38 急転

 その日、朝から小さな予兆はあった。


「……ミーシャ、やっぱり顔色がよくないよ」

「……大丈夫だ」


 朝からこのやり取りを、既に五回は繰り返している。


 昨夜帰ってきたときからミハイルはどうにも体調が優れないようで、夕食も食べずに寝た。

 一晩寝ればすっきりするだろうと思ったがそうでもないらしく、彼は顔色が悪いままスープとエレンの薬入りの紅茶だけ飲み、のろのろと騎士団服に着替えている。


「ねえ、体調が悪いのならお休みをもらおう? あなたはいつも人一倍頑張っているのだから、お願いすれば絶対に休ませてくれるってば。それに今日は、戦うかもしれないんでしょう?」

「大丈夫だと言っている。……それに、今日俺は極力剣を抜かないつもりだ。……最近王都近辺で現れるごろつきの退治は新人騎士に任せ、俺たちは彼らの補佐をすることになっている。俺が前線に出ることはないから、安心しろ」


 ミハイルの言うように、今日の任務は先日正騎士になったばかりの若手騎士たちの監督兼補佐だった。

 真冬は過ぎ、あと一ヶ月もすれば雪解けを迎える。そのためか、冬の間に食い扶持に困ったならず者たちがどこからともなく湧き、王都の大門付近にある家を襲うようになったというのだ。


 ごろつきが現れる時間に目星はついているので、貧しい商人に扮した新人騎士たちがごろつきにわざと囲まれ、退治する。

 ミハイルたちは少し離れたところで彼らの様子を見守りつつ、一般市民や旅人に被害が及ばないように気を付けるだけだという。


(でも、だからといって顔色が悪い状態で行っても、存分に動けないだろうし……)


「……本当に、大丈夫?」

「ああ。俺も用心する」


 ミハイルは微笑むと仕度の最後として厚手のコートを着て、エレンの手を取って玄関に向かった。


「おまえは今日、夕方まで仕事だったな。今日は俺も早めに戻れるはずだから、一緒に飯を食べよう」

「……うん。もし手が空いたらこの前みたいに、一品だけ作ってみるから」

「お、それじゃあ頑張るしかないな」


 ミハイルは笑うと片腕でエレンを抱き寄せ、額にキスを落とした。


「……行ってくる」

「うん、気を付けていってらっしゃい、ミーシェニカ」


 そう、エレンがいつものように彼の愛称を呼んだ途端。


 ぴくり、とミハイルの腕が震えた。

 だが直後、彼は何もなかったかのようにエレンを離すと、「それじゃあな」と言って出ていった。


(……今、何か変な感じがしたけど)


 ぱたん、と閉まったドアをしばし見つめた後、大きく深呼吸して気分を切り替える。

 エレンも、カミラのもとへ出仕する準備をしなければ。












 エレンがミハイルと少しずつ仲を深めている間に、とうとう仲間の一人が交際相手に求婚されていた。


「よかったわね、キャロリン!」

「ありがとうございます、カミラ様」


 はにかむキャロリンは、一ヶ月ほど前から従騎士と交際している。どうやらその彼が春に正騎士昇格試験を受けるようで、それに合格したら結婚してほしいと言われ、キャロリンも諾の返事をしたそうだ。


 カミラがアドリアンに聞いたところ、その従騎士は非常に真面目な青年で、このまま順調にいけば正騎士昇格試験も合格できるだろうと言われているそうだ。


「ああ……皆、羨ましい! 私も早く、お相手を見つけたいわ!」

「エレンに続き、キャロリンにも春の到来か……」

「本当に、喜ばしいことばかりだわ。お母様たちにも、いい報告ができるわね」


 カミラも嬉しそうに笑っている。


 部下のめでたい話を祝福する彼女だが、そのカミラも最近アドリアンとますます仲睦まじくなっているようだ。

 春にはカミラが一足先に十六歳になり、成人を迎える。その誕生会ではリュドミラの者だけでなくエンフィールドからも多くの客が招かれるし、少なくとも父である王配・テレンスは祝いに来るはずだ。


 アドリアンは夏生まれなので、一瞬ではあるが妃との間に二歳の年の差が生まれてしまうため歯がゆく思うだろうが、愛する妃の誕生日を誰よりも祝ってくれるはずだ。


「それに……その頃にはエレンにも、おめでたい話が来るかもしれないし」

「え? ……。……わ、私たちは、まだ……その……」

「えっ、まだなの?」

「あんなに仲良しなのに?」


 カミラの言葉の意図を察したエレンが慌てて否定すると、皆不思議そうにこちらを見てきた。


「えっと……夫は騎士の習性なのか、隣に他人がいる状態だと熟睡できないらしくて」

「何を言っているの。別に寝なくても――」

「カミラ様」

「っ、こほん。えーっと……まあ、人には人のペースがあるものね!」


 エマの鋭い声でカミラは慌てて言い直し、誤魔化すように笑った。


「でも、私もやっぱり夫婦の色々なことは気になるから……まあ、いずれよろしくね、エレン」

「……は、はい。まあ、その、いずれ……ですね」


 夫婦のあれこれを他人に教えるなんて恥ずかしすぎるが、年若い王太子妃のお付きとしてリュドミラに渡ったからには、こういうことも臣下としてのつとめだと理解している。


(うー……ミハイルは何て言うかな……)


 カミラの視線から逃れようと別方向を見たエレンはふと、テーブルの上に一冊の教本があることに気付いた。


「……あら? あれは確か、エレオノーラ様のご本ではないですか?」

「え? ああ、そうなの。昨日お借りしていて、読み終わったばかりで」

「しかし今日は、エレオノーラ様による講義の予定がございませんので、次回お返ししようということになったのです」

「……そうでしたか」


 エマに説明されたエレンは……そういえば、本来なら今日もエレオノーラの授業があるが、昨日知らせが入って急遽、彼女の方の都合で休みになったのだと思い出す。


(確か、城下町の隅にある小さな教会で、何かご用事があるって……)


 ふと。

 よく分からないが嫌な予感がして、エレンはさっと窓の外を見やった。


 体調の悪いミハイルと、急に講義を休みにしたエレオノーラ。

 どちらも今、城下町の大門付近にいるはず。


(……ううん、偶然。偶然に決まっている)


 偶然以外の何物でもないというのに、なぜかエレンの胸の奥はざわめき、何かを訴えている。

 思い出せ、と、誰かが叫んでいる。


「……エレ――」

「……あら、また蝶だわ」


 カミラの声に被せるように言ったのは、モニークだ。


 彼女は窓の一つに歩み寄ると、鍵を開けた。

 そこからふわりと飛びこんできたのは、もはやおなじみになった魔法の伝言。カミラの部屋にもたびたび伝言が飛んでくるので、メイドたちも特に疑うことなく蝶を室内に招き入れた。


 大きな蝶は真っ直ぐカミラのもとへ飛んでいく――と思いきや、くるりと室内で回転して、エレンの目の前で停止した。


『オクサマニ、デンゴン。イソギ、トテモイソギ』


 蝶が再生するのは、若い男の声。

 これが魔法も得意な騎士であるイーゴリのものであることは、すぐに分かった。


 ……どくん、と心臓が脈打つ。

 皆が見つめる中、蝶は焦った男の声を伝える。


『みはいるサマ、オカシイ。タスケテ、タスケテ。ヨウスガ、オカシイ。タスケテ』

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