第12話 お姉さんが来た
十月に入って最初の土曜日。窓の向こうには、爽やかな秋晴れの景色が広がっていた。暑すぎず、寒すぎずちょうどいい気温で、まさに行楽日和だった。
私はそんな気候とは裏腹に、さっきからリビングで置物みたいになっている。緊張で昨日からよく眠れなかったし、今も体中がそわそわしている。
「そんなに緊張するようなことじゃないでしょ」
「だって、冴子さんのご家族に初めて会うんですよ。緊張しますよ」
「姉さん一人に会うくらいで
今日家にやって来るのは冴子さんの四つ年上のお姉さん、
涼し気な目元に怜悧な雰囲気の冴子さんに対して、薫子さんは晴れやかで温和そうな柔らかい感じのする人だった。
「冴子さんに相応しくないって思われたら、どうすればいいんですか?」
そればかりが不安で仕方がない。冴子さんは私と交際していることを、薫子さんには打ち明けている。冴子さんの恋愛対象が男性だけではなく女性も含まれることを、薫子さんとお母様だけは知っているのだと言う。
「姉さんは私が誰と付き合おうと口出ししないから平気よ。仮に反対されても私は奈津と別れる気ないから」
冴子さんに後ろから抱きしめられる。首元にキスをされた。そのキスはかなり強く、私の首元を吸っている。
「ちょっ、冴子さん! キスマーク付けるつもりですか!?」
普段は服で完全に隠れなさそうな場所にはキスマークを付けない、というのが暗黙のルールなのだけど無視されている。
私も強く抵抗する気も何となく起きなくて、冴子さんが唇を離すまでそのままでいた。
「ごめん、付けちゃった」
その声音は微塵も悪いと思ってなさそうだった。
「もう月曜日仕事なのに」
「でも奈津、抵抗しなかったじゃない」
「それはそうですけど、薫子さんに見られたらどうするんですか?」
「見せるために付けたんだけど? これならもし姉さんが反対しようなんて思ってても躊躇うんじゃないかって」
「冴子さんってば⋯⋯」
正直、満更でもないので抵抗しなかった。冴子さんはいつも私の背中にキスマークを付けるせいか、自分では見られないので少し嬉しいと思っているのは秘密だ。
(後で鏡で確認して来よう)
会社に行く時はコンシーラーとファンデで隠しておけば、万が一見られても分からないはず。
何を思ったのか冴子さんは急に自身のシャツのボタンを外すと、胸元を露わにした。
「奈津も付ける?」
誘われてしまった。特別断る理由もないし、むしろちょっと嬉しくなっている私は冴子さんの鎖骨の下に唇を寄せる。
(日曜日のお昼前から何してるんだろう)
と思いつつ私はきっちりキスマークを残した。
「これだけじゃ口寂しい」
冴子さんが顔を近づけて来たので、私たちはしばらくキスしていた。キスだけでは物足りなくなりそうになったところで、インターホンが鳴る。
私から離れた冴子さんははっきりと舌打ちした。
「薫子さんが来るのは決まってたんですから、ご機嫌ななめにならないでください冴子さん」
「分かってる」
明らかに不貞腐れた冴子さんはマンションのオートロックを解除すると、玄関に向かった。私もどうしようか迷って付いて行く。
程なくして玄関のチャイムが鳴ったので私たちは薫子さんを出迎えた。
「いらっしゃい」
不機嫌そうな冴子さんに
「冴ちゃん久しぶり〜」
と薫子さんは明るく返した。
(この人が冴子さんのお姉さん⋯)
写真で見るよりもずっと美人で可愛らしい女性だった。ゆるく巻いた長い髪に灰色のスーツを着こなし、長身の冴子さんに負けず劣らず、薫子さんもすらりと背が高い。
(美人姉妹だなぁ⋯)
こんな綺麗な人たちに囲まれて、私は隠れたくなった。
「こんにちは。貴女が奈津さん?」
薫子さんの視線が私に向く。
「は、はい。こんにちは。
