8  裏庭での一悶着

 気を取り直し、エレンは早足で騎士団宿舎の方へ向かった。

 そこは近づけば近づくほどよく分かる酒宴状態で、騎士たちが宿舎前の中庭で酒盛りをしていた。リュドミラには女性騎士はいないらしく、ガタイのいい男たちが笑いながら酒を呷っているようだ。


(う、わぁ……すごい。騎士様でも、こうやって飲むんだ……)


 エレンも地方暮らしのときに、平民の男性たちが大酒を飲む姿を見たことがある。

 だがまさか、高潔な騎士まで同じ有様――ともすれば平民男性よりも豪快かもしれない飲みっぷりを披露しているのを見ると、変な笑いがこみ上げてきそうになった。


(騎士様も人間だし、酒好きはエンフィールドでもリュドミラでも同じ、ってことなのかな)


 もしあのとき見かけた平民のおじさんとここの騎士たちが一堂に会したとしても、案外すぐにうち解けて酒を飲みあうかもしれない。


 エレンは酒盛り状態でも禁酒している詰め所の騎士たちに薬を渡し、帳簿に受け取りサインをしてもらった。その際、「君も一杯、どう?」と誘われたのは、丁重に断っておく。


(……そういえば、ミハイルはここにはいないのかな)


 どう見ても、あの宴会会場にミハイルがいるとは思えない。そもそも彼は今日の試合に参加していないので、酒を飲む義理もないのかもしれない。

 そう思いつつ騎士に聞いたところ、彼は少し目を丸くしたが、「革命戦争時代の知り合いなのです」と説明すると納得したように頷いた。


「ミハイル様ならいつも、裏庭にて一人で飲んでらっしゃるよ。ただ……」

「ええ、彼のことなら聞いております。……お気遣い、ありがとうございます」


 言葉を濁した騎士に微笑みかけてエレンは詰め所を出て、示された裏庭の方に向かった。


 中庭のどんちゃん騒ぎの音から少し離れた、普段は薪などを置く場所らしい裏庭。そこにそっと顔を覗かせると確かに、こちらに背を向けた格好で切り株の上に座る青年の姿があった。


 ……どくん、と心臓が激しく鳴る。


 ミハイルが、そこにいる。

 懐かしい彼が、すぐそこに。


 エレンの予想を裏切り彼も晩酌しているらしく、足元にはいくつかの酒瓶が転がっている。リュドミラ人らしく、彼も酒豪なのかもしれない。


「……あの、こんばんは、ミハイル」


 思いきって、声を掛ける。

 だがミハイルは少し背中を揺らしただけでこちらは向かず、手に持っていたらしい酒瓶を足元に放った。一体何本飲んだのだろう。


「その……久しぶりです。私、エレンです。……覚えていますか?」


 声を掛けながら、おそるおそる彼に近づく。そうしていると、ゆっくり彼が振り返った。


 雲間から差す星明かりが、彼の横顔を白っぽく照らしている。酒瓶の数を鑑みるにかなりの量を飲んでいるはずだが顔色には出ないようで、彼は優美な眉をきゅっと寄せ、エレンを見つめていた。


 その顔はまさに、三年前におしゃべりをした彼が成長した姿だ。かつてはまだ少年の面影を残していたが、今年で二十二歳になっただろう今の彼は男らしいたくましさと美術品のような冷たい美しさを兼ね揃えている。そんな彼の凛とした容姿を見て、エレンは息を呑んだ。


 三年前から、凛々しくて格好いい青年だとは思っていた。だが三年間でいくつもの戦場を切り抜けてきた彼は美しくも鋭く――そしてどこか哀しささえ感じられる眼差しを持ち、エレンを見つめ返してきている。


 ミハイルは、何も言わない。彼の声が聞きたくて、エレンは一歩踏み出した。


「私、エレンです。三年前、エンフィールド王位継承革命でカミラ様の部下として、あなたとおしゃべりをした――」

「エレン……?」


 薄い唇が、エレンの名を呼ぶ。

 それだけで無性に安心できてエレンがほんのり微笑むと、彼は顔をしかめ、立ち上がった。


 正面に立ったミハイルは、昔よりさらに背が伸びたようだ。元々リュドミラ人はエンフィールド人より背が高い者が多いが、今のエレンでは見上げなければならない位置に赤茶色の双眸がある。


 ミハイルの唇が、何かを囁く。

 そして――長い腕がさっと持ち上がり、その場にぼうっと立っていたエレンの腰を引き寄せて、きつく抱きついてきた。


(……え? ……えーーーーーーーーっ!?)


 問答無用で抱きしめられたので、エレンは鼻から彼の胸板に激突してしまい、「ぶじぇっ」と無様な声を上げてしまった。だが鼻の痛さより何より、この状況が気になって仕方がない。


 エレンは今、ミハイルに抱きしめられていた。

 エレンを胸元に抱き寄せる彼の腕は思いの外たくましく、顔面激突することになった胸元からは強い酒の臭いがして――


「ミ、ミハイル! あなた、酔ってるでしょ!?」

「……」

「あの、あの、色々話したいことがあるから……まず、離して! ねえ、これ、まずいから!」


 なんとか動かせる右手でばしばしとミハイルの脇腹を叩いて抗議の意を示すが、鉄のように硬い彼の体はびくともしない。間違いなく酔っているし、自分が今何をやっているかも分かっていないのだろう。


(二日酔い用の薬は予備があるけど、この状態じゃ取り出せないし……! こんな場所、誰かに見られたらまずい……!)


