37 不安な気持ち

 日中はまださらさらと降るだけだった雪は夜になるにつれて勢いを強め、夕食を終えた頃には外出も不可能なほどの豪雪になっていた。


「すごい雪……」

「旦那様は本日、夜勤でしたね。ご無事だといいのですが」


 食器を下げるフェドーシャに言われ、エレンは頷いた。


 ミハイルは今夜が夜勤の日らしく、宿舎に寝泊まりすると言っていた。この吹雪の中だと悪さをする者も少ないのか、基本的に悪天候の日は緊急招集が掛かりにくいそうだ。

 だから大雪の中を出ていかなければならないことは起こらないだろうが、不安にはなる。


 ……エンフィールドでは豪雪はなかったが、夏に嵐が来ることはあった。

 地方で暮らしていた十年ほど前に、周りの木々がなぎ倒されるほどの嵐が訪れたことがある。その日は偶然、両親も叔母夫妻も出かけており、家にいるのはエレンとカミラだけだった。


 当時五歳程度だったカミラは嵐の音が不安らしくずっと泣いていて、夜もエレンに抱きついて眠った。

 エレンはお姉さんとして強気に振る舞ったが、それでも窓の外でうなる嵐は怖かったし、むしろカミラが泣きついてくれてよかったとさえ思っていた。


(だからかな。天気がすごく悪い日は……心細くなる)


 だが、だからといってフェドーシャに添い寝を頼むわけにはいかない。さらに今日はミハイルもいないので、彼に抱きしめてもらうこともできない。


(……それに、なんだろう。天気が悪いのももちろんだけど、ずっと胸の奥がもやもやする)


 なぜなのかはよく分からない。

 今日帰宅する前に魔法薬研究所に寄った際、その場にいた医師長にも相談した。念のため診察もしてくれたが、「特に異常はない」とのことだった。


 もしかしたら精神的に疲れているのかもしれないから、気持ちを落ち着ける薬を飲んで寝るように、と言われたので、夕食の茶に自作の薬を入れて飲んだ。


 だがそれでも――依然、胸の奥には妙なわだかまりがあった。


(なぜか、ミハイルのことを考えると不安になってくる。胸の奥がざわめいて、無性に怖くなって……)


 今日ミハイルがいれば、勇気を出して少し甘えたかもしれない。

 一緒に寝ることは不可能でも、彼はエレンが寝付くまで側にいてくれたかもしれないし、彼と一緒に過ごすうちに吹雪が止めば、そのまま眠れたかもしれない。


(ミハイル……会いたい……)


 ため息をついた、そのとき。


「……奥様!」

「どうしたの、フェーニャ」


 皿洗いをしていたはずのフェドーシャが、急ぎ足でリビングにやってきた。頭に雪を被っていることから、この吹雪の中彼女が外に出たのだと分かってぎょっとする。


「ちょっと、雪を被ってるわよ! どうしたの!?」

「すみません。しかし、窓の外にこれがいたので……」


 そう言うフェドーシャの手の中から、見覚えのあるものが飛び上がった。

 光り輝くそれ――大きな蝶はふわりと飛び、エレンの前で羽ばたく。


(あ、これって魔法の伝言……?)


『えれん、えれん。みはいるダ』


「えっ、ミーシャ!?」


 蝶がミハイルの声でしゃべりだしたので、エレンはぐっと蝶に耳を近づけ、フェドーシャもはっとして口元を手で覆う。


『キョウ、モウフブキ。トテモ、サムイ。カエレナクテ、スマナイ。アタタカクシテ、ネロ』


「えっ……」


 エレンとフェドーシャがぽかんと見守る間に蝶はもう一度伝言を繰り返すと、ふっとかき消えた。

 二人はしばし、蝶の消えた虚空を見つめていた。


(えっと、それじゃあミハイルは、私を気遣って……)


 ミハイルは、魔法を使えない。

 彼が同僚の騎士に頼んだのか、ミハイルを気遣った騎士の方が申し出たのかは分からないが……彼はわざわざ魔法の蝶に伝言を託し、エレンのことを気遣ってくれた。


(ミハイル……)


 大丈夫だ、とエレンは確信した。

 吹雪が二人の間を阻んでいるが、想いはきちんと繋がっている。


「……よかったですね、奥様」

「……うん」

「旦那様のおっしゃるとおり、今日は温かくして、ゆっくり寝ましょう」

「うん……そうするわ」


 そっと握ってくれたフェドーシャの手を握り返し、エレンは微笑んだ。






 吹雪は、明け方まで続いた。

 だが一人ベッドで丸くなったエレンの耳には、蝶が届けてくれたミハイルの声が残っており……やがて悪夢を見ることもなく、静かな眠りに落ちていった。












 翌日、エレンはカミラ側の都合により昼から出仕することになっていた。

 今朝の分の薬は昨日のうちに処方していたので、大丈夫のはず。だが昨夜はひどい吹雪だったので、体調が優れないようなら昼食の際に新しい薬を作るべきだろう。


(ミハイル……戻ってくるかな)


 普通、夜勤をした次の日は朝に帰宅してから半日休暇となり、場合によっては丸まる一日休み、もし出勤するとしても夕方からになる。

 本日のミハイルの予定は分からないが、少なくとも昼までは一緒にいられる。


(……早く会いたい)


