第23話 年末のやきもき

冴子さえこさん、お疲れ様でした」


「お疲れ、奈津なつ


 私たちはお酒が入ったグラスで乾杯した。


 場所は会社から徒歩15分ほどの場所にある洋食屋さん。目立たない立地ながら、この界隈では知らない人はいない有名なお店。


 昔ながらの美味しい洋食の数々。ランチタイムはいつも人で賑わっている。私たちもたまに昼食をここに食べに来ることがあった。


 今日で仕事納めの人が多いせいなのか、お店は夜でもそれなりに盛況だ。


 私たちは店の奥の席で久しぶりの外食。夜ご飯はいつも冴子さんの手料理だけど、たまには外で食べるのもいい。


 無事に仕事を納め、明日から休暇の始まる私たちは、すっかり気も抜けてどこか浮かれていた。


 冴子さんはハンバーグ定食、私はナポリタンを頼んで空いたお腹を満たす。


 食べ終えたところで冴子さんがトイレのために席を離れる。私は壁にかかった油彩で描かれた海辺の絵に思いを馳せる。


 冴子さんときちんとデートをしたのは海が初めてだった。あの時はまだ、お互いちょっと慣れてなくてぎくしゃくしてるところもあった。そんな昔のことでもないのに、遠い記憶のように思えてくる。


 それだけ私たちは同じ時間をいくつも重ねてきたという証のような気がする。


 一緒にアイスを食べたり、花火を見たり。夏の思い出が蘇る。


 私の意識が過去に戻って随分過ぎても、冴子さんは戻って来ない。


 どうしたのだろうかとトイレのある方を見れば、誰かと立ち話している姿があった。


 観葉植物の影であまり見えないけれど、相手は女性のようだ。


 しばらしくて冴子さんが席に戻る。


「誰かとお話してました?」


「うん、待たせてごめん。大学時代の後輩とばったり会ってね。連絡先交換してたの」


 冴子さんはテーブルに紙片を差し出した。それは名刺で、私も聞いたことがある会社の名前と、赤谷あかや柚花ゆずかという女性の名前が並んでいる。


「仲が良かった人なんですか?」


「まぁね。同じサークルだったし」


「そうなんですか」


 私の知らない大学時代の冴子さん。どう足掻いても学生に戻って冴子さんと同じ時を過ごすことはない。私の未知の冴子さん。


 何だか少しだけ、この赤谷さんという人に嫉妬してしまう。だってこの人は私の知らない冴子さんを知っているのだから。


「奈津、眉間にしわよってるよ」


 私は冴子さんに軽く人差し指で眉間をこづかれた。


「妬いてるの、奈津」


 ちょっとからかうみたいに意地悪く笑う冴子さん。全くこんなことまでお見通しなんだから、ずるい。


「ただの友人だから。別に元カノとかじゃないし」


「分かってますよー。分かってます。元カノなら最初にそう説明してくれるでしょうし、冴子さんならね」 


 それでもやっぱり好きな人の知らない姿を知っている人には、妬いてしまう。自分でも大人げないかなと思っている。


(私は冴子さんの彼女なんだから、もっと自信持たなくちゃ)


 改めて決意しているのを冴子さんは優しい眼差しで見守ってくれていた。きっと私が何を思っているか全部お見通しなのだろう。


 私たちは会計を済ましてお店を出た。十二月にしてはあまり寒くない風に吹かれて、駅まで向かう。


「冴子先輩っ!」


 しかし途中で誰かに呼び止められて冴子さんの足が止まった。私も立ち止まり振り返る。チョコレートブラウンのスカートを翻して女性が走って来る。

 転んだりしないだろうかと気になっていたら、私たちの手前でよろけそうになり、冴子さんがすかさず支えた。


「赤谷、大丈夫?」


「大丈夫です。ナイスキャッチですね、冴子先輩。さすがです」


 見つめ合う二人を私は他人事のように眺めていた。


 赤谷と呼ばれたのは先程の名刺の人。


 明るい髪色を肩の上で切りそろえて、ゆるく巻いている。それが色白で小さい顔を引き立たせていた。大きな瞳に見事なまでな猫顔は、ふとした瞬間に猫にでもなってしまいそう。


