第8話 風邪と元カノ
土曜日の午前中、私は鉛のように重い頭と体を起こして何とかベッドから出た。
昨日の朝から具合が悪く、帰って来た時には熱が上がっていた。
「
心配した
二人で暮らして以来、初めて別々の部屋で眠った。
「大丈夫⋯⋯です。今から⋯⋯病院に行ってきます」
「ふらふらしてるのにどこが大丈夫なの!?」
「寝起き⋯⋯だからです」
怒った冴子さんに掴んでいた服を取られ、着替えるのを手伝わせてしまった。
「どこの病院に行くの? 車で送るから」
「⋯家から一番近い、
気のせいか冴子さんの表情が一瞬曇った気がする。
「そう。何でそこにしたの?」
「⋯⋯? 近いからですよ。ネットの予約も受け付けてますし、女の生生なんです。やっぱり男性より女性の先生の方が安心感があるというか⋯」
私は冴子さんの車の助手席に座り、すぐ近くの病院へ向かった。
病院は欧風のデザインで家と一体型になっている。
おしゃれすぎてあまり病院っぽくない外観だった。
受付時間の終わりに近いせいか、待合室には人も少なく座ることができた。
隣りに冴子さんも付き添ってくれる。
だるい体を預けるとしっかりと肩を抱いてくれた。
「
程なくして名前を呼ばれたので立ち上がったら、ふらついて転びそうになる。
冴子さんが支えてくれたので転ばずに済んだ。
私はそのまま支えてもらい診察室のドアを開ける。
デスクの前には清潔感のあるミディアムボブの黒髪に、細い銀縁眼鏡をかけた白衣の女性が座っていた。
年は四十歳くらいだろうか。瞬時に目を奪われるような仄かな色気のある先生だった。
「か⋯⋯先生、彼女私の後輩なの。診てあげて。昨日から具合が悪いの」
冴子さんはその先生に向かって言った。
「⋯⋯冴子ちゃん久しぶり。あなたの後輩なのね。大丈夫よ、ちゃんと診てあげるから。付添人は待合室で待っててね」
(知り合い⋯⋯?)
色々気になるけれど、冴子さんはドアを閉めていなくなってしまった。
「今日はどうしましたか?」
診察が始まってしまったので、私は好奇心を捨て身体の状況を先生に話し出した。
会計を終えて私は手にした処方箋に目を通す。
(時任
「ただの風邪でよかったね、奈津」
「あっ、はい」
正直、そんなことより、あの先生とどういう関係なのかが気になる。
(家に帰ったら聞いてみよう)
と思っていたのに、お昼に冴子さんが作ってくれた美味しいおじやを平らげて、薬を飲んだらベッドに沈んでしまった。
夜、私は九時にはすっかり眠りに落ちていた。
途中で目が覚め、時計を確認するとまだ十一時。
私はトイレに行くために部屋を出ると、居間から声が聞こえた。
何となく気になり居間の方へと足を進める。
「うん、そう。奈津は彼女。⋯⋯⋯二股なんてするわけないじゃない。奈津と付き合ったのは香菜絵と別れた後。⋯⋯⋯あてつけって、私が誰と付き合おうと勝手でしょ。
⋯⋯⋯⋯香菜絵はどうなの? ⋯⋯⋯は? メイと!? もう、バカじゃないの!?⋯⋯⋯ええ、そうね。香菜絵が誰と付き合うのも自由よ」
冴子さんは誰かと電話していた。
(香菜絵って、病院の先生と同じ名前)
(もしかしてあの先生、冴子さんの元カノ⋯?)