 こうなったら脚を蹴ってでも、抱擁を解いてもらわなければ。蹴ったことは後で謝れば許してくれるだろう、多分。


 そう思って右足を振り子のように後ろに蹴り上げたエレンは――自分を抱きしめるミハイルの体が小刻みに震えていることに気付き、脚を降ろした。


(ミハイル……?)


 彼は一度エレンの名を呼んだだけで、後は何も言わない。だがエレンの首筋に顔を埋めた彼は小さく震えており、エレンをかき抱くようにその背中に軽く爪を立てている。


 まるで、泣きそうなのを堪えているかのように。

 まるで、エレンがいなくなるのを怖がっているかのように。


(もしかして……私の名前を聞いて、昔のことを思い出したの?)


 かつての彼が話す内容の六割はボリスのことで、三割が故郷リュドミラのこと、残り一割が食事などその他のことだった。


 彼はエレンを見て、かつて主君自慢をしあったことを思い出し、情緒が乱れてしまったのではないか。酒も飲んでいるようだから、なおさら心の振れ幅が大きくなったのかもしれない。


 こうなるともう脚を蹴ることなんてできず、エレンはおずおずとミハイルの背中に腕を回し、ぽんぽんと慰めるように撫でた。


(……ミハイルが過ごしたこの一年間は……一体、どんなものだったんだろう)


 少なくとも、エンフィールドで忙しくも充実した日々を送っていたエレンとは全く違う毎日を生きてきたことだろう。


 そして、一体どんな気持ちで敵を殺し、「首刎ね騎士」と呼ばれるまでになったのか。


「……ミハイル」


 そっと名を呼ぶと、すり、とミハイルが額をエレンの肩に擦りつけた。

 まるで甘えているような仕草を咎めることもできず、エレンは変わり果てたかつての友を慰めるように背中を撫で――


 ――どむっ、と何かが地面に落ちる鈍い音で、我に返った。


 はっとして首を捻ると、建物の影から呆然とこちらを見ている若い騎士二人が。先ほどの音は、片方の騎士が持っていた水入りの革袋を取り落とした音らしい。


 まだ十代半ばくらいだろう彼らは、あんぐりと口を開けてエレンたちを見ていた。

 そして――


「……しっ! 失礼しました!」

「あの、あの、お邪魔するつもりはなくて……あの……ごゆっくり!」

「え、ちょっ、待っ……!」


 エレンが止める間もなく、脱兎のごとき勢いで逃げていった。


(……まずい)


 さあっと背筋を冷たい汗が流れ、エレンは力任せにミハイルの体を押しやると、わずかに体が離れた隙にウエストポーチに手を突っ込んだ。

 そして念のために予備を持たせてくれた魔法薬師に感謝しつつ、二日酔い用の錠剤を摘み上げてミハイルの唇に押し当てる。


「これ、飲んで! 甘くておいしいから、ほら、飲み込む!」


 なおもぼんやりしている様子のミハイルに言い、ほれほれと押しやる。

 やがて彼はぼうっとしつつそれを口の中に入れ、こくりと飲み込んだ。


 この薬にはエレンの魔力が込められており、早ければ十秒の後には効果が――


「…………ん? え、おまえ、誰だ?」

「エレンですっ! ミハイル、私のこと、分かる?」

「エレン……。……えっ、もしかしておまえ、革命軍の……?」


 あっという間に薬の効果が表れたらしく、最初は目を白黒させていたミハイルはすぐに我に返った様子でエレンを凝視する。


「な、に……? どうしておまえが、ここに? おまえはカミラ王女の……ん?」

「カミラ様のお付きとしてリュドミラに渡ったのだけれど……それよりも、大変なの!」


 これまでの経緯をすっ飛ばし、「先ほど酔ったミハイルに抱きしめられているところを、若い騎士に見られた」と説明すると、ミハイルは絶句した。


「……は? 見られたのか?」

「そう! 色々噂されたりしたら大変でしょう!」


 エレンが唾を飛ばす勢いで言うと、やっと事の重大性が分かったらしいミハイルは端整な顔をしかめ、長く伸びた前髪をぐしゃりと握り潰した。


「くっ……俺の馬鹿が。久しぶりに会った女に対して、何を……」

「酔っていたのだから、仕方ないと分かっているわ。でも、このままだと……」

「ああ、分かっている。……連中には俺が説明するから、おまえはカミラ王女――いや、今は王太子妃殿下か。彼女のもとに戻れ。裏道を教えるから、すぐに戻って知らぬ顔をしておけ」

「……は、はい」

「事の次第は明日、必ず連絡する。……いきなり妙なことをして、すまなかった」


 エレンの腕をぐいぐい引っ張りつつも、最後の一言には限りない優しさが込められているのが分かり、エレンは胸が痛くなった。


(やっぱり……ミハイルは、変わっていない)


 紆余曲折あろうと物騒な渾名があろうと、エレンの腕を引っ張る男は昔と変わらない心を持っていると、エレンは信じたかった。

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