 一言で簡単に説明するなら『可愛い』。


 赤谷さんは私よりは年上のようだけど、すごく可愛らしかった。


「冴子先輩、相変わらず反射神経いいですよね」


「あんたが鈍くさいだけでしょ。ほら、いい加減自分で立ちなさい」


「ええ〜、もう少し冴子先輩に甘えていたかったのに。残念〜」


 カップルみたいなやり取りに、私はまた眉間にシワが谷を作るのを感じていた。思わず前髪をいじって隠してしまった。


「赤谷、呼び止めた用件は何?」


「ああ、そうでした。さっき冴子先輩に渡そうと思ったらお店出た後だったので」


 持っていたかばんを開いた赤谷さんは何か包みのようなものを取り出した。


「これ、うちの会社で最近出したばかりのシャンプーの試供品なんです。冴子先輩に使ってほしいなぁって。だから渡したくて。いっぱいあるので、冴子先輩のお連れさんもよかったらもらってやってください」


 赤谷さんは私にもそのシャンプーが入った包みを手渡した。


「⋯⋯ありがとうございます」


「いえいえ。是非使ってみて気に入ったら買ってください。気に入ったら、でいいので」


 にこりと天使のような愛らしい笑みを赤谷さんに向けられて、嫉妬していた自分が妙に子供っぽくて、情けなくなる。


「一定数に配らないといけないノルマでもあるの?」


 冴子さんは別の心配をしていた。


「全然そんなんじゃないですよ。ノルマなんてないので。ただいっぱいあるから女友だちに配りまくってるんです。あげるとけっこう喜んでもらえるし」


「そう。ならいいんだけど。せっかくだからもらっておく。ありがと、赤谷」


「どういたしまして。あとさっき伝え忘れたんですけど、ともえ先輩が北千束きたせんぞくにカフェ出したんですよ」


「へぇ。巴先輩、夢叶えたのね」


「そうなんです。冴子先輩も是非遊びに行ってください。きっと巴先輩も喜びます。帰ったらラインしますね。いいですよね?」


「好きにして」  


「分かりました。好きにしますね。それじゃ私はあっちなので、これで。お連れさんも引き止めってしまってごめんなさい」


「いえ、大丈夫です」


 赤谷さんは来た方向へと去って行った。


「ちゃっかりしてるけど可愛い人ですね、赤谷さん」


「妬いてるの、奈津?」


「それさっきも聞きましたよ。妬いてません。⋯⋯ちょっと嘘ですけど」


「こっちおいで」


 冴子さんに手を取られる。


「帰ろう。家に着いたらこの間みたいにお風呂に一緒に入ろうか。まだあったでしょ、苺の入浴剤」


「ありますよー。またかき氷の氷の気分になるんですか?」


「なったっていいじゃない。丁度シャンプーももらったし。髪洗ってあげるから」


 手が温かい。心が温かくなる。冴子さんのぬくもりを感じて。


 私は冴子さんを手放したくない。

 

 

 

 お風呂から上がって、私は冷蔵庫から取り出したお茶をグラスに注いでリビングへ持って行った。


 グラスをテーブルに置いて、スマホを見ている冴子さんの隣りに座る。


「お茶、どうぞ」


「ありがとう、奈津」


 そこで見計らっていたかのようにラインの通知音が鳴る。


「赤谷からだ」


 私は気になりつつも見るわけにもいかないので、少し離れたところに移動してテレビを見る。適当にチャンネルを変えて、何かのバラエティ番組にする。笑い声が聞こえてくるけど、気が気じゃない私はテレビには集中できず、ちっとも笑える気分ではない。


 それでもなるべく気にしないようにしてお茶を喉に流し込んだ。


「ねぇ、奈津」


「ひゃっ、ひゃいっ!!」 


 突然話しかけて来た冴子さんにびっくりして、私は危うくお茶でむせるところだった。


「ごめん、驚かせた? すごい声出たよね」


 冴子さんの目元が笑っている。きっと何でこんなことで驚いてるのかと呆れているのかもしれない。


「あはは、ちょっとテレビに夢中になってて」


 苦しい言い訳をする。


 しかし冴子さんは特に気にした風もなく、余計な心配をさせずに済んだようで安堵した。


「奈津も猫は好きだよね?」


「そうですね」


 冴子さんをデレデレにさせることができる数少ない生き物の猫にも、私は妬いてしまうことがあるけれど嫌いなわけじゃない。


「さっき赤谷が先輩がカフェを出したって話をしてたじゃない」


「そう言えばそんな話をしてましたね」


「赤谷がそのカフェ出した巴先輩の所に明日遊びに来ないかって言うのよ。先輩と赤谷も仲良かったから、どうしても私に来て欲しかったみたいで。その巴先輩も猫が好きで猫のカフェを開いたらしいの。本物の猫はいないみたいなんだけど、色んな猫グッズ置いてるんだって」