「こちらこそ冴ちゃんと仲良くしくれてありがとうね。そんなかしこまらなくていいよ。姉の薫子です。よろしくね、奈津さん」
薫子さんは太陽のようなキラキラした笑顔を惜しげもなく見せてくれる。こんな人が職場の先輩にいたら、なんて思ってしまう。でも冴子さんに言ったら機嫌が悪くなりそうだから心の中だけにしまっておこう。
私たちはリビングで少し早めだったがお昼を食べることにした。今日は冴子さんがカルボナーラを作ってくれた。
「奈津さん、ごめんなさいね。急に押しかけちゃって」
「いいえ、全然。お姉さんにお会いできて嬉しいです!」
薫子さんは仕事の出張でこちらに来たついでに、冴子さんに会いに来たらしい。普段は地元の北陸の会社に勤めているそうだ。
「私も冴ちゃん自慢の彼女さんに会えるの楽しみにしてたの。可愛いらしい人で良かった。妹がもう一人できたみたい」
「ありがとうございます」
「冴ちゃん年上ばっかりと付き合ってたからさ、今まで紹介されても妙に気を使っちゃって。でも奈津さん、年下だし可愛いし、やっと妹の理想の彼女に会えたって感じ」
褒められると恥ずかしくていたたまれない。
「姉さん、変なこと言わないでよ」
冴子さんが私と付き合う前は年上の人としか付き合ったことがないというのは、何となく聞いていた。
「だって、冴ちゃんの彼氏や彼女ってみんな十歳以上年上で私より年上なんだもん。ところで奈津さんは何で冴ちゃんと付き合おうと思ったの? 言っちゃなんだけど冴ちゃんって見た目がちょっといいくらいしか取り柄ないじゃない?」
何だか以前どこかで聞いたようなことを言う。冴子さんの同僚の
「そんなことないです。冴子さんは確かにあんまり愛想は良くないですけど、いつも優しいし、すごく気遣いの出来る方です。仕事でもプライベートでもいつも助けてもらってばかりで」
「冴ちゃん優しい? それなら一安心。この子ぶっきらぼうだから。怖い思いしてない?」
「全然です」
「姉さん、余計なことばっかり言って放り出されたいの?」
「ほら、冴ちゃんそういうところが怖いの。それにしてもこのパスタ美味しい〜。冴ちゃん、料理は上手いのよね。奈津さんも美味しいと思うでしょ? 」
「それはもう! 私も冴子さんの作るご飯大好きです!」
私が他の家事を全部やる変わりにご飯だけは毎日作ってもらうのも、ひとえに冴子さんの料理の腕が完璧だからだ。胃袋を完全に掴まれている。
「でもね冴ちゃん、奈津さんの作るご飯も好きみたいよ。特にハンバーグが美味しいんだっけ、冴ちゃん」
「姉さん、いちいち言わなくていいから」
「言ったからって困る話してないでしょ。奈津さんハンバーグが得意なのね」
「⋯⋯特にそういうわけでは。初耳です」
冴子さんが薫子さんにそんな話をしていたのを想像すると嬉しいような恥ずかしい気分だ。
「もう冴ちゃん、本人にもちゃんと伝えなさいよ。照れ屋なんだから」
「うるさいっ」
隣りで冴子さんが赤くなっているのを見て私も顔が熱くなってきた。
時折、薫子さんにからかわれつつ私たちのお喋りはしばし続いたのだった。
お昼を食べ終えた私はリビングで薫子さんから、猫の写真を見せてもらっていた。薫子さんが飼い始めた子猫で、名前はマルくんという。私も何度か冴子さんから見せてもらっているので、よく知っている。
「以前より大きくなりましたねマルくん」
「でしょでしょ。かなり成長してきて、元気に部屋の中走り回ってるよ」
「今日はお留守番ですか?」
「大きくなってきたとはいえ、まだ子猫だから実家に預けてる。奈津さんも猫好き?」
「はい。好きです。祖父の家で飼ってたことがありました」
「そうなんだ。奈津さんも猫好きなのね。冴ちゃんも猫大好きなのよね、昔から」
