14 エレンのお願い

 結局あの後、ミハイルは夕方まで眠り続けた。

 エレンが昼食として食べたものは夕食になりそうだ、ということで、エレンは使用人に「ミハイルの分の夕食」だけ準備し、エレンの夕食は昼食の残り――ミハイルが食べなかった分を温め直せばいいと言った。


 日が沈んだ頃に起きたミハイルは、かなりすっきりした顔でエレンに会いに来た。


「おはよう、エレン。おまえの薬は、やはりすごいな。仮眠のはずなのに、驚くほど疲れが飛んでいった」

「そ、そう。よかったね。……あの、できれば服を着てほしいんだけれど」


 リビングに降りてきたミハイルが元気そうなのは何よりだが、上半身裸なのはいただけない。


(別に、上半身くらいなら裸でも平気だけど……)


 革命軍時代は、汗を掻いた男たちが上半身裸で野営地をうろついているのを見てきたし、地方住まいなので農家の男性が下着一枚で作業をしている様も見ていた。下さえ穿いてくれるのなら、エレンとしては別に構わないと思っている。


 だがそれは相手がただの「男」だったら、の話だ。

 今ここにいる男は赤の他人ではなく、昨日結婚したばかりのエレンの夫だ。


 鍛えられた体には歴戦の証しなのか、細かい傷跡がいくつか残っている。戦う者らしい頑強な肉体はそれ一つが芸術品のようで、見苦しいとも思わない。

 ただ単に――恥ずかしかった。


 ひとまずミハイルを浴室の方に追いやり、その間に夕食の仕度をするよう使用人とフェドーシャに言う。

 そうしてエレンの分の食事が温め直され、ミハイルの分はできたてほやほやのものが並べられた頃、湯を浴びたらしいミハイルが戻ってきた。ちゃんと服を着ているので、日頃から裸族というわけではなさそうだ。


「うまそうだな。……ん? 俺とおまえでは、メニューが違うのか?」

「私は、昼にあなたが食べなかった分の残りをいただくわ。ミーシャは、そっち」

「……それなら、おまえは二食同じものを食べることになるだろう。飽きないか?」

「とてもおいしいから、飽きたりはしないわ。でもやっぱり、仕事をして疲れて帰ってきたあなたには、できたての方を食べてもらいたくて」


 エレンが笑顔で言うと、ミハイルは「……そこまでしなくても」とぼやいた。だがフェドーシャにも促されて席に着き、二人だけの初めての食事が始まった。


 エンフィールドとリュドミラでは、食事の作法に大差はない。というか諸国の歴史を鑑みるに、リュドミラの方が文明先進国であるエンフィールドのやり方に倣うようになった、というのが正しいだろうか。


 エレンは地方住まいの頃から、マリーアンナによって礼儀作法を厳しく教わってきた。ここ三年ではカミラのお供として夜会に出席することもあったので、立ち居振る舞いや正式な場での言葉遣いにはかなり自信がある方だ。


 一方のミハイルは平民出身で長年戦場に身を置いていたからか、そこまでテーブルマナーが得意なわけではなさそうだ。ナイフやフォークの使い方もなかなかワイルドで、かなり豪快にかっ込んでいる。


 だが見ていて不快になるような食事風景ではないし、むしろもりもりと食べる姿は料理を作る側としては気持ちがいいものだろう。それに「これがうまいな」「この味付けがいい」と料理の感想を丁寧に言っているので、傍らで給仕をしている使用人も嬉しそうだ。


(この様子だけを見ていると、ミハイルが「首刎ね騎士」と呼ばれているだなんて思えないな……)


 カヴェーリン公を亡くしてからは静かになったと言われているミハイルだが、エレンが見る限りそこまで落ち込んでいるようには思われない。確かに三年前ほどの明るさはなくなっているが、これくらいならエレンも安心できそうだ。


 食事の後の紅茶を飲んでいるところで、ふとミハイルが真剣な眼差しになった。


「……改めて、エレン。昨夜は、申し訳ないことをした。すまなかっ……」

「言わないで、ミーシャ」


 エレンは彼の言葉を遮り、紅茶のカップを置いてテーブルの上に両手を重ねた。


「私のことなら、本当に気にしなくていいよ。あなたを送り出したのは私だし……私は、騎士の妻だもの。いかなるときでも、戦場に赴く夫を見送り、出迎えるのが仕事じゃなくて?」

「……それはそうだが」

「私ね、昔もそうだったけれど……そういうあなたの直情的なところ、嫌いじゃないから」


 三年前も、ずいぶん失礼な一言から始まり、彼とは口論しあったり軽く小突きあったりもした。

 なんだこいつ、と思ったり、この失礼な男め、と文句を言いたくなったり、その自信満々な高い鼻をへし折ってやりたい、と思ったりしたこともある。


 だが――なんだかんだ言ってエレンは、ミハイルのそういうところは嫌いではなかった。

 そして今でも、一つのことを貫こうとする彼の姿勢自体は、悪いと思わない。


 ミハイルの瞳に、ほんの少し翳りが生じる。


「……嫌いではない、か」

「嫌だった?」

「別に。……だが、そうだな。俺も……おまえのそういうところは、昔から悪くないと思っていた。……そんなおまえだから……理由になると思った」

「なんの理由?」

「俺が……いや、何でもない」


 そこで乱暴に話題をぶった切り、ミハイルは紅茶を一口飲んだ後、「今後のことだが」と切り出した。


「俺はこれからも、リュドミラ騎士としての職務を一番に行動する。……もし今後、ボリス様の敵を見つけたなら、一番に連中を始末しに行く」


 ……もしかすると、再会して初めてミハイルの口からボリスの名を聞いたかもしれない。

 エレンはほんの少し指を動かしただけで、静かに頷いた。


「ええ、それでいいわ。ただし私も私で、カミラ様第一で動くからね」

「ああ、十分だ」


 新婚夫婦にしては殺伐としていて冷えているように思われるかもしれないが、それぞれに役目と信条がある自分たちとしてはこれくらいがぴったりだろうと、エレンは思う。


「……だがそれにしても、ある程度の決まりごとはあった方がいいだろう。俺は全くこだわりがないのだが……おまえは、これから何かしたいこととか、俺に頼みたいこととかはないか?」

