22 不機嫌の理由②
雨は少しだけ小降りになったが、蜘蛛の糸のように細い秋雨がさらさらと地面に降り注いでいる。
「足元がぬかるんでいそうですが、こんな天気の中で訓練して大丈夫なのでしょうか」
「大丈夫どころか、悪天候でも戦えるように備えておくのは大切なことですよ」
少し先を歩く医師長についていきながら、魔法薬師の青年が教えてくれる。
「僕はリュドミラから出たことがないのでエンフィールドではどうなのか分かりませんが、このあたりは一年を通して、晴れている日の方が少ないくらいです。冬だと豪雪や吹雪の中での戦闘、春だと雪解け水で足元がぬかるむ中での交戦も十分考えられるので、むしろ足場が悪い中での戦闘をイメージしている方が特訓になるのです」
「あ、なるほど」
エンフィールドは平地の方が多く、王都やエレンが育った町の近辺では冬でもそれほど雪が降らないので、盲点だった。
(そっか。いくら王子様相手でも、泥まみれになって戦う方法を教えなければならないんだね)
やがて到着した詰め所では、訓練場の方から賑やかな声が聞こえてきていた。小雨の中でも、元気に特訓をしているようだ。
「おや、ちょうどいいですね。エレンさん、あなたの旦那さんが王太子殿下に指導をしていますよ」
「えっ、どこ!?」
思わず敬語を落としてしまったエレンだが、魔法薬師は微笑んで場所を教えてくれた。
白っぽい雲の広がる空の下、日光が遮られて影が一つも生じていない広い訓練場には、ざっと見ても騎士が五十人はいる。若い者は十代半ばくらいと思われ、そういう者は粗末な軽鎧と胴衣を着て、泥まみれになりながら背の高い年長者と打ちあっていた。
リュドミラの騎士服や鎧は、エンフィールドのものよりもごつくて厚手だ。それはもちろん、寒冷地での活動を想定しているからであり、温暖なエンフィールドで行われた革命戦争時は少し暑そうにしていたのを思い出す。
そんな中、魔法薬師が示すのは訓練場の一角で打ち合う少年と青年の方だった。
少年の髪は少しはねた癖のある短い銀髪で、彼の身長では少し長いように思われる模擬剣を握っている。険しい顔をして剣を構えておりズボンの膝や籠手に泥がべったり付いていることから、何度も相手に打ち負かされ泥の中を転がったことが想像できる。
彼が、カミラの夫である王太子だろう。
そして、そんな王太子と対峙しているのは。
「……脇の締めが甘い! 剣は、ただ強く握ればいいというわけではない!」
彼は低い声で吠え、ぬかるみに一切足元を掬われることなく駆けだす。
王太子は剣を構えて必死に踏ん張るが、一撃、受けて体がよろめき、二撃目で剣が持ち主の手を離れていった。
べしゃっとその場に尻餅をついた王太子を、青年が腕を引っ張って立たせる。そして彼が取り落とした剣を拾って握らせ、「もう一回だ」と構えさせた。
身分の差も構わず王太子を叱咤して打ちかかるのは、間違いなくミハイルだ。
(だ、大丈夫なのかな? いくら剣の指導といっても、王子様相手に……)
エレンがそわそわしていることに気付いたのか、魔法薬師が振り返って微笑んだ。
「そんな顔をなさらなくても、大丈夫ですよ。……ミハイル・グストフ殿は、国王陛下直々のご命令で殿下の指導役を任されたのです。かつてはカヴェーリン公も指導をなさっていたみたいですが、公が戦死なさってからはいっそう、殿下の指導に熱心に取り組まれています」
「……そうなのですね」
「ええ。それにああやって厳しい口調で指導なさるのも……王太子殿下の方から頼まれたそうです。カヴェーリン公やグストフ殿のように強くなりたいから、しっかり稽古を付けてくれ、と」
魔法薬師の言葉に、エレンは知らないうちに肩に込めていた力を抜いた。
(ミハイルは、王太子殿下からも信頼されているんだ……)
確かに、指導中のミハイルからは鬼気迫るものを感じる。だが王太子はべそを掻きそうになりながらもミハイルの指示に従い、唇を噛んでしごきに耐えている。
泥まみれになりながらも強くなろうと努力する王太子の姿を見ればきっと、カミラもいっそう彼への思いを強くするのではないだろうか。
しばらくその場にいたエレンたちだが、騎士たちの方がこちらに気付いたようだ。「あ、医師長様」「魔法薬師の……あれ?」「もしかして、ミハイルの奥さん?」という声が聞こえてくる。
とたん、王太子の方を向いていたミハイルが凄まじい速度でこちらを向き、赤茶色の目を見開いたのが遠目にも分かった。
(え、えっと……大丈夫だよね! 薬箱を持っているし!)