「確かに冴子さんは猫好きですね。よく野良猫を見つけると写真撮ってますよ」
「そうそう! 私にもたまに野良ちゃんの写真送ってくれるの。例えば⋯⋯これとか」
薫子さんはスマホに保存されている写真を見せてくれる。それは私も見たことがある写真だった。背景から会社の近くの公園だと分かる。
「あとね、これ。冴ちゃん的にはこれが一押しみたい」
「⋯⋯⋯⋯⋯っ!?」
突然、薫子さんのスマホに私の写真が出てきて私は驚いた。お盆に海に行った時の写真だった。水着姿の私が写っている。
「⋯⋯⋯⋯」
「姉さんっ!!」
冴子さんがすごく慌てふためいている。
「冴ちゃん、猫の写真送ろうとして間違えたみたいで。実は何回か奈津さんの写真送られてきてるのよ。フォルダの中、奈津さんと猫の写真どっちが多いのかなぁ。ねぇ、冴ちゃん。それともわざと間違えて可愛い彼女の自慢したかっただけ?」
「て、手が滑っただけだからっ!」
ものすごく狼狽している冴子さんを初めて見た。
「猫よりも彼女の方が好きだから手も滑るよね〜」
「だったら何なのよ!」
「何でもないよ。冴ちゃんと奈津さんが仲良くていいなぁって。仲良きことは素晴らしきかな」
薫子さんは冴子さんのお姉さんだけあって、一枚上手だ。彼女の手のひらの上で踊らされているように思ってしまうのは気のせいだろうか。でも私たちのことを認めてくれているみたいだし、そこはとても嬉しい。すごく恥ずかしいけれど。
「ねぇ奈津さん、冴ちゃんの昔の写真見る?」
「見たいです!」
昔がどれくらい昔かは分からないけど、私の知らない冴子さんを見られるのはちょっと楽しみだ。
「何でそんなもの持ってきてるわけ」
「そんなの面白そうだからに決まってるでしょ〜」
「姉さんは⋯。私は見ないからね」
冴子さんは一瞬恥ずかしそうな表情を見せると、テレビをつけて私たちのところから離れてしまった。
薫子さんはカバンの中から小さなケースを取り出した。そこには何枚も写真がしまわれている。
「実家から適当に見繕ってきたの」
テーブルの上に写真を広げる。
「これはまだ中学生の頃の冴ちゃんね」
今よりも幼いけれど、中学生として見ると随分と大人びた冴子さんが写っていた。セーラー服を着た冴子さんを見られるとは思わなかった。今の姿しか知らないだけに新鮮に映る。
「当時はバスケ部にいたの。ほら私たちでかいからさ、運動部にはよく誘われたのよね」
次はバスケ部のユニフォームを着ている冴子さんの写真。部員たちの中でひとつ抜けて背が高い。髪も短く凛々しい雰囲気がかっこいい。
「この頃の冴子さん、女の子にモテそうですね」
「あー、モテたね女の子に。バレンタインにチョコたくさんもらってたよ」
それを想像して嫉妬心が芽生えてしまう。昔の話をなのに。
もし私が同じ学校の後輩だったら冴子さんに憧れていただろうな。今の冴子さんの方がずっとタイプではあるけど。
「これが高校時代ね」
文化祭の写真だろうか。高校生になると髪を長く伸ばしている。美少女というよりも美人な佇まいだ。こんな子がクラスにいたら、私なら毎日ときめいてドキドキしてしまいそう。写真の中では出店でたこ焼きを作っていた。同級生たちと楽しそうに笑っている。
私の知らない冴子さんを知るのは楽しくもあり、ちょっと寂しい。そこに私はいないから。
「奈津さん、欲しい写真あったらあげるよ」
「いいんですか。大切な写真なのに」
「いいよ。こんなので欲しいのがあったらだけど」
「それじゃせっかくなので、いただいてリビングに飾ります」
「飾らなくていいから!」
冴子さんは眉間に皺をよせている。最近気づいたのだけど、この顔をするのは怒っている時ではなく照れている時だ。
「奈津さんどの写真にする?」
「迷いますね〜。あ、この写真がいいかも」