「へぇ、そうなんですか。猫のカフェいいですね。でも私も一緒だったら邪魔にならないですか?」


「奈津のことは取り敢えず大事な後輩とだけ紹介してて。そしたら後輩さんも一緒にどうって?」


 私の脳内には先程会った赤谷さんが浮かぶ。それはもう飛び切りに可愛らしい笑顔で。冴子さんは取られたりしないけど、それでもあまりに可愛いと妙に警戒してしまう。私は心が狭いのだ。


 正直私なんかより赤谷さんの方が冴子さんといて様になるし。


「嫌なら無理にとは言わない。奈津にとっては知らない人たちだし、気を遣うものね」


「嫌ってわけじゃなくて、せっかく大学時代の仲間水入らずを壊してしまったら申し訳ないかなって」


「奈津がいてそんなことになるわけないでしょ。ところで奈津、なんで距離空けて座ってるの?」


 冴子さんにがっちりと腕を掴まれる。そしてそのままぐいっと抱き寄せられた。


「寒いからもっとこっちに来なさい」


 部屋には暖房が入ってるから実際には寒くも何ともない。冴子さんなんて珍しくモコモコの部屋着を身に着けているし。


(察しがいい冴子さんだから、私が赤谷さんにもやもやしてることに気づいてるのかも) 


「冴子さん、そのカフェ行きたいです」


「そう。無理してない?」


「してないですよ。私もどんなカフェか気になりますから」


「急に予定ができて大丈夫?」


「私はいいですよ。どうせ予定がなければ家でごろごろしちゃうだけですから」


 こうして私たちの冬休み初日は冴子さんの先輩のカフェへと赴くことになった。

 

    


                

 10分ほど電車に揺られて着いた北千束の駅。そこから少し歩いた場所にそのカフェはあった。『カフェ・猫日和』の黒い看板には可愛い猫のシルエットが描かれている。


 冴子さんがドアを開けると、カランカランと小気味のいい音が鳴った。


 入るとお店の中は暖かく、コーヒーのいい香りが漂っていた。年末のせいか、お客さんはまだいないようだった。


「こんにちはー」 


 二人でカウンターの方に声をかけると、中にいた女性がぱっと明るい笑顔になる。


「えっ⋯⋯冴子? 冴子だよね?」


 女性はこちらに駆け寄って来る。


「お久しぶりです、巴先輩。赤谷に教えてもらって遊びに来ました」


「昨日柚花から冴子に会ったって聞いてたけど、まさか昨日の今日で会えるなんて思わなかったからびっくりしたよ! 元気にしてた?」


「ええ、変わりなく。巴先輩もお元気そうで何よりです。念願のカフェを開くことができたんですね」


「そう、そうなの。冴子にも連絡したかったんだけど、連絡先分からなくなっちゃって⋯⋯。赤谷も知らないって言うし。でも昨日たまたま会ったから、冴子にも私のこと話したって聞いてさ。また冴子に会えるかもって思ったら嬉しくて。来てくれてありがとうね。そちらはお友だち?」


「いえ、彼女です」


 冴子さんは日向のような優しい笑顔でそう言った。


(彼女⋯⋯、彼女)


 友だちでもなく、後輩でもなく、『彼女』として紹介してくれたことに、私は思わず冴子さんの横顔を見上げる。


「奈津、大丈夫よ。先輩は私のことちゃんと知ってるから」


 安心させるためか、冴子さんはそっと私の背中をぽんぽんする。


「彼女は私が今付き合ってる、藍田あいだ奈津。同じ部署で働いてるの」


「冴子ってば社内恋愛してるの? そういうところ相変わらずなのね。こんにちは、はじめまして。藍田さん。私は宮崎みやざき巴といいます。冴子は大学時代の後輩なんです。今日は来てくださってありがとうございます」


