9 話が違う
ミハイルに言われたとおり、エレンは裏道を通って一目散に離宮に逃げ帰り、カミラに退室の挨拶だけしてすぐに自室に飛びこんだ。
そうしてまんじりともせずに夜を明かし、やや寝不足の状態で出勤する。
(今日連絡するって、ミハイルは言っていたけれど……本当に大丈夫だったのかな)
まるで教師の説教に怯える生徒のようにびくびくしつつ、エレンはカミラの部屋に向かった。
だが朝食を終え、食後の紅茶を楽しんでいたカミラはエレンを見て「あら、おはよう」と言うだけで、特に変わった様子はなかった。
(カミラ様は、何もご存じでない様子。でも、この後いつか……)
カミラ用の薬を出しながら、エレンは悶々と考える。
リュドミラの騎士と王太子妃の部下が、人気のない場所で抱き合っていた。
この噂は、ともすれば凄まじいスキャンダルになる。まさか今の王政に文句を言う者はいないだろうが、もしカミラに敵対する者がいたとすれば、この噂を悪く悪くねじ曲げ、カミラにとって不利な状況を作り上げるだろう。
そうでなくても、王太子妃になったばかりのカミラの足枷になるようなことが起きれば……。
(……ミハイルが後始末をしてくれるにしてもやっぱり、私の口からご説明しないと)
「……エレン、どうしたの? さっきから様子がおかしいわ」
いつもなら嫌そうに薬を飲むカミラだが、さすがにエレンの様子がおかしいと思ったらしく文句も言わずに薬を飲み、じっとエレンを見つめてきた。
エレンはごくっと唾を呑むと意を決し、口を開いた。
「……カミラ様。実は私、昨夜――」
――コンコン。
ドアがノックされたので、エレンはびくっと身を震わせた。
女性騎士が応対に出たところ、すぐに彼女はこちらに戻ってきて、「リュドミラの騎士がエレンに用事だそうです」と言った。
(ま、まさかミハイル!? どうしてカミラ様の部屋に!?)
来るとしたらエレンの部屋、もしくは城内郵便係に頼んで手紙を送るだけだろうと思ったのに、本人のお出ましだというのか。
途端にカミラは何を思ったのか目を輝かせ、「私のことはいいから、早く出て!」と背中を押してきて、侍女長でさえ「早く出ろ」と目線で訴えてくる始末。
(どうして、こんな皆に見られるような場所で、報告を受けれなければならないの……)
きりきり痛む胃のあたりを抑えながら、エレンはドアの方へ向かう。
そこにはやはり、ミハイルの姿があった。だが彼は昨日のような騎士団の制服ではなく、やけに豪華でぱりっとした白い軍服のようなものを着ていた。昨夜の状況説明をするだけにしては立派すぎる装いだし、前髪を上げて髪型も整えているようだ。
(……何これ?)
「あの、ミハイ――」
「朝からすまない、エレン。どうしてもすぐに、おまえに会いたくて」
凛とした声が響き、後ろの方でカミラが「きゃーっ!」と大興奮する声が聞こえた。
侍女長はそんなカミラをなだめているようだが、恋愛に興味のあるメイドや女性騎士たちでさえこちらをじっと見ているのを感じ、エレンの背中に嫌な汗が流れる。
「あ、あの。昨日のことに関する報告なら、こっそりと――」
「エレン・オールディス嬢」
エレンの言葉を遮り、ミハイルはその場に片膝をついた。
そして先ほどまでずっと背中の方に回していた右手を出し――真っ赤な薔薇の花束が、エレンの目の前に差し出される。
――薔薇が育ちにくいリュドミラで、これほど立派な薔薇の花束を贈る理由。
それは。
「急なことですまない。だが……俺と結婚してくれ」
ミハイルが真剣な眼差しと真剣な声で言った、数秒後。
「……は、いぃぃぃぃぃぃぃぃ!?」
エレンの絶叫が王太子妃の離宮に響き、庭の木に留まっていた鳥たちが慌てて飛び立っていった。
興奮で身もだえするカミラを侍女長たちに任せ、エレンはひとまず別室にミハイルを連れ込んだ。メイドの一人が、「あら、情熱的ね」とからかってきたが、今は言い返す余裕がないので放っておく。
ドアを閉め、肩で息をしながらエレンは振り返った。
「……ミハイル!」
「花、受け取ってくれないのか?」
「あ、ありがとう。とてもきれいな……そうじゃなくて!」
せっかくなので薔薇の花束は受け取ったが、のんびりと礼を言っている場合ではない。
エレンはミハイルの向かいのソファに座り、感情の読めない彼の顔をじっと見つめた。
先ほどカミラたちの前で公開プロポーズをしたくせに、この男は驚くほどけろっとしている。言われたエレンの方は、まだ顔が熱いというのに。
「あ、あの。あなたは昨夜、事の次第を翌日に連絡するって言っていたよね?」
「ああ、言ったな」
「……それでどうして、いきなりプロポーズしてくることになるの?」
エレンがじとっとした目で言うと、そこでやっとミハイルの冷えきった表情に変化が見られ、彼は申し訳なさそうに眉を垂らした。
「……あの後、火消しをして回ろうとした。だがおしゃべりな新人たちがあっという間に噂を広げていて……『首刎ね騎士』がエンフィールドの女性と抱きあっていたと、騎士団中の噂になっていた」