「こっちはどう?」
「これもいいですね」
「二人共バカじゃないの」
こちらに背を向けてツンとしてる冴子さんが何だかとても愛らしかった。
「ごめんね、二人の愛の巣を奪っちゃって」
薫子さんが泊まっていくことになったのだけど、この家で寝られる場所は冴子さんの部屋か私の部屋しかない。薫子さんはいつも私たちが寝ている冴子さんのベッドを使うことになった。
「バカなこと言ってないでさっさと寝たら」
冴子さんはにべもない。
「二人が夜中にいちゃいちゃしてても気づかない振りするから安心してね」
などと言われて私は穴があったら入りたくなった。さすがに今夜はそんなことはしないけれど。
「二人共今日はありがとう。おやすみ」
薫子さんは部屋に消えた。
「私たちも寝ましょうか」
「⋯⋯⋯⋯⋯」
「冴子さん、不貞腐れないでください」
週末はいつも夜ふかししているので、それが今日はできなくて冴子さんは不満らしい。
「寝る」
冴子さんが寝室に向かうので、私はリビングの明かりを消して後を追った。
「私のベッド狭くてごめんなさい」
シングルベッドに二人で収まる。いつも寝ている冴子さんのベッドはダブルベッドなので、広さが半分になってしまった。
「奈津、落ちないでよ」
「私、そんなに寝相悪くないです! 心配なら落ちないように抱きとめててください」
冴子さんに密着するように寄り添う。
「そうする」
私に伸ばされた腕が腰に回される。
毎日一緒に寝ているせいか、側に冴子さんがいないと落ち着いて眠れなくなってしまった。
取り敢えず薫子さんから私たちのことを認めてもらえてよかった。もう私には冴子さんが隣りにいない生活なんて考えられない。この人さえいたら、あとは何もなくてもいい。それくらい、私の中を冴子さんが占めている。
(冴子さんも同じように想ってくれてたら嬉しいな)
私は好きで好きでしょうがない彼女のぬくもりを感じながら眠りに落ちた。
翌朝も素晴らしく気持ちの良い秋晴れの青空が広がっていた。
「今回は奈津さんに会えて良かった! 冴ちゃんにしっかりした可愛い彼女がいて、安心して帰れる」
私たちは冴子さんの車で、薫子さんを見送るために東京駅まで赴いていた。
「私も薫子さんとたくさんお話できて楽しかったです」
「本当、奈津さんはいい子だなぁ。冴ちゃんに飽きたら私と付き合おう!」
「さっさと帰ってよ」
冴子さんはむすっとしている。私はその様子に笑いそうになったけど、後で怒られそうなので澄まし顔でやり過ごした。
「冴ちゃん怖い〜。冗談だって。奈津さん、この子、愛想は振り撒かないし、ぶっきらぼうだし、すぐ嫉妬するし、独占欲強いし、素直じゃないけどこれからも冴ちゃんのことよろしくね」
「はい。もちろんです!」
「悪口言うなら早く帰って」
「はいはい。お邪魔虫は退散しますよ。じゃ、またね!」
薫子さんは向日葵のような笑顔を残して帰ってしまった。
「いいお姉さんですよね。いなくなってしまって寂しいです」
「そう? 私はさっぱりしたけど」
「もう冴子さん、薫子さんの言うとおり素直じゃないですね。どこかでご飯食べて帰りましょうか?」
「家じゃ、ダメ? 帰ったら作るけど」
「冴子さんが構わないなら家でいいですけど⋯」
「奈津との二人きりの時間減ったから取り戻さなくちゃ」
さらりと何でもないことのように、嬉しいことを言われた。
(前言撤回する。最近の冴子さんは素直すぎて心臓が保たない)
毎日一緒に過ごしているのに、冴子さんの言葉一つでいつでも胸が高鳴る。体中の細胞全てで冴子さんが大好きだ。
私たちは二人の時間を過ごすために我が家へ向かった。
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