 巴さんは私に手を差し出したので、私も握り返した。


「はじめまして。藍田奈津と申します。よろしくお願いいたします」


 向日葵みたいな明るい笑顔を覗かせる巴さんは、見ていてきっと後輩や仲間に慕われている人なのだろうと分かる。だからこそ冴子さんも仲良くなったに違いない。


 私たち二人はカウンター席に招かれて、そこに座る。出してくれたメニューには猫の足跡が道標のようについている。


 店内を見回せば、あちらこちらに猫がいるのが見えた。


 猫の柱時計に、猫の写真。棚には手のひらサイズの猫の置物が並んでいて、招き猫は愛嬌たっぷりのピンク色。カウンター席に置かれたナプキン入れも猫の形。


 隣りに座る冴子さんも店内に目を馳せる。


「本当に猫だらけ。巴先輩も猫大好きだったこと思い出しました」


「これくらいじゃ、まだまだだよ。もっと増やすつもり。いずれはうちの猫を看板猫にしたいしね」


「巴先輩、猫飼ってるんですか?」


「ええ。去年やっとお迎えできたの。サバトラと三毛猫の女の子。どちらも元は保護猫だけど、すごく人懐こいのよ。冴子にも会わせたいくらい」


「それは是非会ってみたいですね。⋯⋯あの壁の写真が先輩の家の猫ちゃんなんですか?」


「うん、そう。野良の写真もあるけど、右端のサバと三毛はうちの子」


 それから二人はしばらく猫談義に花を咲かせていた。嬉しそうに話す二人を見ているだけで、何だか癒やされる。


 話が落ち着いたところで冴子さんと私はコーヒーとパンケーキを頼んだ。できるのを待っている間、私たちは写真を見に席を立つ。


「冴子さん、猫の親子いますよ」


「あー、本当だ。子猫ちっちゃいね」


「可愛いですよね」


 写真を見ながら話してたら、背後からカランカランとドアベルの音がして、私たちは揃って振り返る。


 そこには赤谷さんが立っていた。


「冴子先輩、先に来てたんですね。昨日のお連れの方も」


 目が合ったので私は会釈すると、赤谷さんも同じように返す。上手く笑顔を作れただろうか。やっぱり愛らしくて眩しさすら感じる赤谷さんには、気後れしてしまう。


「赤谷も来たの」


「来るって言ったじゃないですか。本当に冴子先輩冷たい! もっと優しい言葉かけてくださいよ」


「私はいつだって優しいけど。ねぇ、奈津」


 突然私に振られたものだから、ただ頷くことしかできない。 


「優しさが足りないですよ〜」


 頬を膨らませてむっとしてる様の赤谷さんも、そんな仕草がわざとらしくなく、ナチュラルに可愛らしい。私にはこんな表情も仕草もできない。そう思うとまた落ち込んで来る。彼女と自分を比べても意味はないと分かっていても。


「はいはい、冴子も柚花も久しぶりに会っても相変わらずね。藍田さんが困ってるじゃない。できたから、どうぞ召し上がって」


 巴さんがカウンターに美味しい香りをまとったコーヒーとパンケーキを並べてくれる。私と冴子さんは席に戻り、赤谷さんは私とは反対の席に座った。ちょうど冴子さんを真ん中にして。


