第20話 あだ名



「昨日は冴子さえこさんとカレンダーを買いに行きましたよ」


『それは奈津なつちゃんが選んだの?』


「いいえ、冴子さんが選びました」


『どうせ猫の写真のカレンダーでしょ』


「そうです。猫です。よくわかりましたね。さすがお姉さんです」


 私はお風呂上がりに、冴子さんのお姉さんの薫子かおるこさんと電話で話していた。


 以前会った時に番号やメアドを交換して、暇ができるとよくやり取りをしている。最近では冴子さんより私と話す方が多くなった。


 薫子さんは快活で、優しくて、まさに理想のお姉さんだった。上に兄弟がいない私は姉ができたみたいで嬉しい。


『冴ちゃんは昔から猫の柄選んで買ってくるから。

子供の頃なんて犬派の兄さんとケンカしてたわ』


 電話の向こうから楽しそうな笑い声が上がる。


「お兄さんもいたんですね」


 初耳な話だった。


『冴ちゃんから聞いてない? まぁ、堅物な兄さんと自由奔放な冴ちゃんは反りが合わないからなぁ』


「⋯⋯仲悪いんですか?」


『悪いってほどじゃないんだけどね、兄さんがすぐ冴ちゃんに口出しすんのよ。それで冴ちゃんもイラッてしてケンカすることがあって。まぁ昔からだから、私からしたらいつものことね』


 冴子さんのお兄さんってどんな人なのだろうと気になる。でも冴子さんから聞いてないのに、薫子さんから勝手に聞き出すのも悪い気がした。


『ところで奈津ちゃん、近くに冴ちゃんいる?』


「今、お風呂に入ってます。そろそろ上がると思いますけど」


『そう。いないのね。奈津ちゃんは冴ちゃんの学生時代のあだ名知ってる?』


 何か含みをもたせたように、楽しげに話す薫子さん。


「いえ、聞いたことないですね」


 振り返ってみても、あだ名の話が出たことはない。


『冴にゃん』


「え?」


『冴にゃん、が冴ちゃんのあだ名。中高ずっとそれで呼ばれてたの、あの子。猫が好きすぎてそうなったらしいんだけど、おかしいでしょ』


 薫子さんが爆笑している。


「冴にゃん、さん」


『そうそう。冴にゃん。似合わないでしょ〜。試しにあとで呼んでみるといいよー。面白い反応するかもね』


 冴子さんがお風呂から出る前に私たちの電話は終了する。


 私の頭の中では『冴にゃん』の響きが踊っていた。


 しばらくしてお風呂から戻って来た冴子さんが、私の横に座る。


 ほんのり薔薇色に上気した肌が艶っぽい。


(冴にゃんさん)


 心の中で呼ぶ練習をする。


「奈津、電話で誰かと話してた?」


「ええ、まぁ」


「また姉さん? 随分仲良くなっちゃって」


「だめですか? 私にも本当のお姉さんができたみたいで嬉しくて」


「奈津が楽しいならいいけど」


 冴子さんはいまいち釈然としていなさそうな顔をしている。


 私が薫子さんと仲良くなったことで、冴子さんの過去が私に伝わるのを警戒しているのだろう。


 過去に冴子さんの昔の写真をもらったりしたし。

 意外と恥ずかしがりやなので、あんまり昔のことは知られたくないらしい。


 さてどのタイミングで呼んでみようか。


『冴にゃん』もその恥ずかしいあれかもしれないけれど。


 テレビを見始めた冴子さんを置いて、私はキッチンに行く。冷蔵庫からペットボトルのお茶を取り出した。


「飲みますか?」


「うん。ありがと」 


 私は冴子さんにそれを渡す。


 呼ぶタイミングは今だろうか。


「どういたしまして、冴にゃんさん」


「!?」


 見開かれた冴子さんの目が私を凝視する。


「⋯⋯⋯⋯⋯」


「⋯⋯⋯⋯⋯」


 沈黙が流れる。


「奈津」


「何ですか、冴にゃんさん」


「も〜、また姉さんからろくでもないこと聞いたでしょ!!」


 冴子さんの顔がさらに赤くなる。


「えへへ、ごめんなさい。あだ名になるくらい猫が好きだったんですね、冴にゃんさん」


「⋯⋯⋯奈津、面白がって」


「可愛いあだ名でいいと思いますけど」


「いいわけないでしょ!! もう奈津なんか嫌い」

 冴子さんは私に背を向ける。


「怒らないでください、冴にゃんさん」


 私は回り込んで、冴子さんの顔を覗き込む。


「嫌い」


 またそっぽを向かれる。 


「もう奈津とは口きかないから」


「ごめんなさい、あだ名で呼ばないので許してください、冴子さん」


 横顔から本気で怒っているわけではないことは伝わる。でもご機嫌を損ねてしまったようだ。


「知らない。奈津なんて知らない。あっち行って」


「行きません」


 私は冴子さんの正面にまわり、抱きつく。


「邪〜魔」


「どかないですよ、私」


 諦めたのか、冴子さんは私の顎を掴む。唇が近づいて来る。私は目をつむった。


「痛っ」


 キスされるのかと思ったら、軽くデコピンを食らった。


「奈津はいたずらっ子なんだから。昔の変なあだ名はなし。絶対になし。分かった?」


「分かりました。あだ名で呼びません、冴子さん」


「よし、いい子」


 頭を撫でられる。デコピンされたところにキスされた。


 取り敢えず冴子さんの可愛い反応が見られたのは良かった。


「冴子さん、そのあだ名になった経緯が知りたいんですけど、聞いたらダメですか?」


「そんなこと知ってどうするの? 大した経緯なんてないから。私が愛猫の話ばかりしてたら、いつの間にか変なあだ名が付いたってだけ。はい、この話はおしまい。あと姉さんと話すのはしばらく禁止」


 とういうわけで、薫子さんとの電話は当分おずけになってしまった。


 後日、薫子さんに話したら


「冴ちゃん、ヤキモチ焼きだから私と奈津ちゃんが仲良くしてるのが嫌なのよ」


 と笑っていた。 

       

 

 

  

     

             

      

           

 

 

         

      

             

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