「ミーシャに頼みたいこと?」


 あるには、ある。


 どうか、無謀な戦いは挑まないでほしい。

 彼自身に信条があるのは分かっているがそれでも、己の体と心を傷つけるほどの戦いには、身を投じないでほしい。


 ……だがそれは、妻としてエレンが願ってはいけないことだと分かっている。

 彼に無謀な戦いをするなと命じるのはつまり、狼に牙を抜けと言っているようなものだろうから。


 だからその言葉は呑み込み、しばし考えた後――


「……それじゃあせっかくだから、恋人らしいことがしたい」

「こ……ん、ん?」

「恋人らしいこと」


 言いながら、我ながらよい提案だと自賛する。


 別に、今すぐ同衾したいとか口づけしたいとか甘い言葉を囁いてほしいとか、そこまでは要求しない。

 だが新婚休暇が終わればエレンも仕事に戻らなければならないし、先ほど彼が自分で言ったようにいつ彼が出陣するかも分からない。


「たとえば、手紙のやり取りをするとか、贈り物をするとか、休みの日には一緒にお出かけするとか。そういうことを重ねていって、あなたのことをもっと知りたいと思って」

「……俺のことを? 知りたいのか?」

「当たり前でしょう。私たちはこれから夫婦として長い間一緒にいることになるのだから、少しずつ距離を縮めたいじゃない」


 エレンとしては当然のことを言ったまでだが、なぜかミハイルは酸っぱいものを間違えて食べたときのような表情になった。

 だがしばらくして彼は、渋々ながら頷いてくれた。


「……まあ、その程度なら。といっても、俺は字を書くのがあまり得意ではないが……」

「それなら絵でもいいよ? 今日ミーシャが食べたものを絵で描くなんて、どう?」

「……おまえ、俺をからかっているのか? 俺を幼児扱いするつもりか?」

「別に? それから……ああ、そうだ。私はもうじき出仕を再開させるけれど、たまに騎士団にひょっこり様子を見に行ってもいい?」

「やめろ、来るな」


 それまでとは違う、明らかな怒りを込めた拒絶の言葉にエレンは思わずびくっとしてしまった。


(……あ。私、調子に乗っていた……?)


 そこまで彼の気に障る言葉を言ったとは思っていなかったが、それまでマイペースに話していたエレンもさすがに反省し、身を縮めた。


「ご、ごめんなさい。あの、やっぱり今の全部ナシ! 手紙とかも、無理しなくていいから……」

「……いや、違う。いきなり声を荒らげて、すまない。だが……手紙とかなら努力するから、用がないのなら騎士団に来ないでくれ、頼むから」


 今度はミハイルの方が慌てたように言うので、少なくとも彼に嫌われたわけではないと分かって一安心できた。


(でも……そんなに私に騎士団に来てほしくないのかな。……あ、ひょっとして)


「……訓練風景は、あまり見ない方がいい?」

「それもあるが、騎士団の連中が……いや、もうこの話はどうでもいい。とにかく、薬の卸とかカミラ妃殿下の使いなどの用事がない限りは、来ないでくれ。もし来るとしても、必ず一報を入れてからにしてくれ。いいな」

「……分かった」


 エレンとて、ミハイルが気を悪くするようなことをするつもりはない。


(たとえ夫婦だとしても、やっていいこととやってはいけないことはあるはずだものね)


 エレンとしても勉強になった気分だ。










 その後もう少し話をしてから、解散することになった。

 ミハイルに「他に安眠効果がありそうな薬はないか」と問われたので、エレンは常備している薬箱から同じような効果のある錠剤を渡した。部屋で一人晩酌した後に飲むそうだ。


「それじゃあ、ゆっくり休め。明日は、贈り物点検などをしよう」

「ええ。……あの、ミーシャ。剣、持っていくの?」


 寝室の前で別れようとしているミハイルは、晩酌用のワインボトルだけでなく愛用の剣も持っていた。

 彼は右手に持つ剣に一度視線を落とした後、「ああ」と相槌を打つ。


「癖……のようなものだな。側に剣を置いていないと、逆に眠れないんだ。それから、少しでも室内で物音がすると目が覚めてしまう。良くも悪くも、習性だな」

「……そう」


 その後、「おやすみ」と挨拶を交わして、エレンたちはそれぞれの寝室に入った。エレンの私室は日中に使用人が掃除してくれていたので清潔で、ベッドのシーツもきれいになっている。


 寝間着に着替えてベッドに滑り込み、考えるのはミハイルのこと。


(いつか、ミハイルが自分の側に剣を置かなくても眠れるようになれたら)


 そして……あわよくば、隣にエレンがいたとしても眠れるようになれば。

 エレンとしても、嬉しい限りだ。

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