「わぁ、美味しそう〜。巴先輩、私にも同じのください」


 甘い声で赤谷さんがお願いする。


「冴子先輩、私の分が来る前に味見させてください!」


「何でよ。今頼んだんだから、それを待ちなさいよ」


「え〜、冴子先輩のケチ。いいですよー、勝手にもらうから」


 赤谷さんは止める隙もなく冴子さんのコーヒーに口をつけた。


「もう、赤谷! 本当にあんたって奴は⋯⋯」


 いつも冷静の塊みたいな冴子さんも思いっきり呆れ顔をしている。そんな二人を苦笑いしながらも、見守るような眼差しで見つめる巴さん。


 きっと学生時代もこんな風景が繰り広げられていたのだろう。そこだけ時が戻ったようで、私は見えない壁のようなものを感じていた。


「柚花、今用意するから、コーヒーは冴子に返してあげなさい」


「はーい」


 赤谷さんが返した黒猫柄のカップにはサーモンピンクの口紅がうっすら残っている。


 やっぱり私はまたもやもやしている。


「冴子も藍田さんも、パンケーキ食べてみて。すごく美味しいバターを使ってるの。口に合うといいんだけどね」


「奈津、食べようか」


「あっ、はい」


 私はもやもやを振り払ってパンケーキに目を落とす。見るからに美味しそうなふかふかのパンケーキには看板にいたのと同じ猫の焼印が押されていた。


 さっそく私たちはパンケーキに口をつける。くどすぎない甘さが口に広がって、たちまち幸せな気分になってしまった。


「巴さん、パンケーキすごく美味しいです」


「藍田さん、ありがとうございます。お口に合ってよかった。そんな美味しそうな顔してくれるなんて、嬉しいですね。冴子はどう?」


「美味しい」


「冴子はもう少し顔に出してくれたらいいんだけどねぇ。まぁ冴子は絶対にお世辞言わないから、本音って分かってるけどね」


「ちょっと巴先輩、私にも早くコーヒーとパンケーキ出してください! 私だって最高に『美味しい』を表現できますから! 冴子先輩、やっぱり味見を⋯」


「柚花、分かった、分かった。今準備するから冴子の分を取るのはやめなさい」


「赤谷、少しは落ち着きなさいよ」


 二人にたしなめられて、赤谷さんはバツの悪そうな顔をする。それだって、憎めない可愛らしい後輩といった風情で、巴さんからも冴子さんからも可愛がられていたのが分かる。 


 私がここに来たのは正解だったのだろうか、そんなことを思うと美味しいパンケーキがしょっぱくなってしまいそうで。私は赤谷さんのことを気にすまいと努めながら、ミルクと砂糖を入れ忘れた苦いコーヒーを飲んだ。

 

 

 食事を終えて、私たちは巴さんの猫の写真を見ていた。タブレットに映し出された、巴さん家のサバトラとミケネコ。


 とてもよく巴さんに懐いてるようで、警戒心もなくだらりとくつろぐ猫たちの姿は、それだけで天使だった。


「可愛いね⋯⋯」


 冴子さんは猫にうっとりしている。どうやっても私は猫には叶わない。もうこれは諦めるしかない。だって猫ちゃんたちは可愛いもの。


「猫デレな冴子先輩もとーっても可愛いですよ?」


 私とは反対側にいる赤谷さんも、冴子さんにひっついてデレている。これはちょっと許せないけど、私は『彼女』なのでなるべく寛大な気持ちでいることにした。


 そう、私は冴子さんの彼女なのだから。


「赤谷、褒めても何も出ないからね」


「別に何も期待してませんよー」


「そんなにくっつかないでよ、赤谷。鬱陶しい」


「巴先輩〜、冴子先輩が冷たいです」


「柚花がうざいから仕方ないね⋯」


「もう、巴先輩まで。ねぇこれひどいと思いません、藍田さん」


「えっ、あっ⋯。どうなんでしょうね⋯」


 私はわたわたしたながら、当たり障りなく返す。どうにもこの三人の輪には入れそうもない。


「あの、巴さん、お手洗いお借りしてもよいでしょうか?」


「ああ、お手洗いね。そこの奥にあるから」


「ありがとうございます」


 私はいたたまれなくてトイレへと逃げ込んだ。


 猫グッズでそろえられたトイレで一息つく。壁に飾られた天使の羽の生えた猫の絵に、ちょっとだけ気がまぎれた。


 私も天使のような広い心持ちでいられたらいいのに。


 冴子さんと赤谷さんの気心知れたやり取りに、私はずっとやきもきしてばかりだ。


 トイレから出て手を洗っていると誰かが入って来た。もしかして冴子さんかと思い、扉の方を見たら巴さんだった。


「トイレの中に飾ってあった絵、素敵ですね。天使の猫ちゃん」


 何を話していいか分からず、取り敢えず絵の話が口をついて出た。


「あれ、気に入ってくださったのね。ありがとう。絵の得意な妹に描いてもらったものなんです。妹にも伝えておきます」


「妹さんが。是非素敵な絵だとお伝えください」


「それは、もう喜んで。ところで藍田さん」


「はい」


「冴子と柚花のこと気にしてます?」


「えっ⋯」


「何となくですけど、柚花が来てから藍田さん元気ないようで。彼女だったら、あんなに他の女性にベタベタされたら、ちょっと嫌な気分になっちゃわないかなって」


「隠してたつもりなんですけど、巴さんにはバレてしまったみたいですね」


 さすが冴子さんの先輩と言ったところだろうか。


「藍田さんにこんな話をしていいか分からないですけど、柚花は冴子のこと好きなんだと思うんです。昔からあんな感じで。でも冴子は柚花のことは後輩としか見てなくて。だから冴子が柚花のことを藍田さん以上に想うことはないと思います。柚花には可哀相ですけどね」


