のあたりからぞわりとするような力が立ち上っているのを感じ、微かに身を震わせた。


 今のミハイルはおそらく、魔法によってボリスの幻を見せられている。幻の彼が何を言っているのかは分からないが……「部下」に何か指示を出しているのだろう。


 エレンは立ち止まり、あらぬ方向を見るミハイルをじっと見守った。


「……ミーシャ。ミーシェニカ」

「っ……!」


 略称では反応しなかったミハイルが、愛称で呼ばれた途端、ぎらりと目を光らせて剣を雪の中から引き抜いた。


 彼の剣の先が捉えているのは――エレンの、胸元。


「奥様!」


 背後からイーゴリの声がし、エレンの目の前が一瞬滲むように揺らいだ。

 直後、ふらつきながら振り下ろされたミハイルの剣が、目に見えない壁のようなものに弾かれ、彼は数歩下がった。


「くっ……う……!」

「ミーシャ、気を確かに!」


 どうやらイーゴリが魔法で作った壁で剣を弾かれたときに、体に衝撃が走ったようだ。

 再び剣を雪に突き刺して体重を支えるミハイルは、辛そうに顔を歪めてエレンと――おそらくボリスの幻がいるのだろう場所を、交互に見ていた。


 ミハイルが、迷っている。


「奥様……」

「大丈夫です」


 エレンは駆けてこようとするイーゴリたちを止めると、さくさくと雪を踏みしめて歩きだした。

 ミハイルは、浅く喘ぎながらエレンを見上げている。


(……ミハイル)


「大丈夫だよ、ミーシャ。約束、したよね」


 もしミハイルが馬鹿なことをしたら――ぶん殴ってでも、正気に戻してくれ、と。


 今のミハイルは、自分の意思でエレンを攻撃したのではない。

 エレンと共に生きる未来を見たいと言ってくれた彼が、ボリスの幻に踊らされることがあってはならない。


 エレンは、微笑む。

 そして、ゆっくりミハイルに歩み寄りながらウエストポーチの中を探り――


「おりゃっ!」

「っ!?」


 片手で蓋を開けた瓶の中身を、思いっきりミハイルにぶちまけた。ほぼ透明だが魔法薬の証しである微かな光の粉を纏うそれは、飛距離が足らずに半分くらいは足元に落ちてしまった。


 だが残りの半分はかろうじてミハイルの顔に掛かり、不意打ち攻撃を食らったミハイルの体がふらついて雪の中に片膝をついた。


 今、エレンがぶちまけたのは気付け薬の一種だ。ミハイルが魔法で幻を見せられているのならば根本的な解決にはならないのだが、すっと鼻に通る香りはミハイルの自我を取り戻してくれる。


 魔法を解きたいのなら、術者をシメるのが一番だ。

 だが――ミハイルの精神力が魔法に勝れば、幻を打ち払うこともできる。


(私は、魔道士にはなれなかった)


 だが、叔父は教えてくれた。


 魔道士にはなれなくても、エレンの作る魔法薬は人の心を強くすることができる。

 そうすれば、魔力を持たない者でも魔法に打ち勝つ力を付けさせられるのだ、と。


「ミーシェニカ」


 エレンは、夫の愛称を唇に乗せた。


 薬を浴びて頭をフラフラさせていたミハイルは顔を上げ――エレンと、その隣に何もない空間を交互に見始めた。


「……ボリス、様。しかし、俺は……」

「ミーシェニカ……」


 思いきって、そっとミハイルの肩に触れる。


 途端、ざっと顔を上げたミハイルは一瞬、獲物に食らいつく直前の獣のようにぎらりと目を輝かせた――が、エレンがじっと見つめていると迷うように視線を逸らした。


「ミーシェニカ、聞いて。……もう、カヴェーリン公はいらっしゃらない。一年前に、亡くなっている」

「……」

「ミハイル。あなたは、自分と一緒に生きてくれ、って私に言ったよね?」

「……言っ、た」

「うん。それじゃあそのときの言葉、ちゃんと守ってね」


 ミハイルの瞳が揺れ、彼は目を伏せた。


「……エ、レン」

「はい」

「……すまない。俺は、また、おまえを……」

「はい、それは言わないの」


 つん、とミハイルの額を突いたエレンははっきり言った。

 先ほど彼はエレンを攻撃しようとしたが、それは幻のせいだ。


 魔法の適性がないミハイルは、エレンたちよりもずっと魔法の影響を受けやすい。

 先ほどの攻撃が彼の本心でないのはエレンも分かっているし……むしろ、それほど強い魔法を受けながらも立ち上がった彼は、十分強い心を持っている。


 エレンを見上げたミハイルはまばたきし、「……手を」と掠れた声で言う。


 ミハイルに請われ、エレンは彼の左手をぎゅっと握った。

 頑丈なグローブ越しに感じる、硬い皮膚の感触と熱い体温。


(大丈夫。あなたは、立ち上がれる)


 ぽたり、とミハイルの前髪から、先ほどぶちまけた魔法薬の滴が垂れる。

 そのとき、ミハイルの体にふわりと魔法の気配が漂い、エレンは眉根を潜めた、が。


「……ふざけるな。何が……周りの者を殲滅しろ、だ。ボリス様は……もし生きてらっしゃったとしても、そんな馬鹿なことは、決して命じられない……!」


 低い声と共に、ミハイルはまぶたを開いた。

 その瞳にはもう、迷いは浮かんでいない。


 エレンと共に、ミハイルは立ち上がった。それまで抜いたままだった剣を鞘に収め、エレンの少し右側の空間を睨み付ける。


「……俺はもう、自分の意志で生きると決めた。ボリス様は、既に亡くなっている。……いくらあなたとはいえ、ボリス様の言葉を騙ることは許さない――エレオノーラ様」

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