特別編1 冴子さんと私と本屋の出来事
仕事帰りに私は
駅前の本屋はそれなりに広く、遠くまで連なる書架に、めまいがしそうなくらい圧倒される。
ありとあらゆる様々な本が並ぶ様は、特別に本好きじゃなくてもわくわくするものだ。
私と冴子さんは本屋の真ん中の通路を進む。姿勢がよく、背も高い冴子さんが迷いなく歩く姿はとても絵になった。
この人の彼女になってどれくらいの月日が過ぎたのだろう。でもどれくらいたっても、何度でも見惚れてしまう。
かっこよくて美しくて、優しくて、思いやりがあって、いつも私を大切にしてくれる自慢の彼女。それが冴子さんだ。
この広い本屋に並ぶ魅惑的な小説のどの素晴らしい主人公だって、私からしたら冴子さんには敵わない。
私だけの、とっておきの主人公。それが冴子さんだ。
「
「そんなんじゃないですよ。冴子さんって本当にきれいだなと思って」
私は隠しもせず、誤魔化すこともせずに、素直に思っていることを伝えた。
途端に冴子さんの耳が真っ赤になって、
「いきなり、何!?」と久しぶりに動揺している姿を見た気がする。
「何でもないですよー。冴子さんはきれいだなって話です」
「⋯⋯何か買ってほしい本でもあるの? 高い本なんでしょ⋯⋯」
「もう、違いますってば。今のは本音を言っただけです」
「⋯⋯そう」
冴子さんはそっぽを向くと、またすたすたと通路を歩き始める。でも耳も頬も赤くて可愛い。いつも冴子さんには敵わないからたまにはこういうのも悪くないはず。私だって、冴子さんが大好きでいてくれるように、大好きなのだから。
途中で女子高生らしき二人組とすれ違う。二人が確かに冴子さんに釘付けになっているのを、私も見た。
「今の黒いコートの人、めっちゃ美人⋯⋯」
右側にいた女子高生のつぶやきが耳に届いた。
(でしょう、でしょう。冴子さんは美人なんですよ。見た目も心もとっても)
心の中で返して、私は冴子さんの後に続く。
歩いているうちに本屋の端まで来てしまった。目の前の書架には辞書が並んでいた。
「冴子さんがほしかったのって、辞書ですか?」
「違う⋯⋯。えーっと、何探してたんだっけ⋯⋯」
「忘れちゃいましたか? 他に考えごととかしてると、本来の目的忘れたりしますよね」
「ええ、そうね。これは奈津のせいだけど」
「私のせいなんですか!?」
「そう、奈・津・の・せ・い!」
むにむにとほっぺたを引っ張られる。やわやわと触れられてるので痛くはない。痛くしないのが、冴子さんの優しさの現れでもある。
「私、何もしてませんよー。何を探してたんですか?」
と聞いて、やっと冴子さんの手が離れる。それがなんだか名残りおしいけど、本屋の最奥とは言え、人目がないわけではないのだから、仕方ない。
「レシピ本。ネットで見て良さそうだったから」
それは冴子さんらしい探しものだ。冴子さんは料理が好きであり、得意である。冴子さんが作る料理があまりに美味しくて、同棲してそうそうに、私が半ば無理矢理にわが家の料理担当にしてしまったくらいに。
だって自分で作るよりも断然美味しかったから。他の家事を全部私が担当してでも、冴子さんのご飯が食べたかったのだ、私は。
「レシピ本ってどの辺りにあるんでしょう。あっちに戻りましょうか」
私は冴子さんの手を軽く引いて、レシピ本がありそうな場所を探す。
半分ほど戻ったところで、書架に『料理』の二文字を見つけた。
「冴子さん、ここじゃないですか?」
「ここにあるかも」
私たちは棚の合間に移動する。
思った通り、レシピ本や料理関係の本が並んでいた。
「冴子さん、置いてそうですか、目的の本」
「うーん⋯⋯」
書架のあちこちに目線を移動させながら、冴子さんは本を探す。私は横でその様子を見つめる。
「あった!!」
しばらくして冴子さんは書架中段に手を伸ばした。取り出したのは「トマトを使った30のレシピ」という本だった。表紙には見ているだけでお腹がなりそうな、美味しそうなミネストローネの写真。
「冴子さん、もしかして私のために、その本探してくれましたか?」
「⋯⋯奈津がこの間トマトトースト美味しい、って言ってたから」
それだけじゃなく私は「もっと色んなトマト料理食べたくなりました」と言った。それを冴子さんは覚えていてくれた。
この人は、私の彼女は、一から十までいつも私のことを思ってくれている。私がどうすれば喜んで、嬉しくて、幸せか。それを当たり前みたいに考えてくれる人。
「しばらくはトマト料理になりそうですね」
「さすがに毎日は作らないけど。奈津が毎日食べたいなら別だけどね」
「せっかくだから、一週間はトマト料理生活にしませんか?」
「一週間って⋯⋯。飽きない?」
「私は冴子さんの作るご飯なら飽きないですよ。全然。飽きたこともないですし」
「そこまで言うなら、帰りにトマトたくさん買って帰ろうか」
「ですね。トマト祭りにしましょう。冴子さんか私が飽きたらお開きってことにして」
私たちは本屋でレシピ本を買って、帰りはもちろん、トマトを買って帰った。
その後一週間トマト祭りになったのは言うまでもない。
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