野次馬ではなく仕事なのだとアピールするために、持っていた薬箱を胸の高さに持ち上げる。
だがミハイルは渋い顔になり、持っていた剣を鞘に収めてぷいっとそっぽを向いてしまった。
やはり、迷惑だっただろうか。
反省するエレンだが、ぬかるみに足を取られながら騎士たちが寄ってきた。
「いつもすみません、先生。今のところ殿下に大きな怪我はありませんが、細かい擦り傷はいくらかこしらえてらっしゃるようです」
「ああ、了解した。今日は天気も悪く、泥が傷口に入ると化膿する可能性がある。こちらでもいくつか薬を準備しておこう」
「はい、よろしくお願いします。……っと、そちらの方は確か、カミラ妃殿下付きの……」
「は、はい。エレン・グストフでございます」
エレンがお辞儀をすると、「あ、やっぱりミハイルの」「本当に結婚したんだな」「あいつもやるなぁ」と、あちこちから声が掛かってきて頬が熱くなった。
ちらっと見ると、騎士たちに囲まれるエレンをミハイルが遠くから不快そうに見つめていることが分かり、ますます身を縮めてしまう。
(……もしかしたらミハイルは、こうなるから私に騎士団に来るなって言ったのかも)
エレンは薬箱を抱えて小さくなったが、軽い足音が近づいてきたため顔を上げた。
「……そうか。君がカミラの従姉なのだな」
まだ声変わりを迎えていない少年の声に、エレンははっとした。
いつの間にかエレンの正面に、銀髪の少年が来ていた。間違いなく、王太子・アドリアンだ。
「し、失礼しました、王太子殿下。エレン・グストフでございます」
「ああ、ミーシャから聞いている。……あいつは君のことを、おっちょこちょいで気が強い、手に負えない嫁だと言っていたが……なんだ、そんな恐ろしいわけではなさそう――」
「王太子殿下、もう休憩なのですか?」
不機嫌そうな声が、王太子の横から聞こえてくる。
先ほどまでは訓練場の隅にいたのに、いつの間にかここまでやって来ていたようだ。
「ミハイル……」
呟くとミハイルはじとっとエレンを見た後、王太子に声を掛けた。
「……医師長殿も到着したことですし、訓練再開ですよ。……カミラ妃殿下に格好いいところを見せたいのでしたら、音を上げずについてきてください」
「むっ! わ、分かっているとも! おまえこそ、妻のことをあんなにけちょんけちょんに言っていたくせに、本当は……」
「殿下?」
「……わ、分かったから、睨むな! おまえの目は、怖いんだ!」
「ご理解いただけたようで何よりです」
そこでミハイルはついっとエレンを見、眉根を寄せた。
「……仕事で来たのか」
「……は、はい。あの、ごめんなさい。いきなり来て……」
「……仕事なら、別にいい。だが――」
そこでミハイルは脇を見、同僚騎士の一人に何か指示を出す。心得た様子の彼が背負っていた荷物から乾燥したタオルを出すとそれを受け取り、エレンの方に放って寄越してきた。
「わっ、と……」
「……今日は、雨だ。リュドミラの秋雨は、おまえが思っているよりも冷たくて体力を奪われる。……それを被っていれば、まだましになるだろう」
「……」
エレンは何度もまばたきし、手の中のタオルとミハイルを交互に見る。
ミハイルはそれ以上何も言わず背を向け、王太子の腕を引っ張って訓練場の方に戻ってしまった。慌てて他の騎士たちもついていくが、彼らは振り向き様にエレンに微笑みかけてくれた。
まるで、「よかったですね」と言っているかのように。
(……えっと。もしかして、私を見てミハイルが怖い顔をしたのは……)
「……私が、風邪を引くかもしれないから……?」
「そうでしょうね。いやぁ、仲がよいのはよろしいことですよ」
エレンの呟きを拾った魔法薬師がからっと笑って言うので、エレンは熱を発する頬を隠すように、タオルに顔を埋めたのだった。
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