盗み聞きはいけないと分かっているけど、私はその場から去れずに立ち止まっていた。
「⋯⋯何でそんなこと教えないといけないの。⋯⋯⋯それはまぁ、初めてだけど。⋯⋯⋯奈津は入社した時から私に懐いてくれたのよ。すごく慕ってくれて⋯⋯。はぁ!? 香菜絵が言えって言ったんでしょう!? ⋯⋯⋯大丈夫。ちゃんと看てるから」
(どうしよう⋯。入社した時から冴子さんのこと大好きなの気づかれてた)
解熱剤で下がった熱がまたぶり返しそうなくらい、顔が熱くなる。
「分かってるなら電話して来ないでよ。⋯⋯何でよ。そんな義務ない。⋯⋯冗談でもムカつくからやめて。奈津は私にとって何より大事なの。香菜絵なんかに手出させるわけないでしょ。⋯⋯⋯はいはい。じゃあね」
冴子さんが電話を終えたので私は見つからないように、そろりそろりと廊下を戻る。
私は大げさにトイレのドアを開けて閉めた。
さも今、トイレに起きたように見せかけるために。
用を足して出ると、廊下に冴子さんがいた。
「体どう? 少しは楽になった?」
心配そうに私のおでこに触れる。冷たい手の感触が心地よい。
『奈津は私にとって何より大事なの』
さっきの冴子さんの言葉がこだまして、嬉しいけれど気恥ずかしい。風邪を引いてなかったら冴子さんに思いっきり甘えたかった。
「はい。前よりは」
「うん。良かった。熱も下がってるみたいで」
冴子さんは私を部屋まで送ってくれると、ベッドに入った私に毛布をかけてくれる。
「冴子さんが隣にいないと寂しいです」
「治ったらまた一緒に寝ればいいでしょ」
「はい」
「私も奈津がいないと寂しい。おやすみ奈津」
冴子さんは私の頬にキスをすると部屋を去ってしまった。
あの先生が冴子さんの元カノなのではないかと思うと、とても気になる。
でも冴子さんは今、私を大切に想ってくれることが分かったからそんなことはどうでもよくなった。
(早く風邪治して、また冴子さんの側にいられるようにならないと!)
奮起したところで私は再び眠りについた。
二週間後の土曜日の午後。
私の風邪はすでに完璧に治っていた。冴子さんに移ることもなく、無事に経過して安堵している。
私は近所のケーキ屋さんでどれを買うか吟味している最中だった。
「奈津、まだ決まらないの?」
「ミルクレープ⋯⋯でもレアチーズケーキも食べたいし、こっちの焼きプリンも⋯⋯」
「じゃあもう、それ全部買えばいいよ。買ってあげるから、それでいい?」
「いいんですか?」
「快気祝いってことにしてあげる」
ただの風邪だったけど、冴子さんが買ってくれるというのでお言葉に甘えることにする。
「嬉しそうにしてそんなにケーキ食べたかったの?」
まるで子犬にするみたいに頭をわしゃわしゃされた。
ケーキも嬉しいけれど、冴子さんが私を喜ばそうとしてくれているのが何より嬉しい。
ガラスケースの向こうで店員さんが笑ってる。
すっかり自分たちの世界に行っていた。
店員さんに姉妹か何かだと思われてるのかもしれない。できればそう思っておいてほしい。
ちなみにチョコレートが好きな冴子さんは速攻でザッハトルテに決めていた。
私は冴子さんにたくさんケーキを買ってもらい、上機嫌で店を後にした。
居間からはドラマの再放送が流れている。
冴子さんはソファに足を投げ出して雑誌を読んでいた。
私はフローリングの上に置かれたビーズクッションに沈み込みながら、何度も冴子さんに聞きたい言葉を飲み込んでいる。おかげでドラマの内容が一切入って来ない。
雑誌を読み終えるまで待とうかと思いつつ、意識がずっと冴子さんの方を向いている。
振り返ると目が合った。
「何? さっきから」
帰ってからそわそわしていたので、冴子さんもそれに気づいていたみたいだ。本当にこの人は人の気配に鋭い。いや、私が分かりやすいのだろうか。
「あの、ですね⋯⋯⋯⋯」
私はクッションから抜け出し、ソファに横たわる冴子さんの顔を覗いた。
「奈津、誘ってるの?」
「⋯⋯えっ!? ち、違いますよ」
私は時任先生とのことを聞きたかったのに変な勘違いをされてしまった。
「何だ、違うの」
露骨につまんなそうな顔をされる。
風邪を引いている間は別々の部屋で寝ていたし、この二週間は冴子さんの身体に触れることなく過ごしていた。
急にそのことを思い出させられて、無性に冴子さんを求めたくなってきてしまった。
「違うなら何なの」
「いえ、もうどうでもよくなりました」
「⋯⋯⋯?」
怪訝そうに眉根を寄せる冴子さんに構わず、私は覆いかぶさってキスをする。そのまま頭を押さえられて、もうそれしかできないくらいにひたすら唇を求め合った。
「さっきは否定してなかった?」
冴子さんはいじわるそうに笑う。
「気が変わりました」
「じゃあ、気が変わらないうちに」
冴子さんは私の服の中に手を入れ、素肌をまさぐられる。
先生とのことをもっとちゃんと聞きたかったけど、もう過去の話なのだから、わざわざ私が蒸し返すこともない。
目の前の大好きな彼女と愛し合う方が先だ。
何もかも忘れるくらい私たちは濃密な時間を過ごした。
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