 女主人のそわそわする気持ちはフェドーシャにも筒抜けだったようで、彼女は「旦那様のお帰りが待ち遠しいですね」と微笑み、エレンに温かい紅茶を出してくれた。


 そうして朝食を終え、しばらく経った頃。

 エレンのためにちょくちょく外の様子を見に出てくれていた使用人が「旦那様のお戻りです」と教えてくれたので、エレンは立ち上がって玄関に向かった。後ろの方でフェドーシャが「あっ、上着!」と焦った声を上げているが、振り向いてはいられない。


 ドアが開き、寒そうに身を丸めた夫の姿が見えた途端、エレンは駆けだしていた。


「っ……ミーシャ!」

「ああ、エレ――っと!」


 エレンが飛びついたからか、ミハイルはぎょっとしたように目を見開いた。

 だが彼は片腕で難なくエレンを抱き留めた後、彼女が部屋着のドレスだけで上に何も羽織っていないことに気付いて声を上げる。


「おい、せめてもう一枚着ろ! 室内ならともかく、帰ってきたばかりの俺は冷えているんだ」

「……ごめんなさい。でも、早く、会いたくて……」


 さすがにエレンの様子がおかしいと分かったのか、ミハイルは怒り気味だった眉を垂らした。

 そして片腕だけを使って器用にコートを脱ぐと駆けつけてきたフェドーシャに渡し、なおもくっついて離れようとしないエレンをぎゅっと抱きしめた。


「……イーゴリが、魔法の蝶を届けてくれただろう? それとも、吹雪が怖かったのか?」

「……伝言は、聞いたわ。でも……やっぱり、寂しくて」

「……」

「ごめんなさい。自分でも、どうしてこんなに不安になるのか分からなくて……」


 考えてみれば、エレンは昨日からどうにもおかしい。

 エレオノーラを送ったあたりからぼんやりすることが多く、何かとてつもなく大切なことを忘れているような、ミハイルに言うべきことがあったような気がするのだ。


 そうしているとどうしても寂しくなり、ミハイルが帰ってきたと聞いたらいても立ってもいられなくなった。


 ミハイルはしばし黙って、エレンを抱きしめていた。だがやがて彼は「フェーニャ」とメイドの名を呼んだ。


「しばし、エレンと一緒に上がっている。今日は一日休みだから、飯は食べられるときに食べる。それまでは、適当に放っておいてくれ」

「はい、かしこまりました」

「……行こう、エレン」


 優しく名を呼ばれ、エレンはぎゅっと彼の手を握って歩きだした。

 一緒に階段を上がり、主寝室のドアを開ける。ミハイルが「おいで」と言ったのでエレンは素直にドアをくぐり――初めて主寝室に足を踏み入れた。


 主寝室は、一通りの設備が整っているエレン用の部屋と違い、まさに寝るためだけの場所だった。部屋の中央には大きめのベッドが置かれており、ミハイルはエレンをそこに座らせた。


 エレンは何も言わずに腰を下ろしてもじもじしていたが、ミハイルは上着を脱いでベルトごと剣も外し、エレンの隣に腰を下ろした。


「エレン」

「……ミーシェニカ」

「キスしたい。顔を上げてくれ」


 耳たぶを優しく震わせるような声音で請われ、エレンは素直に顔を上げた。

 ミハイルの顔はもうすぐそこにまで迫っており、エレンのおとがいに手を添えて仰向かせた彼は、そっと唇を寄せてきた。


 つい先ほどまで外にいた夫の唇は、冷たい。

 彼に体温を分けたくて、エレンも腕をミハイルの首に回して唇を強く押しつけた。


「エレン……不安なのか?」

「……よく、分からない」

「そうか。……それなら、エレンがしたいことを言ってくれ」

「私が、したいこと?」

「ああ。……昨夜、伝言はしたけれど寂しい思いをさせてしまった。俺にできる形で、その埋め合わせをしたい」


 そう囁くミハイルの声は、優しい。

 ……優しいからこそ、エレンは力なく首を横に振った。


「……だめだよ、ミーシェニカ。あなたは仕事だったのだから……埋め合わせ、なんてする必要はない」

「俺がしたいんだ。……さあ、何をしてほしい? おまえは……確か、昼から出仕だったか。それまでの時間なら、何でもしよう」

「……」


 エレンは、まばたきした。

 そして夫の柔らかい灰色の髪を梳り、頬に軽く唇を押し当てる。


「……一緒に、寝たい」

「……」

「一時間だけでいい。こうやって、あなたと抱きあって寝たい」

「……ああ。おまえの、望むままに」


 もう一度ミハイルはキスをするとエレンと自分の靴を手際よく脱がせ、エレンごとベッドに転がった。


 もぞもぞと体の位置をずらしてベッドの真ん中に移動し、ミハイルが掛け布団を引き上げる。そうすると、まるでこの世界にいるのは自分とミハイルだけのように感じられ――言い様もなく、安心できた。


「……さあ、寝よう。大丈夫、おまえが遅刻しないようにちゃんと起こすから」

「うん。……ありがとう、ミーシェニカ」

「気にするな」

「……私、目が覚めたら、ちゃんといつもどおりのエレンになるから」


 だから今だけは、少しだけ甘えさせてほしい。

 そう思いながら目を閉じたエレンの耳元で、くつりとミハイルが笑った。


「いつもどおりのエレン……か。エレン」

「……」

「いつだって、おまえはおまえだ。……甘えてくれて、ありがとう。ゆっくり、眠れ」

「……ん」


 こくり、と頷き、エレンは夫の胸元に擦り寄った。


 自分のものとは違う規則正しい呼吸の音が、少しだけ速い胸の鼓動が、エレンを包み込み、やがて優しい眠りへと導いてくれた。

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