「赤谷さんが冴子さんのことを好きなのは伝わってきます。慕ってるんだなぁって。私はあんな風に冴子さんに接したことなくて。ちょっと妬いてます」


「ちょっと、ですか?」


「うーん、かなり、かも」


 私たちは笑い合った。


「冴子を見ていると藍田さんを大切にしてるの分かるんですよ。目が違いますからね。藍田さんを見る時の目が。冴子はあんまり感情が表情に出ない子だけど、目は正直ですからね。私なんかの言葉では頼りないかもしれませんが、藍田さんはもっと彼女として自信持って大丈夫ですからね」


「はい、ありがとうございます」


 巴さんに言われると、素直に大丈夫って思えるから不思議だ。だからこそ、私は巴さんにはやきもちの感情が出ないのかもしれない。


 二人で店内に戻ると何故か赤谷さんが怖い顔をして待っていた。


「二人でトイレで何してたんですか?」


 心なしか声も低くドスがきいてるように感じる。


「藍田さんと絵について話してたのよ。ね、藍田さん」


「はい。天使の猫ちゃんの絵について話してました」


「ふーん?」


 何故か赤谷さんは少し機嫌が悪そうだ。冴子さんはタブレットで猫がじゃれ合う動画を見て頬を緩めている。


「そうだ、藍田さん。あのね妹が作った本があるの。よかったら見て行かない?」


「是非見たいです!」


 巴さんはカウンターの向こうから本を持って来て、私に渡してくれた。


 淡い水彩で描かれた黒猫がとても可愛らしい。


「すごいですね。妹さん、絵本作家なんですか?」


「全然。それは自費出版ってやつ。妹は普通のOLよ。たまに絵の仕事もしてるみたいだけどね。完全にプロってわけではないの」


「それでも本を作れるなんてすごいですよ」


 私と巴さんは絵の話で盛り上がった。冴子さんは変わらず動画に夢中になっている。赤谷さんはと言えば、私に鋭い視線をよこす。


「藍田さん、コーヒーのおかわりいる?」


「はい、いただきます」


 そんな何気ない巴さんとのやり取りにも赤谷さんは不満げに私を見る。


 そして私は先程の巴さんの言葉を思い出す。


『柚花は冴子のこと好きなんだと思うんです』 


(そうは言っていたけれど、もしかして赤谷さんが好きなのは冴子さんじゃなくて⋯⋯)


 昔から冴子さんに懐いていたらしい赤谷さん。冴子さんが好きだとして、私の存在はさして脅威に感じてるふしはない。それは私が彼女だと知らないからとも言える。


 けれど、私だってただの後輩である赤谷さんに嫉妬している。本当に赤谷さんが冴子さんが好きなら私に少しは嫉妬したっておかしくないはずだ。

 そして赤谷さんは私が巴さんと話していると、あまり機嫌がよろしくない。


「奈津、どうかした?」


 冴子さんが黙って考え込む私を気にしてか、顔を覗き込む。


「いえ、何でもないですよ。冴子さんもこの絵本見ませんか? ほら、猫の絵がすごく可愛らしいですよ」


 私はわざとらしく冴子さんの腕を取って体をよせる。普段は出さないような甘ったるい声と共に。


 赤谷さんの方を盗み見れば、特に興味もなさそうに私たちを見ている。


(やっぱり赤谷さんが好きなのは冴子さんじゃなくて、巴さんなのでは?)