噂が広まるのが、早すぎる。
もしかすると皆酔っていて、大声で吹聴しまくったのかもしれない。
「睨みは利かせたのだが、もうこうなると城中に広まるまでは時間の問題だと思った。……だから、責任を取るつもりで昨夜のうちに薔薇を注文した」
「責任って……」
「これまで女っ気の一つもなかった俺が、あろうことかカミラ妃殿下付きの魔法薬師と抱きあっていた。……下手をすれば、王太子妃殿下やエンフィールドにまでよくない形で噂が広まるかもしれない。嫁いで間もなく、まだ年若いカミラ妃殿下のお心を悩ませることを作るわけにはいかない。だから先ほど、妃殿下の前で求婚した」
「……」
「今のままだと、おまえは『首刎ね騎士』に遊びで手を出された、と思われてもおかしくない。それではおまえの名誉も傷つけられるだろう。それくらいなら……俺たちは最初から憎からず思っている仲で、あの抱擁は求婚直前の戯れだったと思われる方がいいはずだ。幸い、俺たちは面識があるしな」
「そ、それはそうだけど……」
「それに……三年前は知らなかったが、おまえ、マリーアンナ女王陛下の姪なのだろう? 王家の血筋ではないそうだし地方育ちということだが、おまえも見方を変えれば立派な姫君だ。女王陛下の姪御を無下にできるわけがない」
ミハイルの説明は、確かに、と納得できるものばかりだ。
おそらくリュドミラはエンフィールドほど男女交際がフランクなものではなく、未婚の男女が抱きあっているとなるとかなりの噂になってしまうようだ。だとすれば、「これは恋人同士が同意の上で行ったことだった」としてしまった方が、噂自体はきれいに払拭できる。
……だが、弊害が大きすぎやしないだろうか。
「でも、これじゃああなたが私と結婚しなくてはならなくなるのよ」
「俺は構わないと思っている」
さっくり返されてエレンが言葉に詰まっていると、ミハイルは赤茶色の目を細めた。
「……今の段階では、『男が恋人に求婚していて、返事待ち』の状態だ。おまえが嫌ならそれこそ、カミラ妃殿下の前でフッてくれ。そうすれば俺は玉砕した情けない男、おまえはそんな情けない男を見限っただけ、というふうに認識されるだろう」
「それは、そうかもしれないけど……あなたの評判が」
「別に、どうでもいい。元は俺が蒔いた種だし、昔なじみのおまえに罪をなすりつけるつもりもない」
はっきり言い切られ、エレンは何も言えなくなった。
(ミハイルは、こんな人だっただろうか)
三年前の彼なら、「どうにかするぞ!」とエレンの腕を引っ張り、無理矢理作戦会議に連れ込んだだろう。彼が出した無茶な提案をエレンが蹴り飛ばして、軽く口論になっていたかもしれない。
三年経って彼も大人になった、というのもあるだろう。
だがそれ以上に――ミハイルが自分を大切にしていないように思われ、胸が痛かった。
「……いくらお酒に酔っていたあなたに責任があるとしても、私のことばかりじゃなくて、自分のことも考えてよ」
「別に、自分のことを考えなくても支障はない。それより、おまえの方が心配だ。醜聞が広まって困るのは、異国人でかつ、王太子妃を主君に持つおまえだろう」
エレンはぐっと言葉に詰まった。カミラのことやエンフィールドのことを持ち出されると、エレンは言い返せなくなってしまう。
「結婚しても、おまえに不自由はさせない。どうせ俺は仕事漬けになるし滅多に屋敷には戻れないだろうから、おまえの好きに屋敷の中を変えればいい。これでも金はあるから、好きなものを買ってくれればいい。俺は貴族ではないからパーティーに出る必要はないし、おまえに妻としての責務を押しつけることも絶対にしない」
妻としての責務――色々あるが、一番は子どものことだろうか。
彼は別にエレンのことが好きで求婚したわけではないのだから、愛されない形だけの妻でも仕方がないとは思う。
(でも……ミハイルは、将来のことを描けていないのかな……)
そう思うと、たまらなく悲しい。
涼しい顔をしている裏側ではどんな思いを抱いているのだろうかと考えると、他人事なのに胸が痛くなる。
とはいえ、エレンだってあらぬ噂を立てられるのは嫌だ。
(それに、全く知らない人ならともかく……ミハイルだし)
先ほど、ミハイルのプロポーズを見て大興奮していたカミラの声が蘇る。
カミラがこれからも、リュドミラでうまくやっていけるなら。
恩のあるマリーアンナたちに、迷惑を掛けずに済むのなら。
「……分かりました。お話、お受けします」
「……エレン」
「結婚するわよ、ミハイル。形だけだろうと何だろうと……私はあなたの妻になる」
エレンははっきりと、人生の分岐点を決める言葉を発した。
もしこの先で何があっても、このときの判断を悔やむことがないように。
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