 赤谷さんが冴子さんに懐いてるのは後輩として、先輩を慕っているにすぎないのかもしれない。もしくは、巴さんにわざと見せつけている、とか。相手の気を引きたくて。


(私の推測が100%当たってる保証はないけど、確かめてみる価値はあるかも)


「巴さん、あのよろしければ連絡先教えてくれませんか? 私『猫日和』のことがすっかり気に入ってしまって。これからもちょくちょく来られたらなぁと思いまして」


 ちょっと唐突すぎたかもしれないが、これで赤谷さんがどんな反応するか。


「奈津?」


 冴子さんが驚いている。


 更に驚いているのは赤谷さん。どこか焦っているような表情に私は確信した。


「巴さん、いきなりすみませんでした。失礼でしたよね。それによく考えたら冴子さんが連絡先知ってますから、私が聞くことはなかったですね」


「ううん、全然失礼なんてことはないので気にしないでください。そうだ、冴子の連絡先まだ聞いてなかった!」


「ああ、そう言えばまだ交換してなかったですね」


 冴子さんが思い出したようにカバンからスマホを取り出す。そしてそこで二人が連絡先を交換し合う。赤谷さんは実に複雑な表情だ。何だか赤谷さんにいじわるしてる気分になって申し訳なくなって来る。


 でも彼女が冴子さんのことを好きじゃないなら、もう何も気にしなくてもいいのだ。私はさっきまで抱えていたもやもやを手放していた。

 

 

 

 今日は色々と感情が揺らいだ一日だった。おかげで疲れてしまったけど、また冴子さんと一緒にお風呂に入って、のんびりできたのでよしとしよう。


 ちなみに今日の入浴剤は冴子さんが見つけてきたラベンダーの香りのものを使った。さすがに苺のかき氷はもういい。


 お風呂上がりの私たちはリビングのラグマットの上で、ラジオを聞きながらゆったり過ごしていた。


「冴子さん、明日はどうしましょう? またどこかに出かけますか? それとも家でのんびりします?」


「そうね。買い出しに行っておく? お正月は家でゆっくりしたいでしょう?」


「ですね。それじゃ明日は買い出しに行きましょう。ところで冴子さん、お雑煮作れますか?」


「作れるけど、多分関東のお雑煮とは違うかも」


「冴子さん、石川の出身ですもんね。ってことは石川風のお雑煮ってことですよね」


「そうなるかな。それでもいいなら作るけど」


「是非、お願いします」


 話していると冴子さんのスマホから電話の着信音が鳴る。


「誰からですか?」


「⋯⋯赤谷から」


 冴子さんはスマホの画面をこちらに向けて見せてくれる。確かにそこには『赤谷柚花』と表示されていた。


「すみません、冴子さん。私が出てもいいですか?」


「奈津が? 何か赤谷と話したいことあるの?」


「はい。だから、出てもいいですよね?」


「⋯⋯いいけど」


 珍しくたじろぐ冴子さんをよそに私は電話に出た。


『もしもし、冴子先輩! 私です。柚花です』 


「こんばんは、藍田です。ごめんなさい、、私が出てびっくりしましたよね。どうしても赤谷さんと話したくて」 


『えっ、藍田さん⋯?』


 電話の向こうから戸惑った気配。でも私は構わず続けた。


「赤谷さん、冴子さんにあんまり頻繁に連絡しないでもらえますか? 冴子さんは『私の彼女』なので。話は以上です。それではまた。よいお年を」


 私は向こうから聞こえる声を無視して電話を切った。


「奈津⋯⋯?」


 困惑している冴子さんと目が合う。


「彼女なんて言っちゃってまずかったでしょうか?」


「別に私はいいんだけど、どうしたの急に」


「どうしたも、こうしたも。ただ単に私が赤谷さんにやきもち妬いてたってだけです。だから牽制したんですよ。赤谷さんを。それだけです」


 赤谷さんがもし巴さんを好きなら、これで彼女も私にやきもきせずに済むのではないだろうか。


「奈津、赤谷に嫉妬してたわけね。どうりで今日も途中から様子がいつもと違うと思った」


「気づいてましたか?」


「そりゃあね、奈津の微妙な変化くらい分かるに決まってるじゃない」


「取り敢えず赤谷さんのことは今は忘れてください。今の私は冴子さんにかまってほしくて仕方ないんですから」


 私は冴子さんにのしかかって、そのままラグマットに押し倒す。


「今日の奈津は積極的ね」


 冴子さんも妖艶な笑みを見せる。


「嫌ですか?」


「まさか。嫌だと思うわけ? おいで」


 両手を広げた冴子さんに私は飛び込んだ。


 冴子さんは私の彼女なのだから、このぬくもりは私だけのもの。


 今年の最後までずっと。これからもずっと。                          

 

   

          

        

 

               

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